礼拝説教「イエスの眼差し」(2021年11月7日)

聖書マルコによる福音書10章7節~27節

今村 栄児(今村・えいじ)牧師

昨今、「学校のブラック校則」が話題になり、そのブラックさ…もさることながら、珍妙
さ等が取り沙汰され、議論されているようだ。参考になる意⾒や考え⽅にハッとさせられ
る。学校の現場にいる者として⽿が痛いことも多い。話を聞いていて、皆さんも「なぜそ
のような、おかしな/厳しい/煩瑣な/校則やルールがあるのか?」と思うだろう。
多くは学校内の秩序維持が⽬的である。⼦どもたちは不公平や不平等を嫌う。結果、多少
無理があろうとも横並びの状態を⽣み出すような、そんな動きが教員間にも、そして⽣徒
間にも働いていると感じる。もちろん公平で平等なことが⼤事なのは⾔うまでもない。し
かし学校という、ほぼ同じ年頃の者が集団⽣活を・同じ⽬的(学習)で⾏うという状況下
では、安全なことや些細なことまで、許されない差異と判断され(不公平・不平等だ!)、
基準内に合わせるよう促される。⼀⼈⼀⼈の出⾃や背景、社会状況は様々ではあるが、多
少無理があろうと、横並びの平等という「規則」の下にある⽅がよりよい、と⽣徒間で望
むところがある。ブラック校則と呼ばれるものの中に、⼀つの側⾯:ルールを望む・受け
⼊れる側の論理も動いているのである。
マルコ 10 章は全体として「エルサレムへの旅路の途中」にいくつかのエピソードが散り
ばめられている形である。旅の半ばで「⾦持ちの男」が、エリコ=旅の終わりで「盲⼈バ
ルティマイ」が描かれていて、「⾦持ち」は主イエスに従わず、去って⾏き、バルティマ
イは主イエスに従ってゆくのである。 物語の構造がわかりやすいので、ともすると私た
ちはこれらの物語から、「主イエスに従うならば、『⾦持ちの男』ではなく、『盲⼈バル
ティマイ』でなければダメだ。」と考えて、「呼び⽅が悪かった、『善い先⽣』だと主イ
エスは不機嫌そうだが、『ダビデの⼦よ』だと呼び寄せてくれる。」などと、主イエスに
取り⼊る⽅法をここから考えるかもしれない。なるほど、ここから「弟⼦としての覚悟と
振る舞い⽅」を学ぶことも可能だろう。また今⽇の聖書箇所から、キリスト者における「富
の危険性」を⾃覚して、⾃戒とすることもよい。何なら、この前の節:13~16 節を参考に
して「キリスト者は『⼦どものように神の国を受け⼊れる⼈』でなければならない。」と、
⾃分⾃⾝を振り返るとともに、教会員同⼠で⼤いに議論して「⼦どものようなキリスト者」
を追求し、……教会修養会の議題にでもしてはどうだろうか。
ここまで、強調して指摘したので、マルコ 10 章において陥りがちな「イエスの弟⼦像:よ
い弟⼦とは?」探し の危険性に気が付かれたと思う。確かに 10 章は「イエスと弟⼦た
ち」のエピソードである。その中で『祝福される者、受け⼊れられる者』と『怒られ、間
違いを指摘され、厳しさにイエスから離れる者』が明確に⽰され、明暗をくっきりと⽰さ
れる。だから、私たちは『祝福される者、受け⼊れられる者』になろうとして、ますます
弟⼦たちをはじめとする⼈々の振る舞いばかりに注⽬し、その⾔動・⾏動から⾃分たちの
知恵を動員して「よりよいキリスト者の在り⽅」をここから導き出そうとするのではない
か?「キリスト者はかくあるべし」と。
危険とは何か。私たちがここで主イエスではなく、弟⼦たちを=⼈々を⾒ている、そして
判断している。ここに危険がある。しかもイエスの⾏動・⾔動によって右往左往している
⼈々を⾒ているゆえ、その⼈の⾏動・⾔動に主イエスのご意志が反映していると思い込ん
でいる。その⼈の⾏動・⾔動はその⼈から出たものであるのに。それゆえ、この危険から
逃れるために、私たちは⽬を上げよう。⽬を上げて⼈ではなく、主イエスを⾒よう。
主イエスはどこを⾒ているだろう。21 節:⼗戒後半⼈間関係の戒めを若い頃から守ってき
た(尊重してきた)と叫ぶ求道者を、主イエスは愛しみつつ、⾒ている。また、27 節:25
節のイエスの例え「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」を聞い
て、狼狽し、誰が救われるかと互いに議論する弟⼦たちを、主イエスは⾒ている。
イエスの眼差しの先にいる彼らは、弟⼦であるか、真剣に弟⼦になろうと求めている⼈々
である。しかし「⾦持ちの男」が悲しみながらイエスの下から去っていったように、この
後エルサレムで、「全てを捨ててイエスに従った」と⾃負するペトロを始め全ての弟⼦た
ちはイエスから去り、ペトロは三度イエスを否定することも伝えられている。 イエスが
⾒つめる視線の先に映る者は、「彼から去ってゆく弟⼦たち」である。イエスは彼らの背
中を⾒つめておられる。もしあえて、⼈々に⽬線を落とすならば、マルコ福⾳書において
描かれている「⼈々」の中に「キリスト者の模範」や「キリスト者はかくあるべし」と選
ばれる者を探しても無駄だろう。弟⼦をはじめ、イエスの⼗字架のそばに『イエスの弟⼦
らしく』いた者は⼀⼈もいないのだから。イエスの⼗字架のそばには、ペトロもいなけれ
ば、バルティマイもいない。婦⼈たちが「遠くから⾒守っていた 15:40」とあるのも、婦⼈
たちの敬虔の表現ではなく、婦⼈たちの無⼒さと⼗字架の死の孤独さ である。主イエス
から去ってゆく「⾦持ちの男」の背中は、…ペトロを始めとする「弟⼦たち」の背中は、
⾔うなれば、私たちの背中である。私たちが聖書の「⼈々」において⾒ているものは、私
たちの背中…イエスから去ってゆく私たちの姿…を⾒ているのである。
それゆえ、26,27 節のイエスと弟⼦たちの会話は重要である。弟⼦たちの「誰が救われる
のだろうか」との議論に対して、イエスは「27 節」 イエスははっきりと⼈間からは不可
能だと断⾔すると共に、神においては不可能ではない、神には全てが可能だから と神の
可能性への集中を⽰す。
私たちの救いは、神にかかっている。そして「去ってゆく者を⾒つめる」主イエスにかか
っている。「⾒つめる」主イエス。この⾔葉で最も印象深いのは、ルカ 22:61 であろう。
主イエスの逮捕後、深夜ペトロは三度イエスを知らないと⾔う。ルカでは鶏の鳴き声と共
に「主は振り向いてペトロを⾒つめられた。」……ペトロを貫き通し、⼀⽣涯忘れられな
い主イエスの視線 これによって「激しく泣いた」とある通り、罪⼈としての本来の⾃分
を⾒せつけられる厳しいものであるが、主イエスは⾒つめているその⼈を⾒捨てない。そ
の通り!ペトロを、主イエスはお⾒捨てにならなかった。私たちはこの 1 点にかけよう。
主イエスは私たちを⾒つめておられる。⾃分⾃⾝を振り返るならば、主イエスの眼差しは
厳しい。⾃分の罪を明らかにするような、全てを貫く眼差しである。しかし⾒つめる主イ
エスは私たちをお⾒捨てにならない。この主イエスの眼差しにおいて『⼈間にできること
ではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。』というこの御⾔葉が「然り」と
なる。