マタイによる福音書1章18-25節
空閑厚憲(くが・あつのり)牧師
御言葉の御用の前にご一緒にお祈り下さい。
イエス・キリストの父なる神様、2021年のクリスマス礼拝を感謝してお献げします。この場にイエス様の十字架によって働いて下さっている聖霊を豊かにお恵み下さい。そして聞く者・語る者が幼子の素直さで御旨をお受けするひとときとして下さい。イエス・キリストの御名によりお祈り致します。 アーメン
先行きは、はっきりしませんが、コロナも少し勢いが落ちた中で迎えるクリスマスは例年よりも感慨深いものがありますのは、私だけでしょうか? キラキラ輝くイルミネーションがなくても、季節外れの高価な果物で飾られたケーキがなくても、体調が完璧でなくても、一人ぽっちであっても、クリスマスを迎えられる丈で有難く感じられる方もおられるでしょう。
特に本日与えられましたマタイによる福音書の記事は、私共にクリスマスの恵みを力強く届けています。18節の「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」で始まるカ所は、「切り口上」気味でさえあります。
この書き方は当時の書式の一つに則っているものだそうです。
「イエス様の誕生について大切な事は、私たちが知る限り はっきりときっちりとごまかさずにお伝えします。」というマタイの教会の強い覚悟さえ伝わって来ます。
所で私共の一生にも、時代の移り変わりにも、思いがけない事が起こります。新しい家族を作ろうとしていたヨセフさんとマリアさんにとって、イエス様の誕生は正に思いがけない出来事でした。
その辺の事情をマタイは簡潔に、感情的にならず記しています。子どもの頃からユダヤ教の信仰をまっすぐに育てられたヨセフにとって、結婚前に子どもを宿したマリアは妻として到底受け入れ難い女性となった事でしょう。しかしマリアとの結婚を破談とするなら、マリアは生涯身持ちの悪い女性として後ろ指を指される事になるでしょう。当時の女性の結婚は12歳から15歳くらいだと推測されています。
また当時のパレスチナでは婚約がととのった時点で社会的には結婚した者と同じ様に扱われました。未だ少女の面影も消えないマリアの離婚後を想像する度に、ヨセフの心は耐え難い痛みを覚えたことでしょう。そしてヨセフは遂に心を決めたのです。この事がまわりの人々に知られない様に十分気を付けて内々に離縁しようと。マリアの恥や悲しみを最小限にとどめたいと願ったのです。
19,20節をお読みします。
「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」
古代パレスチナで「天使が夢に現れるとか「聖霊によって宿る」という表現の意味する所を正確に知るのは私共には難しい事です。
しかし何かは伝わります。それはマリアやヨセフの経験から学んだ知恵や力ではなく、思いがけない力がこの若い夫婦を力付け、支え助けたという事実です。
所で、今年を振り返りますと、天災人災と災害の多い年でした。テレビのニュース画面に声も出なくなる事も度々でした。そんな時、思わず災難に遭われた方々を支えて下さいと、イエス・キリストの聖名により祈らされます。若い時は、災害のニュースも、どこか他人事でした。しかし年を重ねるに連れて、ほかの人を覚えて祈る祈りが自分の事とされるようになって来ました。救急車のサイレンにも祈らされる様になりました。人は年を重ねてもイエス・キリストによって少しずつ変わらされる者なのだなぁと、驚きつつ感謝させられます。
ヨセフも幾晩となく眠れない夜を通し、祈った事でしょう。そうして天使の命じた通りにしたのです。しかし決して豊かではないけれども、ユダヤ民族の中では由緒正しい家系に生まれ、信仰深く育てられたヨセフにとってマリアとの結婚は決して喜ばしいものではないはずです。
イエス様は成人した後も「マリアの息子」と呼ばれていた事が記されています(マルコ6章3節)。 即ち、ナザレ村の「ヨセフの息子」ではなく、「マリアの息子イエス」という言い方は一種の軽蔑のニュアンスを含んで、一生イエス様について回ったのです。しかしそのイエス様を知らされて生きる希望を与えられた一人が、マタイでした。その後初代教会の一つをまとめ、その信仰告白をする様にして、このマタイによる福音書を記したのです。イエ、記したかったのです。
所で 当時占領国ローマ帝国の為に同胞ユダヤ人から税金を取る仕事がありました。徴税人です。彼らの仕事は、ユダヤ社会の中で肩身が狭く、少々後ろめたい仕事でした。自分達はユダヤの律法も守られない神信仰から最も遠い者だと自己否定の毎日を過ごすしかなかった彼らが、ナザレの人イエス様を知らされたのです。そしてイエス様は、神様と彼らの間の溝を埋めて下さったのです。この時イエス様は、正にインマヌエル、神は我々と共におられる、として働いて下さり、彼らと同じ地平に立ち、共にいて下さる方となられたのです。そして彼らの生涯を通して、イエス様によるインマヌエルの実感を貫いて下さったのです。そしてその信仰の帰結として、マタイがその仲間とまとめ上げたマタイによる福音書の始めは系図から始まります。
現代でも立派な家柄の人が系図を大切にし、誇りとして末裔の人々の生き方を導いている事実があります。競走馬や犬や猫の場合も、血統書は特に大事な様です。しかしマタイの1章が系図で始まるのは、これから記す事は、イエス様の家系を誇る為ではなく、人間の歴史の事実として起こった事だと伝えているのです。古代の文化を彩っている夢物語、おとぎ話、伝説の類ではなく、人間の歴史の時間軸の中で起きたのです、と記しているのです。イエス様誕生の次第は、人間の只中に、神の御業が始まった事を告げているマタイの教会の信仰告白です。勿論その文章表現は当時のパレスチナの文化の影響を受けています。
幸いな事に、近代以降の聖書研究の急速な進歩が考古学はじめ多くの学際的知見と連携し、次々に本来の意味を明らかにしてくれています。そんな中で、私共はこのマタイのクリスマスの記事から何を読み取れるでしょうか。それは、「聖なる力」です。
ヨセフは真面目な好青年であったからこそ、マリアを離縁しようと思ったのです。彼は小さな村で限られた人々の間で一生過ごす事になるであろう自分の将来について、不満どころか感謝しつつ平安に過ごしていたのです。そんな中でマリア懐妊の告知はヨセフの誇りを傷付け、彼の倫理観を汚す出来事でした。ヨセフは全力をもってこの事態と対抗しようとしたのです。
しかしその時「天使」と表現されている存在が、ヨセフの力業の力を抜きとる様にして、彼の苦悩と闘争心を奪ったのです。そして天使の言われるままにマリアを迎えたのです。
「聖なる力」は、力対力で争い、相手に勝利した結果の力ではありません。私共から闘争心を奪う力です。勝ち負けを不可能とする力です。
「争い」や「戦い」や「勝ち負け」を成立させない力です。すべてをそのまま問答無用で受け入れる力です。ヨセフはイエス様を育てるマリアを支え、口さがない近所の人たちの噂話から護り、イエス様を木工職人として育て上げ、その短い生涯を終えました。地味な人です。まるでイエス様とマリアさんの為の人生で終わったような人物です。ですからこそ、マリアを迎える決心をした彼に、どんなに強い力が働いたのか窺い知れます。
先程漸く私も救急車のサイレンを耳にすると反射的に祈る様になったと申しましたが、それは次男の大病の経験の後でした。回復期に何度か救急車のお世話になりましたが、その都度家族中で次男の名を呼び、「イエス様御心ならば助けて下さい」と祈りました。
それ以来、救急車のサイレンを聞くと、その時と同じ様な光景が目に浮かび「御心でしたら助けて下さい。イエス・キリストの御名によって願います。アーメン」と祈る様になりました。救急車に横たわる人は、私にとって全く知らない人です。しかし私は経験によって祈り始められる様になったのです。次男の大病という経験がなければ私の祈りは、いつ迄も口先だけだったかも知れません。時には人生に起こる予期しない出来事は私共を成長させ、想像力を豊かにし、人間としての幅を広げてくれます。
しかしヨセフのマリアとの結婚で生じるであろう苦しみと不安は、まだ若いヨセフの想像をはるかに超えるものでしたでしょう。それは彼が経験した事のないものだからです。未経験な事柄に対する不安は、計り知れないものです。しかし「天使」と表現される存在の働きにより「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」から始まる不名誉極まる出来事への不安は、不思議に取り去られたのです。それはヨセフが一心に自問自答した結果得られた努力の賜物のような心理的変化ではないのです。そうです。それは「聖霊」と表現されている働きです。その働きは、私共の訓練や修行によって獲得する働きではなく、一方的に与えられる恵みです。ですから堅くないのです。コチコチではなく軽く明るい働きです。
マタイの属していた教会にも、先程触れました徴税人だけではなく、ローマ帝国からもユダヤ人側からも見下されている様な色々な職業の人がいました。また正式な結婚が出来なかった女性やその子ども達もいたかも知れません。彼らは人から褒められるような生活が出来ないので、自分達は神信仰から最も遠い所でしか生きてはいけないと思い込んでいました。
所で現代でも教会は、過分にも、真面目で清らかな人が集まる所と思われているふしがあります。しかし本当の所は教会生活を通してイエス様の御言葉と御業に触れて行くうちに結果的に真面目で清らかにして頂く事もありますが、多くはその希望に生きている途上です。
そしてもう一つ、聖霊の働きは時として、ユーモアを生じさせ、平和を創り出すのです。ユーモアは物事を多角的に理解する力です。物事に一面的にしかアプローチ出来ない時、ユーモアは誕生しません。平和は遠のきます。キリスト者の群である教会も、時としてユーモアを忘れ、硬くなり、一元的になり、争いに誘われる弱さを持っています。しかしこの事を知らされているなら、「イエス様、ユーモアを恵んで下さい」と祈り願う事が出来ます。これは、嬉しい事です。
マタイの教会のイエス様誕生の記事は、90年近く人から人へと語り伝えられている内に、事実とかけ離れた表現や強調され過ぎの表現をまとわりつけたまま、今、2000年後の私共の前にあります。
マタイの教会は私共に告げています。
「ナザレ村のイエス様の出生は、こういう事です。決して完全無欠の出自の方ではありません。しかし彼は御自分の主義主張は脇によけられて、十字架上の死をお受けになられた。私達はそのイエス様によって新しい人生を生かされる者となったのです。現実の生活は何も変わらなく、相変わらず人から見下される様な仕事しか出来ない者や、病気がちの者や献金も満足に出来ない者やひとり親の子どもや、律法を守られない者だけど、その中でイエス様に従う喜びが与えられています。この良いニュースをあなた方がお受け下さることをイエス・キリストの聖名によって祈りつつ、『マタイによる福音書』を編集しました。」と。
福音書の中では、特筆される存在ではなかったけれど、聖霊によって不安と恐れを奪われ、平安の内に与えられた役目を果たしたヨセフのヒョウヒョウとした風貌が懐かしく想像させられる今年のクリスマスです。男性中心の古代の家父長制の強い父権社会で、はっきりとマリアとイエスを護る側に立ち、生きたヨセフは、今、私共が目指している社会的に弱い立場の女性と子どもを支える先駆的生き方に対して強いメッセージを発しています。
所でコロナが落ち着いたと楽しくなって、あっちこっち遊びまわると経済は良くなるかも知れませんが、コロナも広がるかも知れません。経済が良くなれば、消費は盛んになり、二酸化炭素の排出量は多くなるかも知れません。「堂々巡り」の、命と経済の二兎を追う人類の姿は少々おかしく見えます。もしかしたら、これも聖霊の働きによるユーモアかも知れないと感じる昨今です。
ヨセフは、自分の宗教論や人生観など声高に主張する事なく、最も身近な幼子イエスと妻マリアの家族を守り育て聖書の世界から静かに消えました。しかしクリスマスはヨセフが素直にお受けした一方的恵みによる聖霊の力によって可能となったのです。
クリスマス、本当に有難い事です。
お祈り致します。
イエス・キリストがその御業と御言葉で証しして下さっている神様、クリスマスを有難うございます。世界的にも個人的にも不安な事が次々と起こっています。しかし2000年前お生まれ下さったイエス様によって、あなたからの平安と祝福を頂き深く感謝致します。遠くの国の人々の飢えや病を我が事として祈る豊かな想像力を何卒私共にお恵み下さい。今、傷ややけどの痛みに耐えている人、目の届かない所で虐げられている人、一人だけで寂しく感じている人、色々な人々に、そして何よりも私共の自己中心的な思いに、クリスマスの光が差し込みます事を願います。2021年の数々の悔い改めと、にも拘わらず恵まれるクリスマスの祝福に感謝し、イエス・キリストの御名によりこの祈りを御前にお献げ致します。アーメン