聖書:イザヤ書51章4~11節 マルコによる福音書13章24~37節
三好 明(みよし・あき)牧師
今日は待降節第一主日です。イザヤ書第51章4~11節が読まれました。<わが義はすみやかに近づきわが救いは出て行った>と宣言します。終末主日でもあります。おもに与えられている聖書箇所はマルコ13章、主イエスが弟子たちに語られた再臨について終末についてのことば、人の子が雲に乗って来るというのです。一つの主題で相互につながるまとまりがあり、初代教会では特に親しまれたと思われます。弟子たちは4人が主と共にオリーブ山で神殿に向かっており、いつもの3人にアンデレが加わっています。最初の4人でもあり後の教会をさしているとも。先立つ1~2節で神殿のすばらしさを称賛した弟子に主はその崩壊を予言します。<そのこと>についてそのときにはどんな徴があるか問います。その答えは歴史上ずっと今日に至るまで起こっている事象です。主はまだそれは世の終わりではないと言い、戦争地震飢饉は起こるべくして起り産みの苦しみの始まりとします。弟子たちには別の苦難が待っており、主の十字架の苦難と関連する弟子としての任務がはじまることに<気をつけていなさい>と励ましています。わたしのために王の前に立たされ・・・引き渡されると前もって予告するこの箇所はマルコ福音書には記されていない宣教命令ともいえるものです。唐突に終わるマルコ(16:8)にとってこの13章はとても大切です。(他福音書の末尾をかね含んで)
主の不在は復活を前提としています。再臨は主の不在の間の教会の宣教の支えです。初代教会は再臨は近いと感じていたようですが、マルコ13章では<自分のことに気をつけるように>といい、証しする時<話すのは聖霊である>との約束があり、不在の主のかわりに共にいる聖霊が他福音書とは別のかたちで保証されているのです。最後まで耐え忍ぶ者は救われるという言葉は、いわゆる十字架の贖いの救いにあずかるというよりも主の弟子として主と共に福音を宣べ伝える覚悟をよびさます言葉です。最後とはいつでしょう。大患難や偽メシアについて注意した後に<人の子の来臨>の予言です。この人の子が御自身であるとは言われず<雲に乗って>と、弟子たちに神殿よりも天を、上を見上げるように示唆され、ここもルカ福音書や使途言行録の昇天の報告とつながっています。
13章のおわりまで読んで心に再臨について大切なことを味わい刻んでおきましょう。夏のいちじくは確実な成長のたとえであり戸口がどこであるかは次の不在の主人が帰ってくる時とつながっています。誰も知らない神だけがご存じのその時について繰り返し目をさましていなさいと告げます。天地異変を心配する者には人の子がくるまでこの時代は滅びない、たとえ天地が滅びても私の言葉は滅びないと宣言します。
テサロニケⅠ・5:1~11は本日のペリコーペ(編集者注:礼拝で読み上げられる聖書の一節)の一つですが、再臨が実現しないことに落胆する教会を描いています。パウロの伝道のあと第二世代となると更に再臨の遅延が問題となり異なった受け止めや困った態度がみられるようになりました。今日の私たちはどうでしょうか。再臨は未だ来ず、一方世の終末は人間の累積する罪の結果で近づいている様な今日、どのような信仰が再臨を待つにふさわしいでしょうか。マルコに届めて主の聖霊と共に主の証人、主の弟子、又一信仰者の困難を耐えしのび命のおわりに至るならそれぞれの人生の終幕には、中空に引き上げられて主と出あう恵みにあずかれるものと、望み信じます。主のおことばどうり雲に乗って私のほうに来られるキリストに会い地上の幕屋をぬいでむかえ入れられるでしょう。(雲は旧約以来、神の臨在のしるし)
そもそも<再臨>という言葉はそれだけでは存在しない言葉で<パルーシア>そこにいること、臨在、現臨、到来という一つの言葉です。ですから復活の主を信じ聖霊の力を信じる人々は主(の日)はすでに来たのだと考えました。パウロはこれらの言説をいましめてもいますが、一方再臨を熱心に待つあまり何も手につかない人々をより叱責しています。これは今日にも必要な忠告です。(内村鑑三は日露戦争中に非戦論に転じ第一次世界大戦となると再臨信仰を重んじて全国に再臨運動を一時展開したが、終末(再臨)を望むがゆえに醒めた態度で生活を合理化することを勧めた)
教派によっては再臨を特別に重んじる所もありますが、主イエスご自身の言葉に耳を傾けてその力強さ、確信、おそれよりも喜び、残していく弟子たちを支え、鼓舞する神の国の到来図として心の手をのばして受け止め生活しましょう。
雲に乗るキリストと飼い葉桶のイエス 雲とちがう地上の一つの白いかたまり布にくるまれた幼子イエスの命こそが今年も世に与えられる神の臨在、到来なのです。<わが救いは出ていった>マラナタ、アーメン