「求めなさい、そうすれば与えられる」(2021年5月9日礼拝説教)

前奏  「プレリュード」          曲:ブロジッヒ
招詞 ヨブ記 19章25節
賛美 6 つくりぬしを賛美します
詩編交読 65編1~5節(72頁)
賛美 412(134) 昔 主イェスの
祈祷
聖書 エレミヤ書29章10~14節(旧1230)
マタイによる福音書7章7~14節  (新11)  
説教 「 求めなさい、そうすれば与えられる 」
祈祷
賛美 494 ガリラヤの風
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告  
祈祷 今月の誕生者・受洗者の感謝
頌栄 24 たたえよ、主の民
祝祷
後奏

エレミヤ書29:10~14
マタイによる福音書7:7~14

 今日は「母の日」。例年ですと、子どもたちとの合同礼拝で、子どもたちと共に、「母」を思い、アガペー・神の愛に似ていると言われる母の愛を共に分かち合う時とさせていただいていましたが、未だに続くコロナ禍にあって、子どもたちとの合同礼拝がなかなか適いません。子どもたちの笑顔と、母の愛を各々の心で思い起こし感謝しつつ、礼拝をおささげしたいと願っています。

 主なる神は、私たちに「良い物」を与えようとしておられます。それは、神がアガペーによって私たちを「子」として扱っておられるからです。
 小さな子どもは無力です。親に求めなければ、食べることも飲むことも得ることは出来ません。そんな子どもがお腹を空かしていて、パンを欲しがっているのに石を渡す親はおりません。また魚を欲しがっているのに、気味の悪い、食べることの出来ない蛇を渡すことはありません。もし、そのようなことをしたとしたら、それは虐待であり、それらをするならば、親の方に何らかの病など問題があることでしょう。
「神は愛」であられ、私たち人間を、わが子として愛しておられます。そして親は子を鍛えます。悪いことをしたら、叱ります。叱り、子どもがまっすぐな心を持って育つように、その子らしく伸びやかに生きることが出来るように鍛えます。
 主なる神は、私たちの目には見えないけれど、そのような私たちの身近な親の愛、母親の愛のような愛をもって、私たちを見つめ、絶えず導いておられます。
 生きていく中では、困難な時も、さまざまありますが、どのような時にも、神は、すべての人が神を真剣に尋ね求め、心を尽くして求め、神の名を呼び、神と共にある命を取り戻すことを待っておられます。私たちが神向き直り、神に祈り求めるならば、神の力が、聖霊によって与えられます。

 本日は、旧約朗読でエレミヤ書29章をお読みしましたが、この御言葉は、バビロン捕囚というイスラエル民族の壊滅的な出来事が起こった後に、預言者エレミヤに託された主の言葉を、捕囚とされた民に手紙として送られた部分です。
 この中に「あなたたちのために立てた計画」と言うことが語られています。それは「平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」と。
旧約聖書は、神が、神に背き去った人間を何とかご自身のもとに取り戻そうとされた歴史の書、「神の救済史」と言われます。神は人間を救うために、律法を与え、預言者を通して神の言葉を告げ知らせられ、イスラエルの民を悔い改めに導こうとされました。
しかし人々は、主の御言葉なる律法、預言者の言葉を聞いても主なる神に従わず、さまざまな偶像に心を寄せ、神を悲しませ続けました。そして、二度に亘るバビロン捕囚によって、紀元前587年エルサレム神殿は破壊され、瓦礫の山になってしまい、多くの人が死に、そこに貧しい民は残され、地位のある人々は捕囚としてバビロンに連れられてしまい、イスラエルは壊滅的打撃を受けました。イスラエルの歴史の大転換点です。イスラエルの人々は、後に振り返り、このバビロン捕囚を、先祖が偶像に心を寄せ、主に背き続けたその罪の結果として引き起こされたものと理解をするようになります。
しかしそのようなバビロン捕囚の後に、エレミヤに与えられた主の言葉は、「あなたたちのために立てた計画」「それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」という言葉でした。70年の捕囚の時を経て、捕囚の地からエルサレムに帰らせる、そのような預言がエレミヤの口を通して語られ、そして実に、この預言は成就し、事実約70年後に、イスラエルの民はエルサレムへの帰還を赦され、神殿を建て直すに至るのです。
それらのすべては、神の立てられた救いの計画の中にある、今ある苦難も、すべてを通して神は将来と希望を与えると、主はエレミヤを通して語られました。神の目は、人間の視野を超えて広いのです。
さらに「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう」と、捕囚の苦しみの中にある人々に語るのです。
これほどの民族の苦難―近代に於いては、例えば先の戦争を、私たちの中には通って来られた方々もおられることを思わせますが―捕囚となったバビロンの地に於いて、その苦しみの中を通しても、挫けることなく、捕囚とされた異教の地であっても主を尋ね求めるならば、そこで主に出会う、どこにあっても、またどんな苦境に立たされることがあろうとも、その時、そこで主を、心を尽くして祈り求めなさい、そうすれば、「わたしに出会う」と。そしてどんな時にもどんな場所でも落ち着いて、神を求めなさい、そうすれば見出す、あなたがたの求めるところに私はある、そのように主はエレミヤを通して語られました。

神の救いの計画はさらに進んで行き、遂に、神が御子を世に降される、神が人となって世に来られる、そして、自らが十字架という苦しみの極まりをその身に負われ、自ら引き受けられ、人の罪がただ信仰によって赦され救われ、神ともにある命の道を開かれる時が、イエス・キリストによって訪れたのです。
そしてイエス様は、マタイ福音書5章から続いている山上の説教の終わりに、「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と語られました。ローマ帝国の圧政の中で苦しむ人々、飢え、渇き、病を持つ人々に向けて、イエス様は「求めなさい、そうすれば与えられる」と言われ、父なる神は求める者に良い物をお与えになるのだから、そのような愛に生かされていると励まされ、さらにその愛を受けた者として、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者=旧約聖書を通して現された神の愛の業である」と言われたのです。

神は、私たちに神を求めることを願っておられます。不安や苦境の中にあるなら尚更。神に願い求めることを、私たちが神と真剣に向き合うことを待っておられます。
エレミヤ書29:11には「あなたたちに立てた計画」と、「計画」という言葉が使われており、それは「神ご自身の計画」です。さらにここでは「神の計画」と「人間の側の求めること」が同時に語られています。「神の側」と「人間の側」。神に於いては「計画」であり、その神、私たち人間に対しての「計画」のある神に向かって、人間は「求めなさい」、祈り求め、尋ね求めなさいと語られているのです。

しかしながら、「神の計画」があるならば、私たちが「神を呼び」「祈り求める」ことは無意味なのではないか、そのようにお感じになったことはありませんでしょうか。特に、目の前に道が無いと思われるような、そのような状況に陥った時、希望を失い、神の愛が見えなくなり、神は私などに目を留めておられない、いつも貧乏くじを引かされる、神はいつも私を苦しめる、そのように少し卑屈な思いに襲われて、神のせいにして気力を失うなどということはありませんでしょうか。

今日の中心聖句として掲げさせていただいている「求めなさい、そうすれば与えられる」というこの素晴らしい神の言葉を、素直に、もっともっと明るく前向きに掘り下げて語らせていただこう、そう思っていたのですが、先週、ある出来事があり、この御言葉と重ねて考え込ませられ、少し込み入った語り方を、今日はさせていただいています。 
 その出来事というのは、先週も私は歯医者さんに行ったのですが、そこで歯医者さんから思いがけない問いかけをいただきました。私の保険証で、私の職業がおよそ見当がついていらしたらしく、私の口に物をはめて、歯医者さんとしては治療がひと段落で手を休められた時、「僕はキリスト教に興味を持っていて、4年くらい前、教会に通って聖書の勉強をしていたんです」と仰るのです。さらに「宣教師の人から、『神様のプラン』があると言われていたけれど、『神様のプラン』があるならば、どうしてこの世に苦難があるのか、それが分からない」と。
口を開けて無防備な時、いきなり信仰の深淵に関わる問いかけをされて正直たじろぎました。私は問い掛けられながらも、「そのまましばらくじっとしていてください」と言われた時間で、答えを求められても口が動かせないもので、喉で「イマハナセマセン」と言ったという、ちょっと笑える時間だったのですが、口を動かせない間、通っておられた教会で何が語られ、それをどう受け止められたのか、キリスト教信仰のどこに引っかかっていらっしゃるのかを想像しました。

「神様のプラン」そういう言い方をされましたが、それは神様のご計画。主なる神の、愛して已まない罪人である人間と人類に対する壮大なまでの「救いの計画」を意味しているに違いないのですが、そこではもしかしたら、会衆への励ましとして、人ひとりひとりの人生に、「神様のプラン」がある、ということを強調して語られることがあり、それが記憶に残られたのではないか。「神様のプラン」は、「罪人なる人間、そして人類への神の壮大な救いの計画」というよりも、人ひとりひとりに「定められ」た「人生のプラン」として、「神のプラン=計画が私たちにはそれぞれあるのだから、自分の思いではなく、神のプランを生きよう。そうすれば祝福を受けられる」のような、「神様のプラン」を通して人生の「成功哲学」を語るように聞こえたのではないかと思えました。牧師としての私の中にも、そう語ってしまうことへの誘惑を感じることがありますし、またそのようなことを聞いたこともあり、聴いたその時は、心が躍り元気が出るのですが、その後、何となく腑に落ちない、わだかまりのようなものが心に残った記憶があるので、そのように想像しました。
そして世の中の不条理、また人の苦しみや弱さを見つめる「目」を持っておられるその方は、神様が各々の人間に定めておられるプランの中に、悲惨なまでの苦難があることに疑問と、苦難を受ける人への共感、言葉に出来ないうめきのようなものを感じられて、「苦難を与える神という存在」に疑問を持たれたのではないかと思いました。
イエス様は「あなたがたには世に苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は世に勝っている」(ヨハネ16:33)と言われました。私自身は不完全で弱い世には、否応のない苦難があることを聖書は語っていることを覚えており、しかし、世に既に勝っておられる主は、救いの道を示される、そのように理解をしています。それ以上の回答はまだ見つかっていません。
また歯医者さんはさらに、「神のプランを生きるならば祝福を受ける」と聞こえる言葉に、キリスト教の自己中心的なものを感じられたのではないか、また、「神のプラン=計画」があるならば、人間には神から運命のようなものが定められていて、個人の思い、願い求めること、人間の自由な意思は無意味なのではないか、そのように感じられ、混乱されたのではないか、そのように思いました。

「神のプラン=計画」は確かにあります。それは歴史を通して現され続けています。主なる神の見据える命は、私たちの見る世の命を超えています。罪を持って生まれたそのままでは人間は滅びに定められている。そのままでは滅び行く人間を、神共にある永遠の命へと導くための、平和の計画であって、災いの計画ではなく将来と希望を与える神の計画=プランの中を生かされている私たちです。
そしておのおのの人間は、神のロボットのように神の「定められた」プラン=人生の計画を生きるようにされている訳ではありません。あるのは神が、その人の「命」を救おうとされている「救いの計画=プラン」であり、人の人生そのものを、神が上からコントロールされる訳ではありません。
人間はすべて、神の似姿=自由な意思を持つ存在として造られましたが、神は人が、神によって与えられた自由な意思を神に向けて、神に立ち帰って、神と向き合い、神を大いに求め、もっともっと神を探し、神に向かって、その門を叩き続ける者となることを待っておられます。神は「隠れたところにおられる」(マタイ6:6)のですから探し求めなければなりません。
そしてそのようにして神に立ち帰ったならば、そこで人は神共にある命にすっぽりと入れられるのです。「神のプラン=計画」とは、第一にそこに至るまでの救いの計画であり、悔い改め、立ち帰ることが大前提なのです。

神に背いた世には苦難があり、神が居ないかに思えるような不条理があり、悲しみがあります。バビロン捕囚は、民族にとって、また個人にとって、計り知れない悲しみであり、苦難でありました。今の日本の状況―東日本大震災以降、多くの自然災害が各地で起こり、多くの人が住む家を失う状況。コロナによって身動きが出来ず、また多くの人が職場を追われ、思いがけない生活の困難に見舞われている状況があります。
世は弱いのです。完全ではありません。悲しみがあり、苦難があり、死がある罪の世です。神はその世から、その愛によって私たちを救い出そうと働いておられます。
そしてどんな状況にあっても、神の名を呼び、祈り求め、尋ね求めるならば、神は必ず各々に答えてくださいます。求めることは祈ることです。苦難の中で神が見えない時、自分など取るに足りないと思う時、必要なことは祈りです。そして、探し求めなければなりません。世には、私たちには見えない多くの神の宝が隠されています。絶望の中で暗闇に俯いているだけならば見出すことが出来ない神の宝が、世には隠されています。それを見出すためには、祈り、求め、探し、叩かなければなりません。分からないことも何もかも、神に向かって、それを投げるならば、叫ぶように祈るならば、それを見出すことが出来ます。

イエス様は言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる」と。
目の前の状況に、心に希望が無くなりそうになる時も、敢えて心を高く上げ、求め、探し、たたきましょう。神は御心を顕されます。神はよきもの、回答をくださいます。信頼し、求め、探し、たたき続けましょう。
そこに、私たちに対する「神のプラン=救いの計画」は豊かに開かれて行きます。不条理の壁を超えて、必ず開かれて行きます。神と人との関係は、愛による応答の関係です。応答の関係があってこそ、開かれ、また応答の関係にある者たちも、互いに応答し合うことを神は求めておられます。
苦難の中でも求め、探し、たたき続けましょう。「狭い門」は開かれて行きます。

世の苦難の問題は、ひとことで語り、人を言葉で納得させられる事柄ではないことを痛感しています。しかし「求め続ける」ならば、私たちは神の愛にひれ伏すしかない、そのような瞬間が訪れることでしょう。
歯医者さんに対して、私は何らかの返答をしなければなりません。短い知恵の言葉が与えられますように、どうぞ皆様も祈ってください。