前奏
招詞 申命記 6章4~5節
賛美 152(134) みめぐみふかき主に
詩編交読 67編6~8節(74頁)
賛美 483 わが主イェスよ、ひたすら(124)
祈祷
聖書 エフェソの信徒への手紙 1章13~23節 (新352)
説教 「 神を深く知ることができるように 」
祈祷
賛美 393 こころを一つに(134)
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告
頌栄 28 み栄えあれや
祝祷
後奏
エフェソの信徒への手紙1:13~23
今日の説教、どの御言葉を語らせていただこうかと実は悩みました。悩んだ挙句、私が2013年12月に赴任して、翌年度の年間聖句として選ばせていただいた御言葉を、もう一度語らせていただこうと思いました。
覚えておられますでしょうか?「わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように」(17,18)。
この御言葉は、使徒パウロのエフェソの教会の人々に対する祈りです。エフェソの教会は、パウロが第二そして第三伝道旅行では3年間滞在して多くのユダヤ人、また異邦人にもキリストを宣べ伝えた、現在のトルコ西岸部にある町の教会です。この町での出来事は、使徒言行録18~20章に語られています。宣教に於いて多くの混乱もありましたが、この教会でパウロは教会の人々と良い関係を築いており、パウロ自身、啓示を受けて、投獄、苦難、死を覚悟しつつエルサレムに向かってここから船出するのですが、その時、泣いて抱き合い、別れを惜しんだことが語られています。そのように愛して、信頼してやまない教会に対するパウロの祈りの言葉なのです。
この御言葉を年間聖句にした年のクリスマス、私が初めて洗礼を授けさせていただいたKA兄が、いつも週報の表に載っているこの御言葉を見て、「読む度に、これは自分のための御言葉だと思っていた」と洗礼を前に仰られたことがあり、その言葉を聞いて、「御言葉は生きている」、この御言葉は主がこの年、この教会のために選んでくださったのだと、主に感謝いたしました。
当時の説教を読み返してみますと、教会創立30周年を覚えて、22節の「教会はキリストの体」ということに足場を置きつつ、「イエス・キリストを頭とし、一致して互いに祈りあい、互いの上に神の知恵と啓示の霊が与えられ、神をもっともっと深く知ることが出来るように祈り求めたい、またひととき沈黙し、静まり、神の御手にすべてを明け渡す、そのような「隙間」「空間」を作りながら、互いに祈り、支えあい、御言葉によって養われる、そのような教会、エクレシアとして成長させていただきたい」そのように締めくくっていました。
それから7年余。私たちには、神の知恵と啓示の霊が与えられ、神を深く知ることが適ったでしょうか。そのための役割の一端を担わせていただきたいと願いつつ歩んで来ました。しかし、どうであれ、主にあって、土気あすみが丘教会の牧者として共に交わりの中に、祈り合い、支え合い、歩んで来れましたこと、皆様にお出会いをさせていただけましたことに、言い尽くせない感謝でいっぱいです。
土気に来て、心が洗われる思いがしたことのひとつに、空の美しさがありました。牧師館のベランダから見える空は、本当に美しいのです。電線が無く、空が絵画のように目の前にあるのです。朝も夕も、空を見て、日々違う色、雲の動きに心が躍ります。何枚写真を撮ったか分かりません。
空を見る度に、遥か天を思い、神を思いました。神の果てしない創造の御業を思い、また空の果て、宇宙、それらのすべてを超えておられる主なる神を思います。そしてこの広大な、果てしなく美しい全世界をお造りになられた神が、この神の造られた万物の片隅の地球というひとつの小さな惑星に、被造物なる、世界の砂粒の一つにも満たないような、人と同じ姿で降りて来られたことに、驚きをもって思いを馳せます。何故そのようなことが起こったのだろうと。
「ヨハネの手紙一」4:10に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」という御言葉がありますが、万物をお造りになられた神は、この世の片隅の小さな者に目を留められ、この小さな者たちの罪を悲しまれ、憐れまれ、ご自身をこの小さな人間のために、罪を贖ういけにえとして、自ら人と同じ姿になり高き天より降りて来られた。言い方を変えれば、自らすべての人の罪を引き取るために、罪の報いである悲惨な滅びから救いだすために、そして人を罪から救いだすため、自らの者として贖い取るために、ひとりの御子を遣わされた、そのようなお方なのです。何という驚きでしょうか。
神は父子聖霊なる三位一体の神。イエス・キリストというお方は、人となられた神。また神の御子とも私たちは呼びます。「神の御子」とは、人間が自分の子をお腹を痛めて産むように、神が生んだ子がイエス様というお方だということではなく、また神がイエス様を「造られた」というのでもなく、この地上で人となられた神を「神の御子」「神の子」と呼んでいるのです。
イエス様は、父なる神と同質、同じお方です。同じお方であられながらも、御子として世に遣わされ、地上に於いて主なる神を「父」と呼び、父に祈っておられました。世の一番弱い人の姿で、世の悲しみ、苦しみのすべてを担って生きられました。父なる神と同じ、おひとりの神であられながらも、個別の人格を持っておられました。
更に今日お読みした1:13に不思議な言葉がありました。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」と。
聖霊は三位一体なる神の、第三の位格、人格。このお方は、イエス・キリストの十字架と復活、そして昇天を通して、イエス様が栄光を受けられた後、世に残る、弱い弟子たち、そしてキリストを信じる者たち各々に、また私たちの交わりの只中に与えられた、来られた神、イエス・キリストの霊。
聖霊は「キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音」を「聞き」、そして「信じ」た者たちに押される証印であり、御国を受け継ぐための保証であり、この保証とは、「贖われて神のものとなる」証印、しるしなのです。神の言葉を聞いて、信じた者は、「神のもの」となるのです。
神は人間の知識を超えたお方ですね。神を深く知ろうとすればするほど、私たちは「分からない」という人間の理性の壁にぶち当たるように思えます。そのような疑問をこの7年7ヶ月たくさんいただきました。この教会の皆様は「神を深く知る」ことを求めておられる方々の群だと思えました。「深く知る」ことを求めれば求めるほど、疑問が生まれるものでもありましょう。「分からない」「にも拘らず」、いえ「だからこそ」求める人たちの群であると思いました。
イエス様はルカ11章で言われました。「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる」(11:9)と。そしてこの御言葉の最後に、「まして天の父は求める者に聖霊を与えられる」と主は語られました。
求めて探して門をたたき続けて、神から人間に与えられる最高のものは、聖霊であるのです。
聖霊なる神、このお方は、イエス・キリストの十字架と復活、昇天を通して、不完全で、空中に勢力を持つ世の諸霊の支配下に置かれて、さまざまな理不尽な苦しみの中に生きる人間に与えられる、神の証印であり、神のものとされている保証です。
パウロは、コリントの信徒への手紙一で、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(3:16)と語っていますが、「聞いて」「信じ」、そして洗礼を受け、イエス・キリストを頭とする世にあるキリストの体である教会に連なる者とされた者たちは、聖霊をこの体にいただいています。
「聖なる者たち」という15節にあるパウロの言葉は「真理の言葉」を「聞いて」「信じて」「聖霊の証印」を受けた者と理解してよいでしょう。
聖霊は目には見えません。しかし聖霊はイエス様の霊であられますので、非常に静かで謙遜で、何やら特別な霊的な陶酔状態に俄かに私たちを入れるようなお方ではなく、人間の自由意志に基づき、そっと私たちの内に住まわれておられるので、私たちは気づきませんが、私たちの内に働いて、私たちの求めることに応じて、また必要に応じて、神を知る知恵、または時にご自身を啓示される―その人自身にしか分からない方法で、ご自身を顕される。それは奇跡と呼ばれる現れ方もする―場合も大いにあるでしょう。
今日はお読みしませんでしたが、先の2章1、2節をお読みします。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちのうちに今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました」、そのような罪の支配の中に生まれ、生きていた私たちは、イエス・キリストという真理の言葉を「聞いて」「信じ」て、聖霊の証印を受けました。聖霊は信じてキリストに贖われ、神のものとなった私たちが、神のものとして、神に相応しく変革されていく力として各々に力強く働きつつ、しかも静かに守り導いてくださいます。静かに、人間の自由意志の邪魔をせず。あたかも神が、人間が罪から立ち帰り、神と共に生きる者となることを静かに待っておられるのと同様に。
しかしながら、私たちは聖霊、神の霊が私たちの内に住まわれていること、与えられていることを、なかなか認めようとは致しません。自分は自分、人間の理性的な判断、自分の意志、思い、それらは信仰に於いて必要なものですが、そればかりであるならば、深く神を知ることには至らないでしょう。見えない神、人間の知識では語りつくせない神。霊であられるそのお方を深く知るためには、個人の求める力、求める祈りは不可欠ですが、それを支えるものとして、他者からの祈りが必要です。
この時、パウロは恐らくエフェソの長老に別れを告げた時に語ったとおり、牢獄に繋がれておりました。暗い牢獄。身動きの取れない暗闇で、人は何をするでしょうか。パウロは祈り続けていたのです。人はどのように自由が奪われた状態であっても、天に心を上げて、神に心を向けることが出来ます。そして祈ることが出来ます。パウロは、愛するエフェソの教会の人々のことを思い起こし、感謝し祈り続けているのです。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与え、神を深く知ることが出来るようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」と。
真理の言葉、救いをもたらす福音を「聞き」「信じ」「聖霊の証印を押され」た者に与えられている神の力、それはイエス・キリストが死を超えて復活された、そのことに与る復活の命であり、永遠の神の支配の中に入れられる、永遠の命です。
イエス・キリストは十字架に架けられ死なれたけれど、陰府を打ち破り復活され、天に昇られ、父なる神の右の座=支配の座にお着きになられました。そして、すべての支配、権威、勢力、主権はイエス・キリストの上に置かれ、今の世ばかりでなく、来るべき世―世の終わり、終末を超えて、唱えられるあらゆる名の上に置かれる名とされています。イエスというその名に、すべての主権、権威、勢力が、神の支配に於いて既に置かれているのです。
真理の言葉を「聞いて」「信じ」「聖霊の証印を受け」た者は、すべてのものを超えて高くおられるイエス・キリストの権威のもと、「神のもの」とされ、地上に於いては、イエス・キリストを頭として、キリストの体を形づくる地上の教会に集められています。
世は未だ世を支配する「空中の勢力を持つ者」「不従順な者たちの内に今も働く霊」に満ちている世ではありますが、そのような世にありながらも、聖霊の証印を受け、不従順な者たちの内に今も働く諸霊のもとには既におらず、地上にあって、天高いところにおられるイエス・キリストを頭として、地上のあたかも避難所のように、教会に集められているのです。
この土気あすみが丘教会は、キリストに於いて、真理の言葉、救いをもたらす福音を「聞き」「信じて」「聖霊の証印」を受けた人たちの小さな地上の群です。この教会は天に繋がれています。
神は人間の知識を遥かに超えておられますので、私たちは多くの疑問も持ち、聖書に問い掛けをすることでしょう。神はそれらの声を聞いておられます。既に聖霊の証印を受けているのですから、神ご自身が、おひとりおひとりに知恵と啓示を、神に向き合い求め続けるならば与えてくださることでしょう。そして、主を深く知るに至るでしょう。
しかし、私たちは弱いですので、時に脇見をしてしまいますし、神に対する疑問の方が膨れ上がってしまう時のあるかも知れません。例えば、理不尽な苦しみの中に置かれた時など。そのために、互いに祈り合いましょう。互いに重んじ合い、互いに愛し合い、感謝して祈り合いましょう。
神は祈りに応えてくださり、祈りは理性で神を知ることを求めることの多い私たちの「私」という枠を解き放ち、神御自身が知恵と、そして私たちひとりひとりにしかもしかしたら分からない方法で、自らを啓示され、顕され、神を深く知る知識に満たしてくださることでしょう。
これからも、ますますこの群が、主を求め、祈り合い、支え合い、主を知る知恵と啓示に満たされて、主イエス・キリストを頭として、キリストの体を造り上げて行かれることを祈っています。