「信じない者ではなく、信じる者に」(2021年4月4日 イースター 礼拝式文、説教)

前奏
招詞  詩編 148編1~2節
賛美 327 すべての民よ、よろこべ
詩編交読 98編(111頁)
賛美 326 地よ、声たかく
祈祷
聖書 エゼキエル書37章4~10節(旧 1357)
   ヨハネによる福音書20章19~29節 (新 210)
説教 「  信じない者ではなく、信じる者に  」
祈祷
賛美 483 わが主イェスよ、ひたすら
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告
頌栄 24 たたえよ、主のたみ
祝祷
後奏

エゼキエル書37:4~10
ヨハネによる福音書20:19~29

 主のご復活、イースターおめでとうございます。
 キリスト教会は、主の十字架と復活によって、それを「見た」人々の証言の言葉によって始まりました。2000年を経た現代、私たちにはイエス様、そのお方のお姿を見て、触ることは出来ませんが、「見た」人々の証言の言葉によって、「見る」のではなく、「信じる」信仰によって、絶えることなく、主の十字架と復活が語り伝えられ、主の復活の力によって、イエス・キリストを頭とする信仰共同体である教会は、死を超えた信仰と希望と愛を語り伝え、歴史を刻み続けています。

 イエス様の復活の姿はマグダラのマリアに最初に顕されました。マグダラのマリアは喜び、弟子たちのところに行って「わたしは主を見ました」と告げ、主が言われた言葉を弟子たちに告げたのです。
 今日お読みした出来事は、そのマリアの言葉を聞いた、その日の弟子たちの姿から始まります。その日、「週の初めの日の夕方」、イエス様が復活された、その日の夕方の出来事です。
 弟子たちは恐れの中にいました。イエス様の逮捕の時、弟子たちは皆逃げました。自分たちもユダヤ人たちに捕らえられ、イエス様同様に十字架に架けられることを恐れていたのです。死と死に至る苦しみへの不安と恐怖、また、自分たちがイエス様を咄嗟に裏切って逃げてしまったことに対する悔恨もあったことでしょう。
 彼らは、この時既にマリアから「主を見た」ことを聞いておりましたのに、マリアの言葉を信じていませんでした。また、裏切ってしまったイエス様を「見た」とマリアに言われても、裏切りへの罪責から却って不安になり、イエス様のことも恐れる気持ちがあったのではないでしょうか。
彼らはこの時、心の闇と恐怖の中、自分たちの居る家の戸に鍵をかけて、声を潜め、蹲っていたのです。彼らは家の戸口の鍵を閉めていただけでなく、心の扉の鍵も閉めてしまい、固く蹲っていたのです。

 鍵を掛け、蹲る弟子たちのところに、突然イエス様が現れ、真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われ、釘で打ちぬかれた跡のある手と、槍で突き刺された跡のあるわき腹をお見せになられました。彼らの裏切りへの罪責、死への恐れ、不安、人間の根源的な恐れのただ中に、主は突然現れ、真ん中に立ち明るく「平和」を宣言されたのです。そのお姿は裏切った弟子たちに対する恨みのようなものなど、まさか微塵も無い、温かな光に溢れたお姿だったのではないでしょうか。

何よりもはじめに「平和」を宣言された主。聖書に於ける平和とは、世にあって単に争いがないという消極的な状態ではありません。積極的に、何ものによっても阻害されない、個人、また共同体に於ける、精神的、物質的、肉体的にも自由と共に、個人、共同体の相互間の調和、神ともにある完全に充足した状態を表します。神に愛されて創造された人間存在の自由と尊厳が守られること、そして死への恐れと不安という、人間の根源的な問題を超えた命の希望、イエス様はそのような「平和があるように」と語られたのです。あなたがたは今、死の恐れの中にいるけれど、「わたしはいる。大丈夫だ」と。
 
 弟子たちはイエス様の手とわき腹の傷―十字架の上で確かに死なれた証拠―を見せられ、「墓から復活されたイエス様だ」ということを知りました。それを見て、弟子たちは喜びました。
 この弟子たちの喜びとは「やったー、ばんざーい」というような、はしゃぐような喜びとは違って、心の奥底から湧き上がるような、心が熱く燃えるような「喜び」だったのではないでしょうか。
 ルカによる福音書では、エマオの途上の弟子たちにイエス様が現れ、初めは共に歩むその人がイエス様と気づかなかったけれど、イエス様の姿が「見えなくなった」後、弟子たちは、復活のキリスト・イエスと共に歩むエマオへの道、「心が燃えていたではないか」と語っています。
「心が燃える」、エマオ途上の弟子たちがそうであったように、この時、弟子たちも心が奥底から「燃え」て、絶望に打ちひしがれていた心が、沸き上がる生きる希望と勇気に変えられていたのではないでしょうか。
主が共におられる喜びとは、たとえ、その置かれている社会的な状況が失意と不安のどん底、極限にあるような状況にあっても、不思議なまでに心が燃えて、世の現実を超えて、湧き上がる真実の力です。
主は苦しみの死を超えて復活されました。死を超えた復活の力は、私たち人間をも立ち上がらせる喜びの力なのです。「弟子たちは喜んだ」このことは、これから復活の主によって弟子たちが再び立ち上がる前触れのような喜びだったのではないでしょうか。

 そして更にキリスト・イエスは「あなたがたに平和があるように」と重ねて言われ「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言って、彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい」と。

 主なる神は人間を造られ、鼻に息を吹き入れられ、人は生きたものとなったと創世記2章7節は語っています。また、今日お読みしたエゼキエル書37章は、枯れた骨に、神の霊が吹き込まれ、骨に筋と肉が生じ、皮膚が覆い、枯れた骨は生き返って、自分の足で立ち、非常に大きな集団になるという幻が語られていました。
イエス様の息、神の息とは父なる神、そして十字架によって栄光を受けられたイエス・キリストの霊であられる聖霊なる神。
 主イエスの十字架の前から散り散りに逃げ去り、イエス様を裏切った罪責と共に、死の恐怖に脅える弟子たち、生きる希望と前途がすべて失われたかに見えたこの時の弟子たちに、イエス様の息=聖霊が吹きかけられ、弟子たちは主にすべてを赦された者として、新しい神の創造の業、主の霊=聖霊による新しい生き方へと、促されて行くのです。赦された者として、互いに赦しあう者の群れとして。
枯れた骨が生き返り、自分の足で立ち、大きな集団となったように、聖霊を受けた弟子たちは、イエス様によって世へと遣わされるのです。
 
 この時、ディディモ―双子という意味―と呼ばれるトマスはそこにおりませんでした。
トマスがそこに戻って来た時、弟子たちは「わたしたちは主を見た」と、マグダラのマリアが弟子たちに告げたのと同じ言葉で語りました。しかし、トマスは申しました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。

 トマス、疑い深い人、この箇所から私たちはそのように受け取り語っています。実際、彼は懐疑的な人であり、また実証主義者と言うのでしょうか、物事に理性的な判断と検証を求める人です。
 それは、決して悪いことではありません。私たちの多くも、トマスのような思いを持って、世の現実に起こるさまざまなことと、信仰生活の狭間で、時に悩んだりもされていると思います。それは寧ろ健全なこと、なのではないでしょうか。そして、神は、そのように人間が自由に考え、思い、学び、自分の持てる力の限りを尽くして疑問を神に問いかけ、神を求めることを待っておられるのではないでしょうか。
 信仰とは、理性を無くして「盲信する」こととは違います。「盲信」は、人の心から自由を奪い、考える力を無くし、「カルト化」してしまう危険性を大いにはらんでいます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(ヨハネ5:29)とイエス様は仰いましたが、信仰とは、「信じます、信じていますから神様宜しくお願いします」のように手を合わせて言うことではありません。
 そうではなく、信仰とは圧倒されるほどの神の恵みによって与えられる「神の業」なのではないでしょうか。主はその人その人が受け入れられる方法で、ご自身の恵みを顕されることでしょう。イエス様が、恐れの中、心の扉を閉ざして蹲っていた弟子たちの真ん中に、扉や鍵などなんてことなく打ち破り入って来られ、「平和があるように」と宣言されたことそのものに。神の側から、人間の思い、人間的な考えを打ち破り、人間の理性と言うものも遥かに超えて、神の臨在を知らしめる時がある、それはまさしく神の息、聖霊を吹き入れられることによるのではないでしょうか。神の息によって命のすべてが神の内にすっぽりと入れられて、主を喜び、主を讃える者とされることなのではないでしょうか。信仰には「神秘」といえる状況が確かにあります。
 しかし、神の圧倒的な恵みを受け取るためには、人間の側にたとえどのような形であろうとも、神に飢え渇き、「神を求める」という準備が必要です。罪に苦しむ中で、迷いながらも、懐疑的になりながらも、御言葉に聞き、主を求め続ける時に、主は私たちに「確かなもの」、まことに信じる者とされるための、神の側からの語りかけをいただくことでしょう。
 キリスト者の作家である椎名麟三の「復活と私」という文の中、「自分自身に絶望して、新宿でのんだくれていた。ドストエフスキーを信頼して洗礼を受けた。だが神やイエス・キリストが信じられていたわけではない。受洗して一年もたって、ある日、ルカ伝の復活のくだりを読んでいたとき、突然ショックとともに、必然性の壁が音を立ててくずれ落ちて行くのを見たのである。つまりほんとうの自由を見たのだ」と語っています。それは復活のキリストが、ルカ24章で、イエス様が本当に復活されたことを信じられない弟子たちに「ここに何か食べ物があるか」と言われて、焼いた魚を弟子が差し出すと、「イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」、その御言葉を読んで、死なれたはずのイエス様が「魚をむしゃむしゃ取って食べた」ただそれだけ、と思えることに不思議なまでの衝撃を受けて、信じない者から信じる者に変えられた、と語るのです。神の働きは不思議です。

 そしてトマス、この人の発言はヨハネ福音書の中に、11:16、14:5の2個所にあります。
 11章はイエス様が死んでしまったラザロのために、イエス様を殺そうと狙っている者たちの居るユダヤ地方に行く決意を示された箇所ですが、その時トマスは仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と語っています。また、14章で、私たちの心に留まるイエス様の大切な言葉のひとつ「わたしは道であり、真理であり、命である。」という御言葉は、トマスが言った「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 に導かれた言葉でした。
 トマスはただの懐疑的な人ではなく、彼は、イエス様の言葉を疑問を投げかけながら、真理を求め、よく聴く人だったのです。ペトロは勇み足的にいろいろなことを語っていますが、トマスのふたつの言葉は、イエス様の言葉を「聴いて」よく吟味した上での言葉です。彼は、物事を深く考える冷静な人であったのです。
 そのトマスは、「主を見た」と言った弟子たちに、「あの方の手に釘の跡があるのを見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と申しました。彼は、その言葉を言ってから、さらに深く主を思い、冷静にさまざま思い巡らしていたのではないでしょうか。

 それから八日の後―日曜日―弟子たちはまた家の中におり、トマスも共におりました。主の一度目の出現も、二度目の出現も、日曜日でした。
 弟子たちはユダヤ人たちを恐れておりましたので、土曜日の安息日の礼拝には恐らく出向かなかったことでしょう。そのような弟子たちに、復活のキリストは、復活された週の初めの日、日曜日に二度、さまざまな思いを抱く弟子たちの只中に来られたのです。
 そして三度「あなた方に平和があるように」と告げられ、トマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。
 トマスが前の日曜日に「あの方の手に釘の跡があるのを見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と弟子たちに言った時、イエス様の姿はありませんでした。しかし、主はそのトマスの言葉を知っておられました。
 そして、次の日曜日にトマスの前にも現れて、トマスに愛をもって「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われ、ご自身を差し出されたのです。
 トマスはその主の姿を見て「わたしの主、わたしの神よ」と、恐らく心の底から絞り上げるような声で申しました。彼はイエス様のわき腹に手を入れていません。
イエス様はトマスの「疑い」を知っておられ、敢えてトマスに復活の姿を顕されました。わき腹に手を入れてもよいとまで言われました。それはイエス様のトマスに対する深い愛に他なりません。トマスは、イエス様のそのお姿を「見て」その愛にただ圧倒されたのではないでしょうか。

 私たちは今、イエス様のお姿を見ることは出来ません。イエス様は今、天におられます。そして「かの日」、父なる神のみが知る「その日」に、再び世に来られます。
「その日」までの私たちの生きるこの時は、「見る」ことではなく、ましてや「触る」ことではなく、信仰によって生きる「時」です。
信仰は神によって恵みの賜物として与えられるもの、そのように先ほど申し上げましたが、もし、私たちが迷いや疑いの中にあったとしても、敢えて「神を求める者」として、御言葉に聴き、日曜日毎、自分自身を神に献げ、聖別して礼拝の時として整え、「週の初めの日」を中心として生きるところの立つものでありたいと願います。迷いながらも、また罪にまみれていたとしても、主を第一とする者に、主はまことの平和を与えてくださいます。
 イエス様は日曜日、復活されました。そして日曜日、弟子たち集まる中央に、二回に亘って立たれたのです。私たちが心をひとつに集う日曜日、「ここ」に、復活の主は来られることを信じましょう。
そして、私たちからイエス様は見えませんが、ひとりひとりを極めて下さり、ひとりひとりの心の悩み、必要なことを知っておられます。そして、私たちに、相応しいあり方で、ご自身を鮮やかに現してくださる時が訪れることでしょう。私たちが「信じない者でなく、信じる者」となるために。トマスが、椎名麟三がそうであったように。
 主のご復活の恵みが、おひとりおひとりの上に、豊かにありますことを祈ります。