礼拝説教(要旨)「闇の中を歩くときも」(2021年12月5日)

イザヤ書50章4節~11節

真壁巌牧師

 

アドヴェントに入ると毎年思い出す人物がいます。ヨッヘン・クレッパー(1903―1942)というドイツ人の詩人です。彼は1931年にかなり年上のユダヤ人女性と運命的な出会いをし、二人の娘の母親でもあった彼女と結婚します。ところが、その直後にドイツはヒトラーの支配下に入ります。ヒトラーはユダヤ人を人種として絶滅させようという途方もない考えを、やがて実行に移すのです。

この絶滅計画に従って、クレッパーの妻と子どもたちはアウシュビッツの殺人工場に送られることになりました。もちろんクレッパーは必死に抵抗し、この悪夢から逃れられるよう努力したのですが、うまく行きません。遂に愛する家族を殺人工場に送らなければならなくなった時、彼は家族と一緒に自宅でガス自殺を遂げたのです。1942年12月10日のことでした。

自殺がよくないことは、心からキリストを信じていた彼には当然分かっていました。それなのに妻子と一緒に死ぬことを選んだのはなぜなのでしょう? 実は、彼が生命を絶った自宅には日記があり、その最終ページには次の言葉が残されていました。

「私たちは今死ぬ。ああ、そのこともまた神の御手の中にある。私たちは今夜、一緒に死んでいく。私たちの枕元にはこの最後の時にも、祝福を与えるキリストの画がかかっている。主は私たちのために闘ってくださる。この方の眼差しの中で、私たちの生涯は終わるのだ。」

実にこの極限状態の中でも、クレッパーはしっかりキリストを見つめていました。彼はイエス・キリストがどん底の人間を愛して、いつもそばに立っていてくださる方であることを片時も疑ってはいませんでした。もしかすると彼は、地獄のような場所へ送られて行く妻子とその他のユダヤ人たちにも、キリストはいつどんな時もそばにいてくださることを証しするため、一緒に死ぬことを選んだのかもしれません。

 

同じことは、第二イザヤという預言者についても言えます。この預言者はその生涯をかけてバビロン捕囚という、イスラエルの国始まって以来の最大の危機から人々を救うために活動した人ですが、その生涯の後半は実に苦難に満ちたものでした。はっきりした理由は書かれていませんが(一説ではバビロン当局に捕らえられて殺された)、この預言者がイスラエルの人々を救うために労苦したことは確実です。そのことは、自分自身のことを記していると思われる「主の僕の忍耐」(4―11節)にはっきり出てきます。

「わたしは逆らわず、退かなかった。

打とうとする者には背中をまかせ

ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。

顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」(5節後半―6節)。

この記述はキリストの受難を彷彿させますが、この預言者の苦しみはそれほど深かったのです。多くの人が救われるためには、苦しみを引き受ける者が必要とされる、それは歴史の現実であり、第二イザヤという預言者は、その歴史の転換期にあえて、それを引き受け、苦しみを担った人でした。

では、このような苦難を担う力はどこから出てきたのでしょうか。何を支えとして、あえて「背中を打つ」にまかせ得たのでしょうか。その根拠は2回繰り返される次の個所に示されています。

「主なる神が助けてくださるから」(7節)

「見よ、主なる神が助けてくださるから」(9節)

 

この信仰が彼の唯一の支えでした。まさにこの預言者は神に対するまことの情熱を持っていたと言えます。情熱を英語で「パッション」と言いますが、同時にそれは「受難」を意味します。苦しいことや難しいことを受け止めること、それが「パッション」ですが、そのためには「情熱」が必要なのです。

 

そしてこの神への信頼が最も印象的に表現されているのが、10節の言葉です。

「お前たちのうちにいるであろうか。

主を畏れ、主の僕の声に聴き従う者が。

闇の中を歩くときも、光のないときも

主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。」

 

この言葉は魂を揺り動かします。光がすでに見えているならば信じやすいでしょう。問題の解決の糸口が確かにあるならば、神に感謝もできるでしょう。けれども、いまだ闇の中を歩いていて、光が見えないのに、自分は神を信頼できるだろうか?そのように私たちは問いかけられているのです。

 

クレッパー一家が亡くなったのはアドヴェント第二週でした。間違いなくキリストは、どん底にいる者たちのそばに立つためにこの世に生まれ、人々を愛し、そのためならば十字架の苦しみさえも引き受けるために生まれたのです。クレッパーはその主を心から信じ、「闇の中を歩くときも、光のないときも主の御名に信頼し、その神を支えとする者」だったのです。