聖書 ガラテヤの信徒への手紙 5章1~6節
辻 哲子(つじ・てつこ)牧師
新しい年を迎えました。今日は教会の暦によりますと、1月6日は公現日または栄光祭といわれます。神の子イエス・キリストの誕生が人々に公にされた日です。東の国から来た博士が占星術をもって調べているうちに、はるばるユダヤのベツレヘムに神の子、主となるべき方が生まれたことを知り訪ねました。この日に神の子の誕生が公に人々に示されたのです。今日は公現節第一主日となります。
さて新しい年を迎えましたが、相変わらずコロナ禍、オプシロンウィルスを警戒する日々となりました。また世界状況は米中関係の対立はいつ何が起こるか分からない緊張関係の中にあります。経済的にも貧富の格差がますます大きく広がり世界の上位1%の富裕層が世界の資産の4割を占めているという不均等が起こっております。 貧困や核の問題をはじめ解決できない問題が山積みになっております。
◎それは人間の罪の結果によると聖書は教えます。
その罪を持つ人間がこの世界でいかに生きるべきかを聖書は教えます。特に本当の自由とは何なのか。その自由は主イエス・キリストから与えられたことを教えます。
5章1節 「この自由を得させるためにキリストは私たちを自由の身にしてくださるのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。」
<この自由>とは信仰による自由です。
この5章1節はガラテヤの信徒への手紙の中心になっているところ・命題です。では何から自由になったのでしょう。
①罪と死からの自由です。私たち人間は( )というカッコの中の人生です。その( )の中を楽しく過ごせばよいと考える人が多いです。カッコの中を充実した人生を送るために人はいろいろなことを求めます。しかし罪と死というカッコからのがれることはできません。
ユダヤ教の人々はカッコの中を律法と割礼として重視することにより罪と死から救われると信じてきました。
パウロもイエス・キリストに出会うまでは落ち度のないファリサイ派の中のファリサイ派でした。しかし復活の主イエス・キリストにダマスコ途上でお会いして「目からうろこが落ちた」のです。本当の救いは神の子イエス・キリストの十字架と復活により、本当の自由、本当の救いが与えられるのを知ったのです。
人間の力・努力では罪と死は解決できません。
私は若いときは良いことをすれば神様が認めて下さり救って下さるという<道徳的キリスト教>の中におりました。従って<しなければばらない>、<ねばならない>という思いに縛られて自由はありませんでした。人の評価が気になりました。この世を評価する基準と
する社会、資格、特技、業績の中に生きていました。
しかしイエス・キリストの福音を信ずる信仰が与えられた時、特にローマの信徒への手紙3章21~26節の御言葉「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して神の恵みにより無償で義とされるのです。」このみ言葉を信じて受け止めることができたとき私は変わりました。<福音的キリスト教>に導かれました。イエス・キリストの贖いの十字架が罪と死のカッコの枠をとりはずしてくださったことを知りました。人の評価から自由になりました。<ねばならない>という律法的な思いから自由になりました。思えば聖霊が頑なな私の心を打ち砕いて下さったのです。5章1節の御言葉が響いてきました。
②奴隷のくびきに二度とつながってはなりません。
ガラテヤの信徒たちの律法と割礼にこだわることを指しています。では私たちにとっては奴隷のくびきとは何でしょうか。
5章2節 「ここでわたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役に立たない方になります。」
5章3節 「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そう言う人は律法全体を行う義務があるのです。」
割礼はイスラエルの民として神の民としての契約のしるしです。(創世記17章11節)男子はしるしをつけました。それを異邦人キリスト者にもすすめる者がいたのです。割礼を異邦人キリスト者に求めなくてもよいということを(使徒15章)エルサレム会議で決定したのです。にもかかわらず割礼をしなければ完全な救いが与えられないように教える人がガラテヤ教会の中に入ってきたのです。そこでパウロはきっぱり言います。
5章4節 「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」
自分のよい行いによって救いを勝ち取ろうとする自力主義に走るならば、あなたにとってイエス・キリストの十字架の犠牲の恵みはどのように受け止めているのですか。
キリスト者はよい業に励んだから神から評価され救われるのではありません。キリスト者は神の愛、キリストの愛につき動かされてよい業に励むのです。私は友人から「なぜあなたは伝道者になろうとしているの?」と神学生時代に聞かれました。「神様の愛に少しでもお応えしたいから。神の愛を一人でも伝えたいから」と答えました。それは聖霊の働きによってそのような思いになったのだと思います。その友人は私が神学校を卒業後30数年後に洗礼を受けました。
5章5節 「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて 切に待ち望んでいるのです。」
私たちはキリストの十字架と復活によって罪と死のカッコを取りはがしていただきました。依然として罪と死はありますが、キリストの赦しとキリストと共に生きる生命によりそれにとらわれなく生きる者とされたのです。
その恵みは、一方的に神様がひとり子をおつかわしになり十字架の死をもって贖いだして私たちを救い出して下さった一方的な賜物です。打算的な人間の理性では全く納得いく事柄ではありません。人間の力では信仰を持つということはできません。
“霊”により、聖霊の助けにより信仰を持ち、持ち続けることができるのです。そして信仰による新しい生活を始めることができるのです。
5章6節 「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」
イエス・キリストに結ばれているキリスト者は割礼を受けても受けなくても差支えはないのです。今日の一番大切な御言葉ですが、口語訳では「尊いのは愛によって働く信仰だけであります。」
愛によって働く信仰とはどういう信仰でしょう。
- 神の愛につき動かされる信仰です。
- 自発的な自主的な愛の実践を伴う信仰です。
このことを5章13~15節に詳しくのべています。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」
神の愛と赦しをひとり占めしないで分かち合う信仰です。自己充足的な自分を充たすことばかり考えるのではなく愛を分かち合うことです。「愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」という言葉はややもすれば行為義認の信仰として誤解されやすいです。愛によって働く信仰だけが大事であるとは、愛の行いをしなければならない行為義認の信仰を教えているように思われますが違います。
ルターやカルヴァンもそれを非常に警戒して解説しております。<神の愛につき動かされされる信仰です。>、<互いに愛しあう信仰です。>行為義認の信仰ではありません。
◎パウロが「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントの信徒への手紙一13章13節)と語ります。主イエス・キリストは<神を愛し人を愛する>ことを教えました。愛の実践は信仰と切り離して考えることはできません。聖霊の助けによります。神の愛につき動かされて本当の自由が与えられます。その自由の中にあって自発的な神の愛を分かち合う年となりますよう祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様、
主イエス・キリストにより愛に生きる自由を与えて下さり感謝いたします。
罪と死の奴隷であった者を主の十字架の救いにより神の子として下さいました。聖霊の導きにより神の愛を知ります。どうぞ神の愛をひとり占めにしないで生きている限り、愛の実践を伴う信仰へと導いてください。身勝手な日ごろの罪を悔い改めます。この困難な時代にすべての教会の宣教の業を祝して下さい。すべての人に神の愛が届きますように。
キリストのみ名により アーメン