礼拝説教「なくてはならない一つのもの」(2021年10月17日)

ルカによる福音書16章1-13節   「なくてはならない一つのもの」

空閑厚憲牧師

御言葉の御用の前にご一緒にお祈り下さい。

主イエス・キリストの父なる神様、

すべてを感謝致します。信仰の友と再びこの場に招かれ、あなたを賛美する恵みを喜びと共にお受けします。この一時、聞く者語る者を御前に低くして下さり、聖霊で満たして下さい。この祈り、私共の救い主イエス・キリストの御名により御前にお献げ致します。アーメン

 

先週14日から東京で大英博物館のミイラ展が開催されていますが、その案内文にこうありました。

「世界最大級の古代エジプトコレクションを誇る大英博物館が・・・」と。

コレクションを誇ってもいいのかなぁとひっかかりました。

七つの海を征服したと言ってもよい程の植民地政策の成功の一つであるエジプトの植民地化によって発掘された品々は、当然の様に大英帝国の物とされたのでしょう。国情も安定せず、考古学の研究もイギリスに及ばない時代を、大英博物館が大切に収蔵して来た事は、発掘品にとっては良かった事ですが、エジプトの人々にとっては複雑な思いがあるでしょう。

この案内文は、せめて「人類の誇りである古代の発掘品」くらいの表現にして欲しいと思いました。

私共の倫理観や道徳観は、時代の価値観に少なからず左右されます。

しかしいつの時代でも、他人の財産を自分のものにすれば責められます。

 

不正な管理人のこの話は、私共の常識的な道徳観や、倫理観では推し量ることが難しい箇所です。主人の財産を無駄使いした管理人は、その管理人と言う立場を利用して人に恩を売り、解雇されたのちの生活に備えました。

所がこの不正な管理人の抜け目ないやり方を、主人は褒めたとされています。人は誰でも出来る限り不正な事から遠ざかろうと願い、又努力します。

にもかかわらず何故この話がイエス様の語られた話として記されているのでしょうか?

ここで注意しておきたい事は、1節から8節前半までがイエス様の語られた話で、8節後半からはルカが編集時に付け加えたとされています。

この付加された部分によって、イエス様のこの話が如何に理解不可能であり、読者を悩ませてきた話であったか推察できます。少しでも理解の助けになる様にとする、ルカの教会の指導者の工夫が窺えます。

 

さて、彼は管理人です。

彼の管理している財産は自分のものではありません。主人は大切な財産の管理を任せるのにふさわしいと思い、彼を管理人として雇ったのでありましょう。しかし実際は管理人にふさわしくない不正を彼は働いていると、主人に告げ口する者がいたのです。

ですから主人は「もう管理を任せておく訳にはいかない」と言ったのです。

所でここを読みますと、私は現在私共が直面している環境問題を思い起こさざるを得ません。この豊かな自然環境を、世界の多くの民族がその神話や伝承芸能で、神の創造物として表現しております。

人間の技術や知恵によって、自然界が出来上がったのではない事を、人は知っていたにも拘わらず、近代科学の発達が人は自然をコントロール出来ると錯覚させたのかも知れません。ですから、人はまるで自然は人間の所有物であるかの様に錯覚し、人間中心の活動を続けて来ました。

しかし近年私共にも、モノ言えぬ自然界の呻き声が聞こえて来る様になり、深い反省を促されています。

 

所で1世紀のパレスチナにあっては、大農園所有者が、自分の財産の管理と運営を信頼できる人物に任せる事はよくありました。

主人は、普段は都の邸宅に居住し、同じ身分の人々との人脈作りの付き合いに忙しくしていたようです。管理人は主人の要望に応える為、主人から経済的な力をはじめ色々な特権を与えられていました。

確かにその力は管理人自身の力ではなく、主人がその希望を実現する為に管理人に託したものでしたが、段々と管理人自身が自分の力だと勘違いしてしまうのです。人は元来財力や権力には弱い者です。

当時この様な不祥事はよく起きていた様です。

今日でも、立派な地位の役人や十分な報酬を得ている国会議員が、易々と不正な事に誘われて行く事件は、次々と起きています。

イエス様はこの話の一体どこに注目されているのでしょうか?

4節、5節をお読みします。

 

「そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。

そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。」

 

4節の「そうだ、こうしよう」という彼のセリフはパレスチナ庶民の

いいアイディアが出た時に口にする決まり文句だそうです。そしてすぐさま行動を起こします。何故なら彼はもう直ぐ首になる事が分かっているからです。現在の管理人という立場を十分に活用して、直ぐに彼は主人に借りのある人を呼び付けたのです。

解雇された後では遅過ぎるです。彼は自分がこの管理人という職務から離れては、土を掘ったり、物乞いしたりするしか生きていけない無力な者である事を知っていました。しかし肉体労働も物乞いもしたくないのです。

ですから首になる直前のわずかに残されている時間と、管理人という立場を用いて、その力を使って借りのある者を呼び付け、その借りの利子分を負けているのです。

当時、油はその年によりオリーブの収穫高に変動があったり、品質が落ちたりするリスクのある作物だったので返す時は倍返しとされ、小麦は収穫に余り変動がないので、25%増で返せばよかった、という事です。

つまり管理人は、彼らの利子分を引いてやった事になります。

主人の財産には損をさせていないのです。

彼がそんな事が出来たのも、彼が未だかろうじて管理人という立場にあったからです。ちゃっかり管理人の立場を活用したのです。

正に、不正な方法で自分にとって有利な人間関係の友達を作ったのです。

しかしここで注意する点は、この事を首になる迄の短く、且つ、限られた時間内にやってのけた、という事です。

彼は管理人という職を離れたら、住む家さえ用意できない、全く無力な自分自身をよく知っていたのです。勿論彼は、彼自身の地位や財産は何一つありませんでした。

私共が、財力もない、特別の能力もない、立派な家柄でもないと、自分は何も持ってない事を認める事は、誰にとってもとても難しい事です。

不正な管理人は自分の無力さ、愚かさをごまかさず直視しているのです。

ですから主人が褒める程の対策を講じる事が出来たと言えましょう。

実に、主人は彼のここに感服したのです。

 

しかしここに記されている出来事は、飽く迄人間的世界の出来事です。

不正であろうが、この管理人は人生の一大事を自分の力で解決したのです。

主人に泣き付く事なく、神にすがる事なく、立派に解決したのです。

それはイエス様が注目される程の力業でした。

人は生き抜く為に、ここ迄出来るのだ! というイエス様の驚きです。

しかしそれは神様とは何の関わりもない強い力です。あくまでも人の力です。だからでしょうか、この話は少し寂しく、冷たく、ひえびえとした孤独が漂っています。

 

私はここでなぜかマルタとマリアの話を連想します。

姉のマルタを手伝わずにイエス様のひざ元に座って話に聞き入ってしまうマリアをマルタが咎める箇所です。

ルカ福音書10章38節~42節をお読みします。

 

「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。

彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。

マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 

イエス様は「マリアは良い方を選んだ」と誉めておられます。

妹としては、忙しく働く姉を手伝うのが当たり前。

それをしないでイエス様の話を全身で聞いているマリアを、イエス様は「良い方を選んだ」と積極的に認めておられるのです。

マルタは当時のパレスチナの地域社会で活躍し、皆から一目置かれていた、力のある女性でした。又彼女は父を亡くした後の、かなりの財産家の家を管理運営する立場にありました。彼女なりの責任感と自負心もあった事でしょう。その彼女に、イエス様は妹マリアの振る舞いを褒められたのです。

マルタも実はマリアの様にイエス様の話を集中して聞きたかったのです。

しかしイエス様を招いた女主人として恥ずかしくない接待を抜かりなくやりたいのです。

イエス様の導きの恵みを受けたいけれど、女主人としての面目も立てたいディレンマの中で、両方は出来ない自分を認めたくない。自分の限界、自分の無力さを認められなかったのです。その時、イエス様が「マリアは良い方を選んだ」と語られたのです。この時マルタは両方できない自分を直視させられました。

そして静かにマリアの隣に座り、イエス様の話に集中したでしょう。

後日マルタはイエス様によって信仰を恵まれた人物として聖書に登場します。そして人生の困難を自分の力で解決しようと、もがいている人に、マルタは深い悔い改めとイエス様への感謝を込めて、この体験を語った事でしょう。なくてはならないものは、イエス様の関わりです、と。

 

不正な管理人は主人から褒められる程の問題解決をしました。

しかしそれは完全な人の業の話で完結しています。

そこにはイエス様の父なる神様の気配も影もありません。

マルタとマリアの記事には、しっかりとイエス様が関わって下さっています。

改めて私共一人びとりの人生にイエス様が割り入って下さり、関わって下さっている一方的恵みを感謝せざるを得ません。

不正な管理人の話は、人の知恵と人の業の話です。人間の可能性と自慢話として語り継がれるでしょう。

一方、マルタとマリアの話は、イエス様によって生じる深い悔い改めと

感謝を語り継いでいます。

私共も日々の生活を通して人間の知恵ではなく、マルタに与えられた恵みを語り継いで行きたいものです。

 

お祈り致します。

主イエス・キリストの父なる神様、本日はこの貧しい者を土気あすみが丘教会に招いて下さり、聖日礼拝説教を許されましたことを心から感謝致します。私共はあなたの財産を管理するには、ふさわしくない者であるにも拘わらず、多くのものを任されております。それが御子イエス・キリストの十字架により与えられた恵みであることを覚え、深く感謝致します。

私共にこの任務の大切さとその限られた貴重な時を悟らせて下さい。

主イエス・キリストの体であるこの土気あすみが丘教会の働きの上に、益々主の豊かな導きと祝福がありますよう、お願いいたします。この祈りをイエス・キリストの聖名により御前にお献げ致します。アーメン