聖書 イザヤ書8章23~9章6節
ルカによる福音書1章39~56節
三吉 明(みよし・あき)牧師
◎マリアの賛歌
マリアの初めの戸惑いの後にエリザベト訪問時の確証を与えられて、特にルカ51~53節はイザヤ書51章1節につながる。主のみ腕の力への信頼、力とは人間の世界では人格から離れて武力や暴力となる。神の力は神の聖なる偉大さ、愛と正義である。
◎マリアの賛歌はどのように生まれたか。
マリアの独創性、即興である(信仰の発露)。これは彼女が受けた教育のたまものか?
あるいはルカの創作、もちろん旧約の背景、ハンナの祈り=サムエル記上2章7~8節との共通性がある。
◎マリアはたくましい少女だった。そして...肝っ玉母さんになってイエスを育てた。
◎ルカ1章51~53節 賛歌の力強さのもっともよい例
飢えた人を良い物で満たし富めるものを空腹のまま追い返す(打ち散らし、引き降ろし)
◎マリアの賛歌をわたしたちも歌って生きる
(マニフィカート クリスマスの特別な讃美)ほかにもマリアの子守り歌なども多数。
マリアの賛歌を祈りつつ生きたのはマリアその人
◎マリアはこの歌の信仰でイエスを育てた。
神の子イエス・キリストを又人間イエスを育てた、この歌をイエスに教えつつ、どうして?と世の矛盾を問うイエスに答えた。
⇒マリアの賛歌を生きたのはキリスト
キリストは主なる神の力強いみ腕そのものであった。(ルカ4章16節~)
◎イエス・キリストのナザレでの宣教開始の第一言
イザヤ書61章、42章の巻物のみ言葉が実現したと語った。飢えたものを満たし低きを高めおごるものを引き降ろすと一致している、響きあっている。
◎わたしたちもこのクリスマスから母マリアの信仰を生き、地上を人として生きて下さった神の子キリストの業をあかしし、担うものとなりたい。
◎マリアの賛歌はキリスト預言でもあった。マリアは預言者のように力強くうたった。しかし、なぜマリアが預言者として扱われなかったのか?まだ要研究。
◎現代のマリアたち
悲しみの母たちを思う。主イエスが死んだときマリアは深く傷ついたが、その成り行き・結果(イエスの生き方)には深い納得があったのではないか。しかし現代のマリアたちは子たちの受難を決して決してマリアのようには受け入れない。キリストの死とあがないは一度切りですでになしとげられ、完成し、もはや人々はキリストのように殺されてはならない(ドイツ国立追悼施設:ノイエ・ヴァツヘのピエタ像はひとつの慰め)。それでも闇と罪の結果の歴史は続く...。
◎マリアは決してヨセフの庇護のもとでクリスマス・イブを過ごしたのではない。与えられた光の子を守るという信仰を持ち続けた。
◎現代のマリアたちの子守り歌をうたいつつマリアの賛歌(預言)を生きよう。今日も神の力強いみ腕は、聖霊によって、生けるキリストによってふるわれていると信じる。アーメン
讃美歌21-439 暗い夜 子を産んで 苦しみに耐えた女(ひと)
地に平和 もたらす子 光の主を 守りなさい
讃美歌21-272 こわがらないで ヘロデのことを。 この子守唄をきいておやすみ