ルカによる福音書12章22−34節
山元克之牧師
「思い悩むな」とお語りになる主イエスは「空の鳥」と「野の花」を示して思い悩む必要がないことを告げられます。カラスのことを考えよと主イエスは言われます。カラスのことについて考える。そうすると考え付くのは、それが不気味な存在で、汚らしく、そして嫌われた存在であるということです。
そのカラスのことを念頭に、「小さな群れよ。恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる」という御言葉を聞くと、その意味の深さが分かります。人々から嫌われる存在のカラス。人からは認められないカラス。そのカラスさえも神様は愛し、守っておられる。それと同じように小さな群れ、弱い存在の者たち。人々はその存在を忘れてしまうかもしれない。人からは認められないかもしれない。しかし、神様が認めておられる。無力だとしても大切だと言ってくださる。神の国をくださるとさえ言っておられる。だから、小さい群れであることを「恐れることはない」と主イエスは言われるのです。
「あなた方の父は喜んで神の国をくださる」と主イエスはおっしゃいます。「喜んで」と言われるのです。小さな群れだけどしぶしぶ、ということではない。嫌われ者だけど仕方なくということでもない。喜びをもって、小さな群れに神の国をくださるのです。何の役にも立たないものを喜んで認めてくださっている。いや、主イエスの弟子たちの作る小さな群れは、どういう群れだったか思い出したら良く分かる。その小さい群れは、役に立たないどころか、主イエスの足を引っ張る群れでありました。主イエスを売ったのは、主イエスの弟子でした。主イエスを見捨てたのは、弟子でした。そのような足を引っ張るようなものに喜んで神の国を与えるとお語りになっているのです。本当に小さなものを、取るに足らない者を、いや、主イエスを裏切る者を、喜びをもって迎えてくださる方がおられる。
私たちは、知らされています。神の御子イエス・キリストというお方は、神と等しい身分であられながら最も低きにお下りになられ、十字架にお架かりになられました。誰よりも小さきことの意味、弱きことの意味を知っておられるのは主イエス・キリストであられます。私たちが小さきを覚えるその場所に小さくなられた主が共におられます。そしてその小さきものを贖われるために十字架の死を死なれ、復活されたのです。まさに、その十字架と復活の出来事とは、本当に「喜んで神の国を私たちにくださる」ということを神さまがお示し下さった出来事であります。
小さい私たちは絶望ではなくむしろ、希望を持って歩むことができます。小さいがゆえに悩むことはない。恐れることもない。私たちの小さな群れは、この世から忘れられていくことがあるかもしれません。しかし、主イエスは「あなた方の父は喜んで神の国をくださる」と言われます。。この世が忘れても神様は小さい私たちをお忘れになることは決してないのです。
「小さな群れよ。恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる」キリストの言葉です。最も小さくなられた十字架の主イエスは私たちの小ささの中でこそ輝きます。