※ 本説教は西千葉教会機関紙「橄欖の枝」にも掲載されました。
西千葉牧師 真壁 巌
「なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。」
(ヘブライ4:10~11a)
信仰の先達の多くは長生きをし、天寿を全うされた方々です。しかし中には愛する人が思いがけなく早く、まだ若くして亡くなるという大きな悲しみを経験された方もあるでしょう。「未完」とも言える人生には無念の思いを抱きます。
Ⅿ・L・キング牧師が公民権運動の途上で暗殺されたのは三九歳の時でした。まさに「未完の生涯」でした。しかし仮にその死が早過ぎたとしても、彼の生涯が無意味だったわけではありません。その影響力は今に至っています。反ヒトラー抵抗運動に身を捧げたドイツの神学者ボンヘッファーも、ゲシュタポによって絞首刑に処せられた時、同じ三九歳でした。彼が獄中から友人に宛てて書いた手紙の中で、「人生は多くの場合、完璧なものではあり得ず、しばしば断片的で、まるでトルソのようだ」と書いています。「トルソ」とは、頭部や手足のない胴体だけの彫刻のことで、古代ギリシャの彫刻を集めた美術館に置かれています。きっと彼はすでに自分の人生が断片のままで終わることを覚悟していたのかもしれません。同じくナチスによって殺されたドイツの詩人で讃美歌四七二番の作者であるクレッパーも39歳、フランスの哲学者パスカルも39歳の若さで召されました。
そして主イエスも33歳の頃、十字架上で殺されたわけですから、この世的には主イエスの生涯も未完であったと言えます。しかし、このお方の短い生涯が世界史の中で持ち運んだ巨大な影響力を考えれば、未完であることはただ悲しむべきことではないはずです。
創世記の天地創造物語では、神が創造の業を完成された後、「お造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1:31)と記し、「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」(2:1~2)と続けるのです。
この「安息」は単なる「骨休め」ではありません。神が一息入れるためどこかに隠れたということでもないのです。日本では、旧暦の10月に八百万の神々が出雲に集まると言われています。だから出雲はこの時期が神在月で、他の地方では神々が留守になりますから、10月を神無月と呼ぶわけです。
しかし、聖書に「神の不在」という考えはありません。神はモーセに対して自己紹介され、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記3:14)と言われました。つまり、どんな時にも「必ずあなたと共にいる」と約束してくださるのが聖書の神です。ですから「神の安息」も、決して「神の不在」にはならないのです。
「必ずあなたと共にいる」と約束してくださる神が、ご自分の意志に従って天地万物を造り、その仕事が完成した時、その出来栄えに満足し、喜んでそれを祝うために「仕事を離れ、安息なさった」のです。だとすれば「神の安息」は「完成の喜び」にほかなりません。「神は御業を終えて休まれた」(冒頭聖句)とはそういう意味です。この世界も私たちの人生も、神の大いなる肯定から始まったのです。
誰一人として無意味に、あるいは偶然に生きている人はいません。確かに天寿を全うして天に召される人もいれば、若くして未完の生涯を閉じる人もいます。しかし、どんな人も神の大いなる肯定の中で生かされているのなら、どんな死にも必ず意味があります。その意味を私たちは未だよく理解できないかもしれませんが、間違いなく意味が与えられているのです。
夏にお迎えしたS・リーパー氏の宣教師であったお父様が洞爺丸台風で溺死したのは(1954年9月26日)33歳の時でした。その時、お母様は「神に質問がある。あなたのために働いた夫がどうしてこんな死に方を…」と口にされたそうです。悲痛な叫びです。
それでも「神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休む」完全な安息の時が誰の人生にも備えられていることを信じます。