ゼファニヤ書3章14~18節 ルカによる福音書1章5~25節
山元 克之(やまもと・かつゆき)牧師
今日与えられました新約聖書の御言葉では、祭司であったザカリアとその妻エリザベトの身に起こった不思議な出来事が記されていました。二人の間には子供がおらず、高齢でもあった。そのような中、ザカリアが祭司の務めをしていた時、天使ガブリエルが来て、エリザベトが子供を産むという預言を聞いたのです。
このときの心境を妻であるエリザベトは25節でこのように語ります。「主は今こそ、こうして、私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました」。
今の時代はもちろん違いますが、聖書が書かれた時代背景には、夫婦の間に子供が与えられないことは、男性ではなく女性に問題があると考えられ、またその問題とは、女性の罪ゆえの、神からの罰だと考えられました。周囲の目にさらされた妻のエリザベトは辛い思いをしていただろうと思われます。
そのエリザベトが「私の恥を取り去ってくださいました」といった。素直に読むならば、子供が与えられたことによって、恥はなくなったと読めるところです。しかし、エリザベトはこの後「五ヶ月の間身を隠し」たのです。高齢出産故の恥ずかしさがあったのだと思われます。それでもエリサベトは「主は私の恥を取り去ってくださいました」と言った。これは強がりなのだろうか。いや、強がりなんかではなく、確かな信仰の告白だと思います。
ゼファニア書の3章18節に「私は祭りを祝えず、苦しめられていたものを集める。彼らはお前から遠くはなれ、お前の重い恥となっていた」。とありますが、イスラエルの民にとってバビロン捕囚とは「恥」でした。しかし、15節にあるように敵が追い払われ、神が共にいてくださることによって、恥である捕囚から解放してくださると聖書は言うのです。
これこそが、イスラエルの民の「恥」を取り去り、エリザベトの「恥」を取り去った理由であると言えます。神が共にいてくださる、これから先ずっと共にいてくださる、ということを知ったということです。その時に「恥」が取り去られたのです。
今日の御言葉は不妊の女エリザベトに子供が与えられてめでたし、めでたし、という話ではないのです。子供が与えられて周りの人と違いがなくなって良かったと読むべきではないのです。今なお、彼女には周りの人と違いがたくさんある。高齢での出産というのもその1つです。周りの人たちと違いがなくなったというよりは、違いがあることに喜びを知ったのです。違いがあることに、神が共にいてくださることを見出したのです。それ故に、恥が取り去られたのです。
イエス・キリストという方は「インマヌエル=神共にいます」と呼ばれた方です。この世の恥を生きるときでも、それは欠点ではなく、むしろ神がともにいる証しなのです。この世で恥をかくその場所に、主イエスは共におられる。人々の間に恥があるところに、神はともにおられる。3本のろうそくに火がともったアドヴェント第3週。私たちの恥を拭うために御子が来られます。