「自分を捨て、自分の十字架を背負って」(2021年3月7日礼拝説教)

前奏   「汚れなき神の小羊」    曲:オットー・アーベル
招詞    ヨハネによる福音書12章24節
賛美    141(125) 主よ、わが助けよ
詩編交読   59編13~18節(68頁)
賛美    299 うつりゆく世にも
祈祷
聖書    マタイによる福音書 16章13~28節 (新 31)
説教     「 自分を捨て、自分の十字架を背負って 」
祈祷
賛美    303(124)丘の上の主の十字架
信仰告白   日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告  
頌栄 24 たたえよ、主の民
祝祷
終奏

マタイによる福音書16:13~21

イエス様は、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」そのように言われました。
十字架―イエス様が私たちの負うべき罪の重荷をすべて背負って歩かれた道を、私たちも同じように、やがてそこに自分が釘を打たれ死ぬための、自分の死の場所であり道具となる十字架を背負い、エルサレムのヴィアドローサの坂道を、主の御後ろからついて主と共に苦しみつつ歩む、この語られる言葉をそのまま思い浮かべますと、私にはそのような情景が思い浮かびます。
パウロはフィリピの信徒への手紙1:29で「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」と語っていますが、私たちは、世にあって平安に安楽に苦痛なく繁栄して生きることが幸いであると考え、またそのことを神への祈りとするものです。しかし、キリスト教信仰には、世の価値観とは真逆の価値、そしてそこにこそまことの命の意味がある―そのことを厳しく語られるイエス様のお言葉に思えます。

イエス様は「自分を捨て」と言われましたが、「自分」、「私自身の本質を見つめる」ということ、大切なことに違いありません。人生のひとつの課題とも言えましょう。
思春期~青春期に掛けて程度の差がありますが、人は「自分探し」をします。しかし、心理学的に自分探しをしすぎるなら、かえってこじらせてしまう、「自分」を求めて、結局自分探しをし過ぎたならば、自分の本質から遠くなり、自己の確立が出来なくなってしまいます。自分というものとの付き合い方は、なかなか難しいものです。
私は人生の転機が数度ありましたが、それは「自分探し」のためではなく、生きるために追い詰められた上での選択でした。洗礼を受けて教会生活を中心にして生きていた筈なのですが、教会に居るときの自分と、外で働いている時の自分が違っていると思えることがあったりしました。40代のある日、どこまでも「自分」には絡みつく罪があることを突きつけられる出来事があり、苦しみそして神に向かって叫びました。「私はもう、自分のために生きることは出来ません。自分を捨てて、主の与えてくださる道でなければ」と。
その頃、心の中にずっとありながら、でも決して口に出せなかった「牧師になる」ということを、所属教会の牧師の口からお勧めの言葉をいただき、私は心にあった思いをようやく口に出すことが出来、そのことに向かって歩み始めました。初めは抱えている生活の状況から神学校に行けるとは思えず、日本基督教団のCコース受験―神学校に行かずに独学で3~6年勉強をして試験を受けて牧師になる―を志して、神学校で科目聴講を始めましたが、さまざまな障害を潜り抜けるように道が拓け、正式に神学校に通うことが適い、今牧師として主に仕えさせていただいています。これは、あの時の「叫び」に、主が応えてくださって開かれた道なのだと、受けとめています。
ある意味あの時、「自分を捨てた」のかもしれない。しかし、ここに至る道というのが、本当に私なりの「自分を捨て、自分の十字架を背負って」主に従っている姿なのだろうか?それに相応しく歩んでいるだろうか、この御言葉は、心の中に絶えずある自分自身に対する問いかけです。

マタイによる福音書16章は、この福音書の中でも、後の「教会」に対して大きな影響を及ぼす御言葉です。この福音書のある意味頂点であり、イエス様の宣教のお働きがここを境に非常に緊迫して行くことが感ぜられます。
今日の御言葉の前、16章の5節以降で、イエス様は二度、弟子たちに向かって「分からないのか」という言葉を告げておられます。これまで寝食を共にし、教え、ご自身を弟子たちに証しして来られたイエス様の、分からず屋の弟子たちに対する悲しみ、いらだちのようなものが感じられる言葉です。

そのような中、イエス様は弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と問われました。「人の子」とは、終わりの日に現れる救い主を表す、旧約聖書から繋がる言葉。その言葉をイエス様は、ご自分の称号として用いて弟子たちに敢えて問いかけておられます。
弟子たちは答えます。「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」「預言者の一人だ」そのように言っていますと。
そこでイエス様は弟子たちに向かって、弟子たち自身の認識を問われます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。
そこでシモン・ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」、堂々と信仰の告白をいたしました。
シモンとは、彼自身の父から与えられた名前です。イエス様は「シモン・バルヨナあなたは幸いだ」と言われましたが、バルヨナとは、ヨナという人の息子という意味で、これは「ヨナの息子シモン、あなたは幸いだ」という意味になります。
メシアとは旧約聖書ヘブライ語に於ける、キリスト=救い主を表す言葉であり、「生ける神の子」という告白と合わせて、「あなたは人となられた神の御子、救い主です」という言葉となりましょう。イエス様はこのシモン・バルヨナの言葉を喜ばれ、「このことを顕したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とまで言われたのです。

ペトロとはヘブライ語で「岩」の意味。「あなたは救い主、生ける神の子です」というペトロの信仰告白の上に、イエス・キリストの教会を建てる、イエス様はそのように言われました。
このことについて、カトリック教会は別の見識があります。ローマ教皇というカトリック教会のヒエラルキーの一番上に立つ人がおりますが、初代ローマ教皇はこのシモン・ペトロなのです。イエス様の「この岩=ペトロの上に教会を建てる」というこの御言葉を根拠として、カトリック教会は教皇を頂点とする制度の上に立っています。それに対し、私たちプロテスタントの信仰は、教皇という存在を「尊敬」はしておりますが、初代教皇ペトロの上に引き継がれる教皇制度には、同意していません。私たちは、このイエス様の言葉を「あなたは救い主、生ける神の子です」と言ったペトロの「信仰告白の上に」教会が建てられていると理解をしています。
「教会」という言葉はエクレシアという言葉で、「集められた者の群」「神の民」という意味の言葉で、教会とは、この会堂そのものではなく、「イエス・キリストが救い主、生ける神の子です」と信仰を告白する者たちが集められた群を表す言葉です。
イエス様は、このペトロの信仰告白の上に、その堅固な岩=ペトロの上に教会を建てると仰いました。ですから、私たちの土台の岩はイエス・キリスト。このお方こそが救い主である、という信仰の告白以外に教会は存在いたしません。イエス様を救い主と信じる信仰によって、私たちはひとつとされた、主にある兄弟姉妹なのです。
この信仰に「天の国の鍵」が授けられました。陰府の力、死の力、死の国の門、滅びの門も、この信仰に抗うことは出来ません。地上の教会のイエスを主とする信仰は、天の国の門を開き、天に繋がれるのです。死を超えた神共にある命に繋がれる信仰です。

しかし、イエス様は御自分が救い主であることを、弟子たちが誰にも話さないように命じられました。それは、恐らくは人間はどこまでも自分勝手に物事を解釈して、イエス様の言葉は正確には人から人に伝えられない、意図が歪められていくことを、イエス様は知っておられたからではないでしょうか。
そして、この時から、イエス様は御自分が「必ずエルサレムに行って、ユダヤ人たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている」という「受難予告」を弟子たちに語り始められました。
するとそれを聞いたシモン・ペトロは、何とイエス様を脇に連れ出して、諌め始めたのです。「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と。

人は自分の心の尺度で、見たこと、聞いたことを判断いたします。私たちの認識の範囲というのは、実はとても狭かったりするのかもしれません。イエス様はペトロはじめ弟子たちに、寝食を共にしながら天の国のことはじめ、さまざまな戒めを教えて来られましたが、イエス様の言葉であっても、その言葉の要が正確に弟子たちに伝わらないのです。ペトロもまた、自分の心の尺度からなかなか離れられず、捨てられず、イエス様の言葉の真意が分かっていなかったのです。ペトロの心の中には、ペトロ自身が思い描く、「救い主像」、ローマ帝国の抑圧から解放してくれるメシア像のようなものがあり、自分が思い描くメシア像=偶像をイエス様に期待をしていたのではないでしょうか。

信仰告白をした時、ペトロは霊に満たされ、神から与えられた真実の言葉を語ったに違いありませんが、「心は燃えていても肉体は弱い」とイエス様は、逮捕され、苦しみを受けられる目前、ゲッセマネで眠るペトロたちにこの後語り掛けることになりますが、人間の心はたとえ神に向かって燃えていたとしても、すぐに世の思い、肉の思い、世の自分に都合の良いこと、自分の利益になるようなことに対する思いが入り込みます。初めの動機が良いものであっても、自分の都合の良いように物事をすり替えて、他者を誤解し、心に納めてしまうようなことがあります。
ペトロの発した言葉に対して「天の国の鍵を授ける」と言われたイエス様が、「苦しみを受けて殺される」と言われたことに対して、ペトロは自分の思い描くメシア像からかけ離れたイエス様の言葉を捉えきることが出来なかったのです。ペトロは、イエス様の言葉を「自分の願望」というフィルターを通して聞いて判断をしていたのです。
それに対し、イエス様は厳しく叱責をされました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と。「天の国の鍵を授ける」と言われたペトロが、あっという間に「サタン、引き下がれ」と、サタンの扱いをされてしまいました。
 このことは、イエス様は、ペトロがサタンであると仰ったのではありません。人間の心には、心が熱く燃えていたとしても、すぐに罪が入り込む。自分の身勝手な思いが入り込んで、神を知ることの邪魔をする力が働く。信仰に熱心になろうとすればするほど、世の誘惑、サタンが自分のもとに取り戻そうと誘惑をけしかける。その姿をイエス様は霊の目で見ておられたのではないでしょうか。
 サタンは「自分の願望、自分の思い」という形で、この時、ペトロに姿を表していました。「天の鍵を授ける」と言われ、ペトロはちょっと傲慢に、いい気分になっていたのかもしれません。ペトロはかなりおっちょこちょいで勇み足の、愛すべき人間的な弱さをたくさん持った人に見受けられますから。

 そのようなペトロの姿を見て、イエス様は言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。

 十字架とは、神を中心にするのではなく、人間、自分中心に生きる人間の罪。世にある私たちそれぞれの人間の弱さ。悲しさ。それに纏わるさまざまな過ち。ペトロにあっては、ペトロなりに年月を生きて来た人で、さまざまな生きる悩みや思いも問題もそれに纏わる罪の問題もあったことでしょう。そしてこの時はちょっと「偉く」なって思い上がり、浮足立ってもいました。
 イエス様は、世の欲望を含めたそれらの自分を誇ろうとする思い、自分中心、人間中心の思いというものを捨てて、それらを罪と認め、それを十字架として背負い、イエス様に従いなさいと言われました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」と。
イエス様はペトロの世にある高ぶった思い、人間中心、自分中心の思いに対し、「自分を捨てなさい」と言われました。そしてイエス様に従いなさい、自分の思いや願望ではなく、神を第一として生きなさいと言われたのです。そうすれば自分の命を救うと。
 ここにキリスト教信仰の世の思いからの逆説があります。まず「神の国と神の義を求め」、神を私たちの中心に据えること、そこに、神の支配の中にある、新しい命の道が拓かれるのです。自分を捨て、神の支配に自分自身を投げ込むのです。
 
 このイエス様の言葉に、私たちは各々、自らを今一度省みたいと願います。私たちは、神の言葉を聞くと言いながら、どこまでも自分の思いを中心に自分の都合の良いように聖書を読み、聴いて、神、イエス様すら、自分で勝手な理想像をつくりあげてはいないか。そして、自分の十字架として背負うべき罪とは何か、「私」が神を第一にして、イエス様にまことに従うとはどのような道かを、改めて心に問いかけていただきたいと思うのです。
 神に立ち帰り、神を中心として私たちが生きるならば、私たちの自分の思いを超えた、主の御心に適った道が、主によって与えられるに違いありません。
そして、きっとその荷は軽いのです。この言葉と同時にイエス様は、マタイ11:29では「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」とも仰いました。「軛を負う」とはイエス様に繋がれてイエス様と足並みを揃えて歩むこと。十字架の主のその御苦しみを共に担うことにも繋がりますが、しかしイエス様は、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われました。
主と共に歩む道は、軽い。罪の十字架を背負って主に従うならば、実は私が負っているようで、イエス様が私の罪を、十字架を代わって負ってくださるのですから。