礼拝説教「神のために働く」(2021年8月8日)

コリントの信徒への手紙一 3章9~17節
辻 哲子牧師

今日はあらためて<教会とは何か><いかなる土台によって教会は建てられているか>ということを聖書から示されたいと思います。そして<わたしたちはいかなるものか>ということを自覚できますように。今日の緊急事態宣言下において。

1, 神の畑である教会
 3章9節で「わたしたちは神のために力をあわせて働く者であり、あなた方は神の畑、神の建物なのです。」とパウロは語ります。
ここでは「わたしたち」と「あなたがた」と分けて語っていますが、私たちキリスト者は教職者も信徒も<神のために働く同労者>ではないでしょうか。なぜ<わたした>と<あなたがた>と分けて語っているのでしょうか。
 これはコリントへの信徒の手紙一の1章及び3章を読みますと、コリントの教会は「わたしはパウロに」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」という分派のようなものがありました。そこでパウロは<わたしたちは>アポロもケパも<神のために力をあわせて働く者に>すぎないのだということを強調しているのです。

3章6節「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。」
 
人々は神様の働きを見ないで見える伝道者、牧師の働きを見て個人崇拝が起こる場合があります。そこで<わたしたち伝道者>は神のために力を合わせて働く者に過ぎず、それぞれの特色を持って教会に仕えてきたのです。働く目的はひとつであります。
 それは<自分のため>ではなく<神のため>に福音の種子(たね)をまく者、植える者、水を注ぐ者として<私たちは>働いているのです。そして神さまはそれぞれの働きに応じて報いてくださるのです。
 では、その働きの対象は何でしょう。神の畑、神の建物である教会です。

3章9節「あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」

教会の人に向かって「あなたがたは神の畑、神の建物である」と言いきっています。
教会が神の畑であるとはどういうことでしょうか。
① <よき実を結ぶ>ことが求められているのです。
ところで、神の畑でありながら実を結ばないということがあります。それはどういうことでしょう。旧約聖書イザヤ書5章に神様がイスラエルの民に神の畑として「良いぶどうが実を結ぶのを待ち望んだが、結んだのは野ぶどうであった」とあります。イスラエルは神さまから特別に選ばれ愛されているのに野ぶどうの畑にしてしまったのでした。「それは、神の言葉を聞かず、悔い改めることを忘れたからである」とイザヤ書は告げます。
② 教会は<神のイスラエル>(ガラテヤ6:16)です。<神の畑>としてよき実を結ぶように期待されているのです。神の畑に神様は<種まく人。植える人、水を注ぐ人>を用意されてお遣わしになります。そして神様が成長させてくださるのです。
この土気あすみが丘教会も同じです。多くの牧師たちが遣わされました。神の畑に雑草がはえないように、よき実を結ぶようになるにはどういうことに注意しなければならないでしょうか。

Ⅱ、教会の土台はキリスト
 一番大切なことは教会の土台はキリストであるということを正しく認識し信じることです。
3章10節「わたしは神から頂いた恵みによって熟練した建築家のように土台を据えました。そしてほかの人がその上に家を建てています。」

パウロは丁寧に「神から頂いた<恵みによって>土台を据えた、と言っています。自分の好みや自分勝手の考えから土台を据えたのではないということです。<恵みによって熟練した建築家のように>あらゆる知恵と知識をかって土台を据えました。
 土台が建築家にとって最も大事なことは言うまでもありません。表面的に見栄えさえよければということは決してあってはなりません。であるからこそ「ただおのおの、どのように建てるかに注意すべきです。」問題は<どのように建てるか>であります。これは教会の大きな課題です。

3章11節「イエス・キリストというすでに据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」

主イエス・キリストが教会の土台です。パウロはコリント教会の開拓伝道者でありますが、創始者ではありません。イエス・キリストが創始者です。
 ではイエス・キリストという土台とはどういうことなのでしょうか。

その土台は信仰告白です。
 一番短い信仰告白は「あなたこそいける神の子キリストです」というペトロが皆を代表して告白した信仰告白です。その信仰告白に対してイエス・キリストは「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16:16~18)と言われました。この信仰告白の上に教会は建てられているのです。
 土台は見えません。どういう土台の上に立っているのか調べなければわかりません。耐震基準に正しく沿っていないため損害を被った事件がありました。その被害は極めて大きいものでした。
 教会も地震や嵐やいろいろな試練の時があります。それは一人一人がしっかりとイエス・キリストを土台とした教会に連なっているかかが問われます。主イエス・キリストを土台にしキリストを中心に教職も信徒も立っているならばどんな嵐がきてもビクともせず立ち続けることができます。しかし、キリストを二の次三の次に考え人間中心、自分中心に考えて生きている者は嵐が来た時に教会から遠のきます。

Ⅲ、教会の大切な仕事を吟味する
 教会の仕事は礼拝と伝道です。そのことに対して誠実に力をつくしてかかわることです。一回一回の礼拝において、主イエス・キリストは私たちを迎えてくださり、御言葉と聖書をもって私たちを養い導いてくださいます。
 そのイエス・キリストに対して私たちは教会生活においてどのような仕事をしているでしょうか。

3章12~13節「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。」

私たちの仕事は金もあれば草やわらの場合もあります。与えられた賜物は違いましてもおのおのが礼拝にどのような姿勢で向きあっているか、教会の伝道のわざにどのようにかかわっているか、吟味される時がくるのです。
 イエス・キリストを無視して人間的な願望や好みで教会の仕事を考えているならば、外面的には楽しそうで活き活きしているようでも試される時がくるのです。アウグスチヌスは「主キリストのことに配慮するキリスト者は金銀宝石で教会を建てる人です。」と言いました。私たちはそれぞれの仕事がどのようなものであるか分かりません。神様だけが「かの日」に明らかにしてくださるのです。
 
 一つ言えることは、礼拝において説教者も聴衆も神のみ言葉に耳を傾け神の前に畏れをもって礼拝する中で、未信者の方が求道します。よき実を結び、神の畑、神の建物として教会が用いられることを知ります。礼拝は伝道の場となります。神との交わりが与えられると共に人と人との深い交わりも与えられます。信頼関係が生まれてきます。

3章14節「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただその人は火の中をくぐりぬけてきた者のように、救われます。」

試練の火はどのような仕事をしてきたかを試されるのです。もし燃え尽きてしまえばその損害は大きいです。損害がもたらした責任は大きいです。それにもかかわらず「ただその人は火の中をくぐりぬけて来た者のように救われます。」
見える形では大きな損害を受けても神のために力を合わせて働く者は救われるのです。教会は教職も信徒も、今新型コロナウイルス感染の試練の中にあります。しかし主にあっては、火の中をくぐりぬけて来た者のように、精錬された本ものの信仰へと導かれるのではないでしょうか。

Ⅳ、神の神殿である私たち

3章16節「あなた方は自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」
3章17節「神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」

わたしたちは「あなたがたは神の霊がいます神の神殿である」といわれると戸惑うのではないでしょうか。私たちキリスト者は聖霊が自分の内に住んでいてくださることを知っているでしょうか。パウロがコリント教会の人に<知らないのですか>と問うほど私たちも無自覚です。世俗の中でどっぷりつかり、自分のことばかり考えがちな者ですから、このような私たちを「あなたがたは神の神殿なのです」といわれると戸惑います。しかしそれは主イエス・キリストが十字架のあがないの死により恵みとして聖なる者にして下さっているからこそ<神の神殿である>と宣言されるのです。
 聖書は「聖なる者にならなければいけない」とは言っておりません。十字架と復活の主が私たちに聖霊を送って下さり、聖霊によって主イエスを「活ける神の子キリストです」と信仰告白することができました。そして今や聖なる神の神殿とされて聖霊の導きを仰ぐことができるのです。
 私たちは主イエス・キリストを通して神の大きな働きを仰ぎます。神様は私たちを神の畑、神の建物、神の神殿として用いておられるのです。
 私は引退後あちこちの教会に招かれて思いますことは<自分を愛するようにキリストの教会を愛する信徒たちの教会は活気があり、伝道熱心です。>ここの教会もそのことを感じさせます。
 主任教師が不在でありましても<土台であるキリスト>を中心に各自がよき材料を用いて<神のために働く>ひとりひとりでありますように。ますます、キリストのご栄光を現す教会へと導かれますように。祈りましょう。

教会の土台であり、かしらなる主イエス・キリストの父なる神様、
共に礼拝をささげることができまして感謝いたします。この地にキリストの土台が据えられて以来、神のために働く者を起こしてくださり、こころから御名を崇めます。私たちは神の畑であり、神の建物であり、聖霊の住む神の神殿であることに無自覚である罪をお赦しください。常にキリストが教会の土台であり、教会のかしらであることを信じ自分を愛するように教会を愛していけますように導いてください。
 今、新型コロナウイルス感染の中、再び緊急事態宣言下におかれています。どうぞ一人一人気をつけて被害を抑えることができますように。特に医療現場で働いている方たちをお支え下さい。すべての教会、伝道所の働きを祝し特に土気あすみが丘教会の上にこの試練をお支え、豊かに祝してくださいますように。主の御名によってお願いします。
アーメン