(説教要旨)「神の家族としての世界にキリストの平和を」(2021年8月15日)

エフェソの信徒への手紙2章14~32節
コロサイの信徒への手紙3章18~4章1節

三吉 明(みよし・あき)牧師
 地球家族という言葉がある(ハンガーゼロ・カレンダーの名称)。又人類家族ともいう(フランス、テゼ共同体の和解の教会で用いる)。家族は今や核家族をこえ地域をこえ国を超えている。ではコロサイ書の家族訓はどのような位置、意味をもつだろうか。
 コロサイ3:18の背景には現代の家族より少し広がりを持つ家の様子がうかがえる。奴隷も共にいる。著者はその家の主人に対し、天にこそ真の主人がいることを覚えよとさとす。まさに人類と被造世界が神の大家族なのである。
 エフェソ書には「神の家族」という言葉がある。これは神の民、教会をさすと思われるがそうだろうか。個教会や教団をさすだけではない。前後をよめば、互いの敵意をキリストの体において滅ぼした新しい人(単)=者の和解と、さらに神と和解した全く新しい存在(あり方)をさしている。1章にさかのぼれば天地創造の前の神の計画は罪ゆるされた神の子たちに豊かな恵みを注いで神をたたえる教会とするもので、ロマ書のパウロによれば被造物はこの神の子たちの出現をうめきつつ待ち望んでいるという(ロマ書8:22)。今も呻き苦しむ世界に未だに平和の実現の困難な世界に神の家族=教会は、又神との平和を得ているわたしたちは何ができるのだろうか。
 テゼ共同体でエキュメニカルという時それは教派再一致の事ではない。もともとエキュメニカルのもとの言葉がオイクメネー(オイコスは家)神の家族を意味するようにすべての人々のための平和を求め、一つになることを祈る。エフェソ書第1章から2章へ読みすすむ時、罪ゆるされキリストと共に生かされ神に造られた者として平和の福音を生きることへ一人一人が召されている。聖霊によって神の住まいとなると。驚嘆するべき約束ではないか。
 神のこの計画はなお世界の現実とかけ離れている。教会も平和運動もすべての善意もむなしく思える。一歩一歩を大切にできる日常の、足もとの家族から教会からはじめるしかない。やはり日常からはじめよう。家族という単位は、また一つの教会は、自分たちだけがよければという守備範囲ではない。少し広げて親類友人たち近所つきあいというだけではない。今という時代、世界中のかなしみ、痛み、課題が家庭の中に一家族になだれこんでくる。だからこそ日常の小さな努力や心がけ、祈りが重要な意味を持つ。天に唯一の主人が在す故それは決して軽んじられない。
 クリスマスの聖家族を考えてみよう。三人だけの核家族であり、今(マリヤと)ヨセフはただ幼子イエスの命を守ることしか考えられない。だからと言って彼らが利己的とは誰も言うまい。目の前の生命を守ることがやがて全世界にもたらされるインマヌエルの平和の実現なのである。天に唯一の父がおられると同じ様に地に救い主が、一人の主がおられる。この御子は自分の民を罪から救う(マタイ1:21)故、今この聖家族の中に世界中のいたみ、苦しみ、破れ、叫びがなだれこんでいる。同じ分だけ、喜び、希望、さんびもすでにいただいている恵みに加えてあふれ出てくるだろう。クリスマスの三人の生活が日常の現実であったように、私たちも今という時代の今いる場所での生活を御子キリストが共におられる生活として生きよう。教会生活も、世界を考え神を信じつつも大いなる憂いをもって(それ故にこそ大いなる希望を大胆にもって)平和の実現をあきらめない生活を志したい。

天にも地にも主は共に在す
             アーメン