前奏 奏楽者
招詞 イザヤ書 60編2節 司式者
賛美 17(124)聖なる主の美しさと 一同
詩編交読 52編(61頁) 一同
賛美 500(124) 神よ、みまえに 一同
祈 祷 司式者
聖 書 出エジプト記16:3~5 (旧119)
マタイによる福音書
6章11~15節 (新 9)
説 教
「『私たち』の神への祈り 」 小林牧師
祈 祷 小林牧師
賛美 504 主よ、み手もて(124) 一同
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条 一同
奉 献 一同
主の祈り 一同
報 告 司式者
頌 栄 25 父・子・聖霊に 一同
祝 祷 小林牧師
後 奏 奏楽者
出エジプト記16:13~16
マタイによる福音書6:11~15
主の年2021年、新しい年が混沌の中に始まっています。
外出自粛を言われる中ですが、年のはじめの神社仏閣はいつもほどではなくとも賑わっていたというニュースを見ました。日本人の習慣、年に一度改まり祈るというのでしょうか。新年の神社ではあらゆる神々と思しきがある中の「年の神」にその年の繁栄を祈るのだと聞きました。お寺に行かれる人たちもいる。日本は平安時代から神仏混淆、神と仏が一緒くたとなって、それは現代に至るまで多くの人の中に曖昧な形で根付いていますが、曖昧で良く分からないまま、祈る対象が何なのか分からないまま、年に一度神社仏閣に「お賽銭」のコインを投げ込み、後ろに並んでいる人たちを気にしながら短く「祈願」をするのでしょう。そして「商売繁盛」「学業成就」「家内安全」などと書かれた札のようなものを持って帰る人が多くおられます。
これらの願いというのは、実は非常に内向きな、個人の願望、「自分と自分の家族だけが良ければ」という願いで溢れているような気がします。人間は欲深いし、本当に自己中心的な存在で、「神仏」というのは、自分の願いを果たしてくれるもの。日本人にとっての「神仏」とは、聖書の語る偶像に他なりません。偶像というのは、自分自身の願望を映し出す鏡のようなものです。
しかし、私たちは先週、イエス様の教えてくださった主の祈りの前半を通して、祈りで最も大切なことは、祈る対象、そのお方を明確にすること、そのお方、主の御名があがめられること、御国が来ること、御心の行われることを求める祈り、それらがイエス様の祈りであることを、主の祈りの前半を通して読みました。
このことは、私たち人間の存在の根源、命の源は、唯一の神、私たちの父なる神にあることを告げています。そして、祈りは神と私たちの直接の出会いの場であり、祈る時、目を閉じた私たちの前に天は拓けます。祈りつつ、私たちは悲しみと苦しみの多いこの世を、神共にある者として生きるのです。
そのように主の祈りはまず、本質的に、唯一必要なこと=唯一の神・父なる神に私たちの心を向けさせ、その後、後半が「私たち」人間が「私たち」のことを神に願い求める四つの祈りとなっていきます。
そしてその主語はすべて「わたし」ではなく「わたしたち」「我ら」複数形での祈りです。主の祈りの後半の「私たちの願い」は、「私」個人のためだけでなく、「私たち」という複数、自分のことだけではない、共に生きる人々のことも、主の祈りを通して同時に祈っているのです。そのことを私自身がこの準備をしながら認識しましたので、今日の説教題の「私たちの神への祈り」の中の『私たち』を敢えて二重括弧にいたしました。
主は「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」(ヨハネ14:34)と言われました。世にあって、人は、そして教会共同体は、「互いに愛し合いなさい」という主の掟の中に置かれています。その愛の掟に基づき、自分のためにだけでなく、「私たち」のために祈るのです。
「私たち」の祈りのはじめは、「必要な糧」、これは原文では「パン」。この祈りは私たちの日毎、生存に関する、世を生きるために必要なパンを、今日与えてくださいという祈りでありましょう。神は私たちが豊かに生きることを望んでおられます。豊かさを世に於いて祝福として神は私たちに与えたいと願っておられます。
しかし、日毎のパンについて祈らなければならないということは、それを得られないような世の状況になることも有り得る、この世はそのような不完全な世であることを告げています。地の実りは、雨、太陽の日差し、夜、季節、神の造られた自然が豊かに機能しないことには得られません。「日毎の糧、今日のパン」は、私たちのパンは神の賜物であることを、私たちは覚えなければなりません。
また「パン」とはイエス・キリストそのお方です。イエス様はご自身を「命のパン」(ヨハネ6:35)と言われ、また宣教のはじめに悪魔の誘惑を受けられた時、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われました。日々のまことの命の糧は、イエス・キリスト、このお方とこのお方ご自身である御言葉が私たちを日々生かすことも覚えたいと思います。
今、この国には食べるものにも事欠く人たちがおられます。今、加速度的に多くの方々が守られるべき衣食住の基本的人権をコロナによって奪われておられます。「私たち」は自分自身の日毎のパンと共に、今、食べる物にも困窮しておられる方々のために、イエス・キリストを通して必要な糧が与えられることを「私たち」の祈りを通して祈らなければなりません。祈る中、弱く、自己中心的な私たちですけれど、主は私たちに託してくださることがあることでしょう。四つの福音書とも、イエス様が5000人の人々を二匹の魚と五つのパンで満腹にさせられた奇跡が語られていますが、主はすべての人を憐れみ、命の必要を満たすことを望み、成し遂げてくださる方です。
二つ目の「私たちの祈り」は、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。
「負い目」負債とも訳されるこの言葉は、罪に属する事柄です。イエス様は、十字架によって、私たちの罪の代価となられ、私たちの罪という神に対する負債を帳消しにしてくださいました。神は私たちすべての罪を憐れみ、御子イエス・キリストを私たちにお与えくださり、私たちの罪の代価となってくださり、罪の赦しの道を拓いてくださったのです。
そのように赦しの道が拓けている人間ですけれど、赦されているにも拘らず、世に於いて、私たちは対人関係に悩み苦しむことが多々あります。
私たちの何気ない言葉や態度が人を傷つけていることがあり、思いがけず深い恨みや憤りのようなものを持たれていたりすることを知ることがあったりもするかも知れません。私たちは言動の軽い者たちです。
しかし、恨みや憤りを持って持ち続けるということは、そのような感情を持つ人自身の問題もありましょう。「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません」とエフェソ4:27に語られていますが、怒り続けることは、主の祈りの中の次の祈り「わたしたちを誘惑にあわせず、悪より救い出したまえ」にも通じる、悪への誘いになり得ます。人間関係のもつれに於いて、片方だけが悪いということは恐らく殆ど無いことでしょう。
マタイ5:21以下では、「腹をたててはならない」ことが語られ、「祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したならば、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし・・」と語られていますように、人間同士、お互い罪に気づき、「赦し合う」ことを私たちは神から求められているのです。
私たちには罪がある。そのことをひとりひとりまず気づかなければなりません。そのことなしに、イエス・キリストの十字架は私たちには無意味なものです。イエス・キリストと私たちの関わりは無に帰してしまいます。主の十字架によって赦された者たちとして、互いに罪を認め合い、赦しあうことを知らなければなりません。
そして「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪いものから救ってください」。これはひとつの文脈に纏められていますが、「私たちを誘惑に遭わせないでください」と「私たちを悪いものから救ってください」、ふたつの重要な祈りの言葉が語られています。
「誘惑」、甘美な言葉です。人間の罪のはじまりは、蛇に譬えられる悪魔の誘惑に始まりました。はじめの人、アダムとエバは、悪魔の誘惑に陥ってしまったのです。それは美味しそうな見目に麗しい果実の誘惑であり、人は悪魔のそそのかしに人はあっという間にに乗ってしまったのです。
もし、人が蛇の誘惑を退けていたならば、人間には罪は無かった。ひとつの誘惑、試みの出来事は、それを受け取る態度によって180度変わるのです。
ヤコブの手紙1章に試練と誘惑について記されているところがありますが、そこで使われている試練と誘惑は原語では同じ言葉です。
目の前に現れたひとつの出来事が、ある場合に、私たちを成熟した者とするための試みとなり、またある場合に罪の縄目に堕ちて行くことになる場合がある。罪ある人間は、まことに主にあって成熟した者となるために、試練が必要です。良いぶどう酒になるためには、ぶどうの汁が時間を掛けて発酵しなければならないように、神に相応しく生きるために、人間にはさまざまなところを通りながら、変革が必要なのです。
何か、差し出された出来事があり、選択に迷うならば、「誘惑に遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈りつつ、その出来事を試練として受けとめ、持てる知恵を尽くして、その出来事を通して忍耐と練達をもって神に近づくことを私たちが得ることが出来るならば、そのひとつの出来事は誘惑ではなく、神からの試練となり、私たちを主と共にある成熟へと導いてくれるものとなりましょう。
人間は弱いものです。そして、世には悪の力が絶えず働いています。
悪の力から逃れる、というよりも、それと戦い払いのけるために、悪の力から神に救い出していただくために、私たちは命のパンなる御言葉を耐えず携え、自らの罪を認め、互いに愛し合い、赦し合い、信仰をもって、知恵を尽くしてすべての出来事を通して、神に近づき、神の栄光を表すものとなることを、祈りによって成熟して行くことを主は求めておられます。
「主の祈り」を、「私の祈り」またさらに超えて「私たちの祈り」として、神を何よりも愛し、自分を大切に愛するように隣人を愛することが出来る者になりたい、そのことを祈りつつ、生涯をかけて主が共にある成熟を求めて行きたいと願います。