礼拝説教「開かれた戸」2021年8月22日 

マタイによ福音書25:1-13 
 
空閑厚憲牧師
御言葉の御用の前に共にお祈り下さい。
イエス・キリストが命を懸けて証しして下さっている父なる神様、すべてを感謝致します。過ぎた日、時折あなたへの信頼を離れた私共にも拘わらず、救い主イエス様の執り成しを受け、再びこの場に集められました。有難うございます。同じ時、それぞれ与えられた場に於いてあなたへの礼拝を献げたく願っている者一人ひとりをお覚え下さり顧みて下さい。このひととき聞く者語る者を聖霊で満たして下さい。救い主イエス・キリストの聖名によりお祈り致します。アーメン

何が起きても不思議でないと思える昨今ですが、変則的な形でありますが、今こうして共に礼拝を献げる時が備えられ、深く感謝致します。
本日与えられましたイエス様の譬話も又、イエス様ご自身がヒタヒタと迫って来る命の危機の中で、弟子に語られたものです。そして弟子達も又言葉に出来ない不安の中にありました。そんな時です。イエス様はどんな声で語られたのでしょうか?
いつもより少し低い調子で、慎重に弟子達に言い含める様でしたでしょうか?
又は、突然の出来事にも対応出来る備えを促す、張り詰めた語り口だったでしょうか?
色々と思い巡らせることは出来ましょう。
今言える一つの事は、この譬話は喜びの譬話でもあるという事です。
所で、ヨーロッパを旅し、古い教会を訪ねた方は礼拝堂の入り口に本日の聖書箇所に由来する10人の乙女の彫像やレリーフを度々目にするとの事です。それだけ長い時代、多くのキリスト者になじみ深い御言葉である様です。しかしこの譬話は並行記事はなく、マタイだけが伝承をここに書き留めてくれているのです。マタイの教会がこの福音書を編集した頃の教会には、一つの大きな課題がありました。それはイエス様の「再臨」を待っているのになかなかその時が来ません。一体いつイエス様はこの世界に来られるのか、という疑いと不安が生じていました。新しく誕生した初代教会で、イエス様の「再臨」が特別に注目されていたのです。
外に、ローマとユダヤ教の迫害、内に、イエス様の再臨の遅れという現実が、初代教会を大きく揺らしていたのです。そんな彼らに向かってイエス様が語られた譬話なのです。
ある人は、イエス様の再臨がいつ起きても良い様に、目を覚ましておくべきとの意を汲み、一層の信仰生活の励みとしたかも知れません。
又ある人は、喜び溢れる結婚式を連想し、イエス様の再臨迄色々あったとしても、イエス様の再臨の確かさを結婚成立の喜びに重ねたでしょう。
しかしある人は、イエス様の再臨の時、自分達はその愚かさの為に追い出されるのではないかと不安に駆られたかもしれません。そして少しでも賢くなろうと努力した事でしょう。
色々ありましたが、ともあれ結婚式は無事に進み、花婿、花嫁は予定通り結婚が成立し、両家の人々は勿論、それぞれが属していた地域社会にも認められたのです。めでたい事です。確かに愚かな乙女が5人いたのでトラブル続きでした。
役立たずのままで、彼女達は最後には主人に「わたしはお前たちを知らない」と迄言われ、鼻先で戸を閉められたというのです。しかしこれも人間世界の現実だよ、と言われれば確かに認めざるを得ません。 厳しいのです。
お互い助け合い平和に暮らしたいけれども現実は厳しいのです。
世界政治も経済界も、そしてウィルスに至るまでの自然界も厳しいのです。
市民革命を経て、自由、平等、平和を認め合う民主主義社会の実現は、遅々とした歩みですが、確実に進んでいると感じていたのも束の間、アフガニスタンの現状は想像以上の厳しさです。ついこの前は、ミャンマーが軍隊にその政権を奪われ、もう軍事政権が既成事実化した如くです。香港の若者の声は一党独裁の力に消されたのでしょうか?
近、現代の歴史でどこかで私共が既に経験して来た事が、今再び繰り返されている思いがします。それはヤルか、ヤラレルかの力が正義、という、人の世の現実です。
所でイエス様が弟子達との別れを予感される中で、そして口では言い表せない弟子達の不安を目の当たりにされて語られたのがこの譬話なのです。
その譬話には「再臨」の本当の意味が示されているのです。
イエス様の再臨とは、時代も場所も文化も異なる誰でもがイエス様を生き生きと感じ、その御跡を辿る人生を恵まれる事です。
現に私共は、2000年前と同じようにイエス様が日々生きて働いて下さっている事を実感しているのです。正に再臨のイエス様に会わせて頂いていると言えましょう。
今朝は初代教会の状況の下ではなく、17,8世紀の、人間の経験と理性による備えあれば憂いなしと導く啓蒙思想の下でもない、正に今、コロナという疫病流行の中で、教会礼拝を自粛せざるを得ない私共へのイエス様の導きとして、この譬話をお受けしたいのです。
所でイエス様の譬話には2つの特徴があると言われています。
一つは、譬話の素材を当時の人々が慣れ親しんでいる日常生活の中から用いている事。もう一つは、当時人々の間で常識とされていた物事に対する批判と問いかけがある事、です。
1世紀のパレスチナでは、結婚式は人生最大の祝い事でした。
この譬話はそのめでたい祝いの日の出来事です。
確かに愚かな乙女によって、そして花婿の到着が予定より遅れた事によって結婚の祝いのセレモニーはもたつきましたが、中止や延期などという事にはなりませんでした。
この譬話を聞く私共は思います。
ともかく結婚式は無事終わって、予定通り結婚は成立したのだ。
良かった! 良かった! 後は祝いの宴に出席して、美味しい御馳走とお酒を楽しもう、という気分です。
しかしそんなリラックスした気分に水を差す様に、愚かな乙女達が祝いの席から締め出され、主人から「わたしはお前たちを知らない」と言われるのです。
当時結婚は、個人の祝い事に止まらず地域社会の祝い事として、一人でも多くの地縁血縁の人々に祝って貰うのが常でした。それなのに、愚かな乙女たちは祝いの席から締め出されているのです。10人の乙女は元々花嫁の親戚や友人など親しい間柄の娘さんたちでした。ですから結婚の祝宴に花を添える大切な招待客でした。結婚が成立した後の祝いの宴には多くの人が招かれ喜んで参加することが、神と人から祝福される結婚とされていたのです。
所で25章1節に「そこで、天の国は次のようにたとえられる」とありますが、この「たとえる」というギリシア語の元々の意味には、「並置する、並べて置く」という意味があります。つまり結果として「両者を比べる」という事です。
ここでは受身形が使われていますから「そこで天の国は10人の乙女たちに比べられる」となります。 「天の国」は「神の国」と同じです。
伝統的な解釈の多くは「譬える、なぞらえる、似ている」ですが、「比べられる」という解釈もあります。
今私共は「譬えられる」を「比べられる」と読んでみましょう。
所で私はこの頃、もう亡くなった父や母の事を思います。
父が80歳の頃はどうだったかなぁー。 電車を乗り継いで銀座の「碁会所」によく行っていたなぁー、 とか。 新聞を隅から隅迄読み、株の相場に一喜一憂していたなぁー と。今自分が父と同じ年になって、何か違う、と感じるのです。
優劣を比べるのではなく、並べて考えてみると、78歳の父と同じ歳の私の違いが分かり、その中で自分自身の老いがよりはっきりとされてくる気がします。

イエス様は、神の国は、1節から12節に記されている結婚式に比べてみると良く分かりますよ、と言われている様です。
ここに繰り広げられているのは、能力主義という物差しにより組み分けされ、優劣を付けられる社会です。愚かな者、弱い者は、どうしようもない現実です。
一時的には良くなったと思っても、又元に戻るのです。仕方ないと諦めに至るだけです。しかしもう一度この譬話を聞いてみましょう。
ここには大きな変化があります。
今迄存在していなかった新しい夫婦が、神様と人々に承認され、存在する事になったのです。確かに賢い乙女は、いつも賢く振る舞い、愚かな乙女はいつもドジを踏み、少しも進歩が見られないかも知れません。そして能力主義の本質はびくともしない。そんな人の世の只中で、イエス様が新しい夫婦誕生を取り上げて、神の国を語って下さるのです。
時代が進むと、この譬話の花婿をイエス様に当てはめる教会も出て来ましたが、イエス様が話された時はその様な意味付けはなされていません。
イエス様は新しい夫婦の結婚を推し進める「仲人」の様です。
この譬話でイエス様は相変わらずヤルかヤラレルかの生き方しか出来ない私共を神の国に結んで下さるのです。その時イエス様によって私共も御心を知る者とされるでしょう。私共一人びとりを愚か者も賢い者も無条件で結婚の祝宴に招いて下さり、神様との関わりを作って下さったのです。
確かに私共が与えられている歴史、文化の下では、神の国とは関わりのない様な愚か者であっても、そして「わたしはお前たちを知らない」と鼻先で戸を閉められ、締め出される様な者であっても、イエス様がその戸を開けて下さる時が来たのです。その時が、一人ひとりの信仰の旅路に備えられているのです。
ですからイエス様を知らされた者は、どんな時も希望に生きるのです。
イエス様との別れを予感し、自分達の非力や愚かさに、これからの不安に沈んでいる弟子達に、結婚の祝宴にひそむ人間社会の現実を示して下さっています。
そしてその現実の只中に成立するイエス様の十字架こそ、今正に成らんとする神の国を指し示して下さっています。
ここにイエス・キリストの御名によって希望することが可能となったのです。
所で、1世紀のパレスチナでは、結婚は一生一代の祝い事と申しましたが、また同時に一生一代の経済活動でもありました。結納金の名で両家の間に大きな取引がなされたのです。娘は父親の所有物の様に扱われ、少しでも実家を富ませる結婚を受け入れさせられるのです。今でもその様な風習に苦しむ女性が、アラブをはじめ世界各地にいます。
この譬話で花婿が遅れたのも、ぎりぎりまで結納金や破談になった時の妻に支払われるべき金額についての相談が、イヤ商談がまとまらなかったのかも知れません。それが漸くまとまり、花嫁を迎えに行く時が来たのでしょう。
この結婚話の間に、はだかっていた問題は解決され、遂にこの結婚は成立するのです。この事を待っていた両家の人々、親戚縁者の人々、そして10人の乙女も大喜びで花婿を迎えるのです。正に待ちに待った喜びを伝える喜びの譬話です。しかしこの喜びの譬話を、「イエス様の再臨を心して待つ様に」と不安と疑いの中にいた初代教会の人々を励まし、備えを促す譬話として受け入れて来た人も多くいました。それはその時代に必要とされた受け取り方であったと言えましょう。

所で今、私共はウィルスによる感染症に直面し、解決策を見付けられていません。
他にも突然襲う自然災害、不安定な国際状況に不安な時を過ごしています。これ迄の努力は空しかったのかと自問自答する時もあります。私共の歴史は、私共の人生は、堂々巡りなのか、何の突破口も与えられないまま輪廻に囚われて生かされるだけなのか、と。
しかしイエス様を知らされ、その御言葉と御業に触れる時、私共はどの様に絶望的状況であっても希望し続ける力を与えられます。正にその為にイエス様は十字架への道を辿られる事になったのです。
愚かな乙女を締め出した戸は、イエス様により開かれるのです。
2000年前も今も、人の価値はその能力で計られ、厳しく差別化されます。
何も変わっていない様に見えます。それは私共の世界を、一人びとりの人生を、絶望と諦めへと誘います。しかしイエス様が十字架によって私共と神の国を結んで下さいました。 ですからその誘惑は退けられたのです。そしてもう一度やり直す希望に生きるのです。これはまるで結婚成立の喜びです。
問題解決の兆しさえ見えない諸問題を前にして、主イエス様の導きの灯火を見失わず、一日一日を祈りつつ過ごしたいものです。

お祈り
御子イエス・キリストの御名を賛美いたします。
あなたは御独り子を遣わして下さるほど、私共を愛して下さることを再び示され、イエス・キリストによる希望に立ち返らせられました。有難うございます。今試みにある人を覚えて下さい。御支え下さい。この祈りを救い主イエス・キリストの御名により御前にお献げ致します。 アーメン