前奏 「我ら悩みの極みにあるとき」 J.S.バッハ
招詞 イザヤ書30章15節(5行まで)
賛美 18(134) 「心を高くあげよ!」
詩編交読 57編7~12節(66頁)
賛美 511(14) 光と闇とが
祈祷
聖書 創世記3章15節 (旧 4)
マタイによる福音書12章22~32節 (新 22)
説教 「 赦されること、赦されないこと 」
祈祷
賛美 530(124) 主よ、こころみ
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告
頌栄 25 父・子・聖霊に
祝祷
後奏
創世記3:15
マタイによる福音書12:22~32
「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、”霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」
難しい、どういうことなのだろうか、と考え込ませられる御言葉です。
今日は、イエス様のこの言葉を語られた背景をまず、聖書にそってお話をさせていただき、このお言葉について改めて考えてみたいと思うのです。
マタイ12章は、安息日の出来事です。
その日、イエス様の弟子たちは、麦畑で空腹になったので「麦の穂を摘んで食べる」=穂を摘むという「仕事」を、仕事をすることが禁じられている安息日にしたことで、ファリサイ派の人々に咎められ、その後、イエス様は安息日の会堂=シナゴーグで片手の萎えた人を癒されました。そこでのやりとりで、ファリサイ派の人々がイエス様を邪魔者と確信し、憎悪は決定的なものとなり、ファリサイ派の人々はこの日、イエス様を殺そうと相談をしたのです。
イエス様は人の心を見るお方です。ファリサイ派の人々のイエス様を殺そうとする策略を知り、会堂を立ち去られました。大勢の群衆が従い、そこでもイエス様は人々を癒されました。
「そのとき」、「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人」がイエス様のところに連れられて来て、イエス様はその人の目を開け、その人はものが言えるようになったのです。
当時、病の多くは悪霊によるものだと考えられていました。しかしそのような当時の一般的な意味ではなく、この「目が見えず、口が利けない人」は、明らかにとりつかれた状態であり、イエス様の目に、この人の病が霊的なものであることが明らかであり、イエス様の癒され方は、霊の戦いが前面に押し出されたような、非常に激しい言葉による癒され方だったのではないかと想像します。
その業を見て群衆は皆驚きました。「この人はダビデの子ではないだろうか」と。
ユダヤ人たちは、ダビデ王の子孫に救い主が現れると信じていたのです。実際イエス様の父となったヨセフはダビデの子孫でした。「ダビデの子ではないか」という言葉は、「この方こそ、預言されていた救い主ではないか」という驚きの声です。
それほどの人々の驚きの中、恐らくは自分たちの権威を奪われる恐れと嫉妬に駆られながらファリサイ派の人々はつぶやきます。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と。このファリサイ派の人は、イエス様のことを世の悪霊に属する「者」であり、悪霊の力を用いて悪霊を追い出している、イエス様が悪霊のひとつであるベルゼブルに頼って、ベルゼブルが人に取りついた悪霊の子分と戦って悪霊を追い出しているのだと、イエス様を罵ったのです。ベルゼブルというのは、旧約聖書の偶像バアルに由来する名前です。
イエス様はファリサイ派の人の心の「考えを見抜き」、知恵の言葉を語られます。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも、内輪で争えば成り立っていかない」。
その通りでありましょう。国、集団の内部で何か問題があって揉めに揉めることがあるなら、喧嘩ばかりなら、中が荒れ果てます。
イエス様のなさっていることを、悪霊のベルゼブルによって悪霊を追い出しているとファリサイ派の人々が言うならば、それは内輪もめだ、イエス様はそのように仰り、更に「あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」と問われます。
当時、ユダヤ人の中には悪霊を追い出す祈祷師がおりました。そのことは使徒言行録19章に記されており、当時のヨセフスという人が書いた歴史書にも、ユダヤ人たちが悪霊払いをしていたことが記されています。
イエス様の言葉の意味は、「あなたたちファリサイ派の仲間にも悪魔祓いをする人たちがいる。癒しの業がベルゼブルからのものと言うならば、私=イエスが、ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うならば、あなたがたの仲間は何の力で悪霊を追い出しているのですか。ベルゼブルの力と言えるのではないですか。そうであるなら、あなたがたもベルゼブルの仲間ということになるでしょう?」そのような意味の言葉を語られました。
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一12章で、聖霊の賜物について語り、賜物の中に「霊を見分ける力」があることを語っていますが、古来、さまざまな諸霊は世にあり、それらは人間の願望を満たす偶像となり、占い、まじないなどに関わっておりました。悪霊にも不思議なことを起こす力があるのです。
それで何か不思議なこと起こると、神の認識が希薄でご利益だけを求める日本人は、そこに飛びつき、「新興宗教」と言われるものがさまざま起こっては消えて行きますが、聖書はそれらに心を寄せることを厳しく禁じています。それらに心を寄せることは、偶像崇拝であり、モーセの十戒の第二番目の教えに背くこと。悪霊の働きを神の働きと言い、それに心を寄せることは、聖なる神、神の霊=聖霊に対する冒涜であり、赦されることではない、そのことをイエス様はここで語っておられます。
霊の問題は非常にデリケートな問題でありますが、聖書を知る私たちは、世にある諸霊の働きには十分警戒し、神の霊の働きと、世の悪霊の働きを見分ける目を持つことに目が開かれることを求めるべきでしょう。また、それは「実」によって、癒しなどが起こされたその後明らかにされることでしょう。イエス様を愛する心が増し加わるか、自由と解放があるか、それとも更にご利益だけを求めて、貪欲になり、いつしか人間としての大切な何かが欠落していく・・・それが霊を見分けるポイントとなりましょう。
「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることが出来るだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」
イエス様の世の宣教の働きの大きなことは、人々に神の国について宣べ伝えることと共に、その障害となっている世の諸霊、悪霊を縛り上げ、追い出すことにありました。
この世は、神に背く罪の世です。はじめの人、アダムとエバの神へ背き、蛇に譬えられる蛇の言葉に従うことによって、人間には罪が入り込み、人は神共にある楽園を追放され、悪の力の支配する世に置かれるものとなりました。
しかし神の人間に対する愛と憐れみは限りなく、遂に御子イエスを世にお遣わしになられました。人間の罪を赦すため、人間を罪から解放するための道を拓くために、すべての罪の支払うべき代価として、贖いとなるために、父なる神は御子イエス様を完全な人として世に遣わされたのです。
イエス様は、宣教の働きを始められる時、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言われて、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。その時、「聖霊が鳩のようにご自分の上に降ってくるのをご覧になった」とありますように、神の霊=聖霊がイエス様に降られ、イエス様と共にあり、神の霊=聖霊の働きによって、人となられた神・イエス様は、神の国の到来を告げ知らせる働き―神の国とは神の完全な支配。黙示録21章に語られている「神と人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(21:3~4)―その新しい世の到来の知らせを、多くの癒しと解放の業を、聖霊の力によって為されることで2000年前のパレスチナで現されました。
そう、イエス様は聖霊の力を受けて、悪霊を追い出しておられました。それであるならば、神の国は「あなたたちのところに来ている」とイエス様は言われるのです。人としての肉体を持ち、完全な神であり尚且つ完全な人であるイエス様の上に、聖霊が降られ、働かれている。それは神の国が世に来ていることを表しています。
イエス様の言われる「まず強い人を縛り上げる」の「強い人」とは、世を支配している悪霊のことです。イエス様はこの時、悪霊につかれた人から、悪霊を追い出されました。世の「強い人」=悪霊は、イエス様によって縛り上げられて、世は、神の国によって略奪されようとしている、イエス様はそのことを告げておられます。
世を神の支配に奪還するために、まず強い人、悪霊を縛り上げ、追い出さねばならない、イエス様の宣教のお働きは、聖霊の働きによる、霊的な激しい闘いでした。
それを、ファリサイ派の人は否定し、神の力であることを認めず、悪霊の働きであると罵ったのです。聖霊の働きを悪霊のものと罵ること、それは神の霊に対する激しい冒涜です。イエス様は、そのことに激しく憤られました。そして言われたのです。
「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、”霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」と。
霊に対する冒瀆は、聖書が偶像崇拝を完全に否定し、忌み嫌うのと同様に、厳しいものす。神は聖なるお方であられ、神の「聖」とは、神と人との分離を表す言葉です。罪ある人間には尊く近寄れない存在、その意味での分離です。悪霊の力と混同するようなことがあってはなりません。
また、別の視点になりますが、私たちは聖書の語る奇跡は、現代には起こり得ない古代の「絵空事」のように思っておりませんでしょうか。奇跡や癒しに関して、それらは私たちが期待し、望み、祈り得ることであり、また熱心に祈ることをイエス様は待っておられます。イエス様は言われました。「わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)と。もし聖霊の働きを軽んじるならば、それも聖霊に対する冒涜と言えるのではないでしょうか。
それにしてもこの言葉は厳しく、私たちに恐れを抱かせ、躓きともなるようなイエス様の言葉とも思えます。
「人の子」とはイエス様のことです。「イエス様に言い逆らう者は赦される」―イエス様は、罪ある人間の贖いとして世に来られました。罪ある私たちの受けるべき報い=罰を、イエス様は十字架の上で、ご自身が私たちの罪の代価となり、命を捨てて私たちを贖い取ってくださいました。イエス様は、神と人との和解のために、自らを十字架の上で献げてくださったのです。イエス様は神と人との間の分離を取り除く仲介者。私たちはイエス様には何でも言える。イエス様は、私たちの言葉もすべて聞き届けてくださり、罪ある言葉もすべて赦してくださいます。主は憐れみ深く、私たちを執り成してくださいます。
しかし、「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」、この厳しい言葉をどう捉えたらよいのでしょうか。
イエス様の十字架、復活、昇天、その後のことが語られる使徒言行録によれば、聖霊は「イエスの霊」と同じ意味で語られています。十字架に架かり、死なれ、復活をされ、天に昇られたイエス様は、今、天におられご自身の霊であられる聖霊を世に送ってくださっておられる―ペンテコステの出来事以降、現代は復活の主、栄光を受けられた主の霊、聖霊が生きて働かれる「教会の時」であり、イエス様が世に生きておられた時というのを、「イエスの時」、とある神学者は呼びますが、「イエスの時」であるこの福音書のイエス様がこの言葉を語っておられる2000年前の「時」は、まだ聖霊は、私たちが現代受け取っているような「イエスの霊」と完全に一致はしていないと言うのでしょうか、この時、聖霊なる神はイエス様のもとにあり、イエス様と共に働いておられました。
しかしイエス様の十字架と復活、昇天によって、主は栄光を受けられ、聖霊がイエス様の上だけでなく、イエス様を信じる者たち、イエスの名を用いる者たちと共に、生きて私たちの只中に働く時代に入り、父子聖霊なる三位一体なる神の働きが完全な形で表されるようになったのです。イエス様は弱い人間としての体を打ち破られ、新しい復活の体、朽ちない霊の体を持ち、天に昇られ、今、父とキリストのもとから聖霊が地に注がれています。
イエス様の十字架、復活、昇天、聖霊降臨、その前と後では、聖霊なる神の働きは、違うのです。
福音書に記されている時代は、イエス様は世の人間の体を持っておられ、共に聖霊がおられ、イエス様を通して聖霊が働いておられ、まだ神と人とは分離をしたままでしたが、今は、イエス様の十字架、復活、昇天、ペンテコステの出来事を通して、聖霊なる神は、「イエスの霊」として、「愛と赦しの霊」として、今あまねく世に働いておられます。信じる者の内におられ、私たちの間に、教会に、世のすべてに働いておられます。
その意味で、ここでイエス様が「聖霊に対する冒涜は赦されない」という言葉は、神の聖なることを覚えつつも、イエス様の十字架と復活、昇天、そして聖霊降臨を経た今は、打ち破られているのではないか、私はそのように考えています。イエス様の言葉そのものを否定しているようにも思え、非常に不遜な言い方とも思いつつ語らせていただくのですが、イエス様と聖霊なる神、父なる神はひとつです。ひとりの神として今生きて、私たちに力を与え働いておられます。
私たちは神の「聖」なることを覚えて重んじつつも、同時に赦されている恵みを喜びたいと思います。聖霊はイエス様の霊であられるのです。共にいてくださる霊。イエス様そのお方。十字架を通して、神はそのお方がどのようなお方であられるかを、はっきりと示されました。
恵みのもと、赦された者として、大胆に神に近づき、イエス様には心のすべてを祈りの中で打ち明けながら、祈りの中に働かれる聖霊を通して、私たちが罪に気づき悔い改めるならば主は赦してくださいます。
三位一体なる神の恵み、神の赦しの御恵みのうちを今日も歩ませていただきましょう。