前奏
招詞 コリントの信徒への手紙一15章57節
賛美 11 感謝にみちて
詩編交読 64編(71頁)
新生児祝福
賛美 58 み言葉をください
祈祷
聖書 申命記18章18~20節(旧307)
マタイによる福音書7章1~6節 (新11)
説教 「 人を裁くな 」
祈祷
賛美 444 気づかせてください
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告
頌栄 27 父・子・聖霊の
祝祷
後奏
申命記16:18~20
マタイによる福音書7:1~6
「人を裁くな」
この説教看板を先週午後出していただいた後、何気なく外を見ていますと、いつも以上に説教看板に目を留めて、凝視しつつ通り過ぎて行く人が多いように思えました。強い命令形の言葉で驚かれたのかも知れませんし、「裁く」「裁き合う」ということ、どなたの対人関係に於いても、心のどこかに「思い当たる」ことがあるのかしら?などと思いました。
今日の御言葉は、新共同訳が解釈する枠組が「人を裁くな」となっており、説教題も表題のとおりにさせていただいていますが、よく読んでみると、この枠組の中には、大きくふたつのことが語られています。ひとつは、文字通り「人を裁くな」であり、もうひとつは6節「神聖なるものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」。一般の諺にもなっている所謂「豚に真珠」です。
どうしてこれらがひとつにされているのか、繋がっているのか、思い巡らせました。そして、この二つの事柄の間に横たわっていることは、「人の心の罪」「自尊心」「人間関係の難しさ」、それを通して、イエス・キリストを信じる信仰の真理、それを受けた者としてそれを罪ある人間―罪の無い人はおりません―に伝えることの難しさを、イエス様はよくご存じであられてこの二つの事柄を同時に語っておられるのではないかと考えました。
私は最近、年齢のせいでしょうか。「思い込み」の間違いというのが自分の中で強くなって来ていることを感じています。
最近では、些細なことながら歯医者さんの予約の日を思い込みの勘違いで間違えることが、恥ずかしいことに続いたのです。毎週金曜日と頭に刷り込まれていて、その刷り込みが、おかしな勘違いになってしまっていて、本当に自分が情けなくなりました。
「思い込み」というのは、自分の経験の中で積み上げられてきているある意味、間違った自分自身の中の「確信」のようなもの、固く凝り固まった「しこり」のようなもので歯医者さんの予約のことなどは些細なことで、確かめる習慣を身につければ何とかなることですが、例えば人間関係に於いて、自分の「思い込み」から、人を誤解しているということなどあるのではないかと思うのです。
「思い込み」という自分の心の目のフィルターを通して、自分の狭い経験値、自分の尺度に照らし合わせて人を見て、間違った判断していることがあるのではないか・・・誤解をして心の中で、さらに口に出して人を裁いているのではないか。「まっさらな目」で物事を見られなくなっていて、人との関係を敢えて拗らせてしまっている、そんなことがあるのではないかと。
それら「思い込み」のようなもの、「あの人は、こういう人」のような、それは、イエス様が仰っている、丸太が目に入って本当のことが見えなくなっているのではないか、そのように思えるのです。
イエス様は大工としてガリラヤで30歳の頃まで働いておられました。イエス様の譬え話はご自身のガリラヤでの経験による素朴な視線が多いことを思います。今日の御言葉の中の「おが屑」は、大工仕事をされていた時、アクシデントでおが屑が目に入って擦ったりして人の目には見えるけれど、自分では痛いけれど取れずに見え難くなっている目を連想されているのではないかと思いますし、丸太は、イエス様ご自身がいつものこぎりで切り、作業してものを造り上げる道具でした。いずれも、イエス様の「生活」の中にあるものだったことに、私たちと同じ弱い肉体を持って生きて、イエス様が生活をしておられたことを思わされ、少し胸が熱くなる思いがいたします。
イエス様は「人を裁くな」と言われました。
しかし、この言葉は不正があっても、ある人にやんごとなき悪が認められようとも、それらを見逃してすべてを曖昧にして見過ごしなさいということではありません。そのような曖昧さは、聖書の語る愛ではありません。聖書は公正な裁きを求めています。それは、今日の旧約朗読の申命記律法に記されているとおりであり、「偏り見ず、賄賂を受け取らず」であり、律法の掟は、人間は神を第一として、自分を誇るのではなく、何より神の御前に謙遜であることが求められており、さらに自分を正しい者と看做して人を見下し、弱い立場の人を虐げることを、厳しく禁じています。
しかし、私たちは心の中で「人を裁く」ことが、身近な生活の中によくあるのではないでしょうか。また「裁かれている」と思うことも。
私たちは、自分の価値観とは別の価値観を持つ人に出会った時、何か、自分の意にそわない、自分の生活習慣にないやり方をする人を見掛けた時、また人の小さな過ちを見つけた時、「あの人のしていることは間違っている」「おかしい」そのように感じて、心で人を裁いたり、またその裁きを他の人と共有しようとすることがあるのではないでしょうか。そのような時、私たちは人を心で裁きつつ、自分は「正しい」と思っていることでしょう。
更に「自分の思い込み」「正しさ」で、人を強引に変えようとさえすることすらあります。ある意味、そのやり方は便利だったり、良い事であるかも知れないけれど、 でも自分の価値観を人に「押し付ける」ということは、他者の大切にしていること、またその人の人格を軽んじていることになりましょう。親切が過ぎた押し付けがましさも、それに当たるように思います。
そのようなことは、他者を「支配する」ことにもなりますし、自分の価値観、思い込みという「丸太」が目に入っていて、自己主張の塊になり、いつしか神すら脇へ追いやっていることになるのではないでしょうか。
それが善意という名のもとにあるからこそ、そのような振る舞いをする人を、イエス様は「偽善者よ」とここで仰っているのではないでしょうか。
また、そのような人に出会うと、「目におが屑」を持つ「私たち」は困惑してしまいます。
対人関係の多くは、客観的に見れば、「些細なこと」でありましょうが、気になりだしたならば、それがすべてのように思えてしまって、結局、小さな物事の中に自分を閉じ込めて、視野を狭くしていくことになりましょう。そして「自分の人を裁く裁き」と「自分の量る秤で」、結局自分自身を小さな枠に閉じ込めて、がんじがらめにして、裁かれ、自分がくよくよし、また苦しむことになってしまいます。
イエス様は、「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」と仰いました。
小さな対人関係の中で自分を大きく見せようとしたり、人を自分の価値観に押し込めようとしたり、善意のおせっかいをして目の中の木屑の痛さに耐える人を困らせるような私たち。丸太でいっぱいになってしまった目は、丸太が目になってしまっていて、痛さすら感じないのかもしれません。
どのようにして、私たちは目の中の「丸太」を取り除くことが出来るのでしょうか。年月を掛けて、自分の中に刷り込まれている経験から来る考え方の癖のようなもの、人を苦しめる丸太、強い思い込みの丸太をどうしたら取り除くことが出来るのでしょうか。
イエス様が世に居られた時、イエス様の周りには、イエス様を非難し、イエス様を裁く人々でいっぱいでした。
イエス様は、ナザレという名も無い村の出身だということだけで、人々から嘲けられました。ユダヤ人たちは、イエス様の為さる奇跡を、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せない」などと悪口をたたきました。
そしてそれまで従っていた人たちでさえ、イエス様が自分たちが願うこの世の王ではないこと、自分たちの世の願望を即座に成し遂げてくださる方ではないことを知って、態度を豹変させて、ユダヤ人指導者たちの扇動に乗って暴徒と化し、「十字架につけろ」と叫び、イエス様を十字架の死へと向かわせました。それらは自分の思い込みや願望が先にあり、うまく行かないならば、ひとりの人をスケープゴートのようにして平気で人を裁いて鬱憤を晴らそうとする人間の罪、ひとりでは弱くて何も出来ないけれど、「仲間」がいるならば、どこまでも残酷になれる人間の隠された罪だったのではないでしょうか。
しかし、イエス様は、十字架の上で祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。
イエス様は、私たちの目に丸太があることを知っておられます。経験によって形づくられた心の癖、しこりのような、思い込みと自分の正しさでいっぱいの丸太。他者を残酷に裁く、丸太の入った目を持つ私たちの、弱さを、罪を、そんな浅はかさまでご自身の十字架に担われて、神に赦しを祈られました。イエス様は、私たちを十字架の上で赦してくださいました。
しかし十字架の死、それは人の目から見れば弱い。神ならばなぜ、十字架から降りて来ないのか!と非難をしそうにすらなり、私たちを苦しませる事柄です。十字架から力強くイエス様が降りて来られたならば、「さすが神だ」と人は思うでしょう。しかし、イエス様はそれをなさらず、十字架の上で、恐怖と屈辱、痛みに耐え、死なれました。それは、私たちの罪と弱さが負うべき苦しみのすべてを神ご自身が代わって担われた神の御業でした。
しかしこの十字架の救いは、理屈で説明することはなかなか出来ません。理屈を語ったところで、伝わらないことの方が多い。私たちが自らの罪を知り、神の愛を、聖霊によって教えていただけない限りは。「罪」に気づかなければ、十字架は全く分からない。十字架は、己の罪を知った者だけに拓かれる、神の秘儀であるからです。
しかし、私たちが自分の罪に気づいたならば、涙を流すほどに悔い改めたならば、その悔い改めの涙によって、私たちの目の丸太は取り除けられ、神を、イエス・キリストの救いを通して、まっさらに、新しく、神に愛されている私たちの隣人、その人として見つめることが出来る目をいただけるのではないでしょうか。罪深い私たちは、目に木屑程度は残るかもしれないけれど、新しい目を持って、隣人を重んじつつ、隣人との関係を新しく築いて行く、その道を、御言葉に聞きつつ、新しく歩ませていただけるのではないでしょうか。
罪に気づき、丸太を悔い改めの涙で押し流していただいたならば、私たちは、神の宝を、神聖なる宝をいただいた者となり得ましょう。そして神のまことの愛を知ったならば、救いを知ったならば、神聖なるものを伝える者の足となければならない。
しかし、世には目に丸太が入っている人たちばかりです。十字架の福音を伝えることは、生半可なことではありません。十字架は人の目にはあまりにも愚かであるからです。足で踏みにじられ、十字架の救いなど愚かなことだと、かみつかれることの方がしきりでありましょう。
「聖なるものを犬に与えてはならない」「豚に真珠」、人を豚、犬と呼んでいるのかと抵抗を感じるイエス様の御言葉ではありますけれど、世にあって、神の言葉が、イエス・キリストが踏みにじられることが多いことは確かなことです。この異教のはびこり、無神論と言いつつ、占いに頼る人の多いこの国の中の風土に於いてはしきりです。
私自身、人を豚、犬に譬えるこの御言葉に葛藤する中、出会った言葉がありました。それはボンヘッファーという、第二次世界大戦時、ナチスドイツによって処刑をされた神学者の、『主に従う』という著書の中の言葉、それを加藤常昭牧師という方がその説教集の中で要約された言葉の一部なのですが、読ませていただきます。
「何らかの理念・理想に燃えている人間は強い。・・・勝利の確信に満ちている。少しくらい相手が反抗しても、抑えきって貫こうとする。(私見:これは目に丸太が入っている人の状態ではないか)・・・しかし、本当の福音に生きようとする者はそれとは異なる。神の言葉は弱い。その弱さは、人間に侮られ、軽視されるほどに弱い。・・・み言葉にはできないことがある。御言葉そのものが、それだけ弱いのだから(私見:み言葉とは、イエス様そのお方。そして十字架)、そのみ言葉に仕え、み言葉を語ろうとする者も、それだけ弱い。み言葉の弱さを身に負う者は、み言葉の苦しみを身に負うのである。しかし、そこで絶望しない。喜んでみ言葉の苦しみを共にする。み言葉を捨てさえしなければよいのだ。もし、み言葉を捨てさえしなければ、つらい時には、逃げることもできる。自分の言葉が通じないと悟ったら、一歩退いたら良い。罪ある者が、自分の言葉に躓いて腹を立てることがあっても、甘受するのである・・・み言葉の弱さを知らない者は、神がなぜあれほどに低く、卑しい人間になってくださったのかを、まだ、本当に理解してはいないのである」
この言葉を読んで、私は、少しここで「人を裁くな」に続けて、「神聖なるものを犬にやるな。真珠を豚になげてはならない」という御言葉が続けてあることを理解したように思えました。
キリストが十字架という人間の罪のすべてを身に纏われた弱さの極まりの中で現された救いの道―福音―であるみ言葉、イエス様ご自身であるみ言葉は「弱い」、弱さの中に置かれているのです。天高くおられた神の御子が世に示されたその姿は、すべての人の罪をその身に負われた人の弱さであり、弱さを通して、神は世の救いを成し遂げられました。私たちは、自分の罪を知って悔い改め、それらに対する裁きをイエス様は私たちに代わって負ってくださり、イエス様が弱い者、罪人のような者、愚かな者のようになってくださることよって救われました。キリスト教信仰には物事の逆説があります。
そのように弱さを帯びた御言葉に対して、目に丸太を持つ人は世に於いては強いけれど、それらの強さに出会ったならば、受けた聖なる御言葉を時には投げるのを止めて退き、そして時を得て進み行けばよい。主の十字架の言葉は信じない者にとっては愚かな、弱さの極まりのものでしかないからです。丸太の目と戦うのではなく、寧ろ静まり、時に退くことは、神の知恵だということを、イエス様はここで語られているのではないでしょうか。
主の十字架の弱さを自分の者とし、目の丸太を取りのけられて、目のおが屑の痛い者とされている私たちです。主の弱さと共に、また弱さの中にこそ、神の力が働かれることを信じ、裁くものであることから解放され、寧ろ、イエス様がそうされたように、裁かれることも時に甘んじて受け取る者でありたい。それが、イエス・キリストに世に於いて従う者の姿なのではないか、そのような姿にこそ、神はご自身を顕されるのではないか、そのように思うのです。何故なら、神は「忍耐と慰めの源」(ロマ1;5)であられるからです。
そして、主の御前に悔い改め、目の中の丸太を涙によって洗い流したよく見える目で、主の忍耐を自分のものにして、難しい人間関係も祈りつつ、神に委ねつつ歩みたい、そのことを願っています。