礼拝説教「恵みの伝わるとき」(2022年1月16日)

聖書マルコによる福音書7章24~30節

空閑厚憲(くが・あつのり)牧師

 

御言葉の御用の前にご一緒にお祈り下さい。

イエス様の十字架の死と御言葉によって証しして下さっている神様、聖名を賛美致します。本日 津波への注意の中献げる礼拝を御導き下さい。また新しいウィルスの流行の只中でありますが、この場、この時を備えて下さいました事を深く感謝致します。この場にイエス様の十字架によって送られる事となった聖霊を豊かにお恵み下さり、聞く者、語る者を御導き下さい。この祈り主イエス・キリストの御名により御前にお献げ致します。アーメン

昨年末のラジオの海外支局員からのニュースによりますと、2021年に世界で注目された言葉はdiversity(多様性)でしたが、2022年注目される言葉は、包括性、つまり すべてを含むことを意味するinclusiveだと報じていました。自然界の多様さや文明、文化、民族の多様さを認めるだけではなく、それぞれの違いを超えて、結び合いたいという人類の志はイエス様と同じだと感じました。

しかし歴史の事実としては、悲しいかな、私共は違いを見付けると互いに反発し合い、結果的には差別と偏見を生み出す温床となる様です。イエス様の生きられた時も、ユダヤいえ教の律法を厳しく守る事が人間としての、特に神の民としての大前提とされておりました。この社会システムによりユダヤ教指導者と固く結ばれたユダヤ社会の権力は安泰でした。いえ、ユダヤ社会の権力を維持する為には律法を厳しく守る生活が必要だったのです。ですからもし律法を守れない人がいたなら、その人は「罪人」とみなされ、差別と理不尽な偏見に苦しめられる社会でした。その様な状況の下で、強圧的な律法厳守は、神様が求めておられない事を口を酸っぱくして根気よく、愛をもって語って下さるイエス様の姿は、新約聖書の各所に見られます。互いの違いを認めながら、必要な時には一緒に生きて行く事の出来る力はどうしたら可能なのかは聖書のメインテーマであり、21世紀のテーマでもあります。

所で今私は新約聖書と申しましたが、最近の聖書学では旧約聖書をヘブル語聖書と言い、新約聖書をギリシア語聖書或はキリスト教証言書と言うグループもあります。それは新しい契約、旧い契約という呼び方は、キリスト教信仰者の尺度によるもので、ユダヤ教の正典を旧いと呼ぶのは配慮が欠けている事だ との気付きによるものです。これからの時代、信仰の書という枠組を離れて聖書をキリスト者以外の色々な民族文化の人々に読んで欲しいという思いが伝わって来ます。

イエス様の御業と御言葉を記す福音書がマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの異なる視点から記されたまま、私共の前に2000年間あり続けているのは、正に多様性でありましょう。しかしその福音書を貫いている太い一本の柱を見失うことのない様にしたいものです。

本日のマルコ7章24〜30節は、マタイの教会もこの「シリア・フェニキアの女の信仰」について、「カナンの女の信仰」(マタイ15:21-28)として記しています。しかしルカは省いています。理由は、この女性に対するイエス様の言葉に納得出来なかった様であります。本日のこの記事で、私共が一番気になる個所はどこでしょうか?

24~27節をお読みします。

「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。』」

元々の伝承では、27節前半の「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」という部分はなく、これはマルコの加筆とされています。元の伝承のイエス様の言葉は「子ども達のパンを取って、子犬にやってはいけない」だけでした。当時ユダヤ人が異邦人を犬とか子犬になぞらえ軽蔑し、差別していた事はティルス地方に居住していた色々な民族の人々の間では知られていました。しかしイエス様の十字架後30年位経たマルコの教会の人々にとって、イエス様ともあろう方がその様な差別的な表現を口にされるとは信じられない事であった筈です。2000年後の私共でも同じ思いです。

イエス様が命を懸けて導かれた事、それは、人は誰もが神様に愛されている存在であり、その出自や民族文化や宗教によって差別されるべきでない、という事でした。これはイエス様による救いの出来事の最も大切な柱の一つです。ですからマルコは「まず子ども達に十分食べさせなければならない」を付け加え、救いの順序の問題にすり替えざるを得なかったのでしょう。

イエス様の救いは最初にイスラエルに起こり、その後異邦人に次々に起こされるのだ、という事です。マルコの事情も分かりますが、このシリア・フェニキアの女性にとってはどちらでも良い事でしょう。「順番を待ちなさい」と言われても、彼女の娘は一刻を争う病の霊に苦しめられているのです。彼女はイエス様の足下にひれ伏して「子どもたちのパンを取って、子犬にやってはいけない」と言われるイエス様に応えるのです。

「あなたのおっしゃる通りです。あなた方ユダヤ民族の為に 神様が備えて下さった救いを異邦人である私の娘が頂く資格はどこにもありません。しかし食卓の下の子犬も子供が落とすパン屑は頂きます。そしてすくすく育っています。子供と一緒に子犬もパン屑を食べ、共に生かされているのです。あなた方ユダヤ民族が私達を異民族として軽蔑し差別し、神に最も遠い存在として分け隔てている事もこの世の現実です。しかしその現実の中で子犬もパン屑を食べ、生かされています。これが神様の御旨ではないでしょうか!」

異邦人の女性は期せずして神様を賛美しているのです。ティルスは地中海に面したフェニキアの港湾都市でした。ローマの軍隊も駐屯していたでありましょう。交通の要所でしたから各地からの名産品を積んだラクダの隊商も行き来していたでしょう。肌の色も 着る服も頭に付けるターバンや布地の模様も多種多彩でした。正にユダヤ人の言う異邦人が溢れている賑やかな都市でした。

所で何故イエス様はここに来られたのでしょうか?異邦人伝道の為でしょうか? そうではありません。

24節をお読みします。

「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。」

7章1節から23節を読みますと、当時のユダヤ人が迷信や言い伝えによって清められたとか汚れたとか人間的な教えに振り回さている様子が記されています。このためイエス様の導きが届かないという困難に直面し、イエス様は疲れ切っておられたのではないでしょうか。異邦人どころか、同じユダヤ人さえ悔い改めに導く事が出来ないのです。一方では貧しさの中で病に苦しむ人々は、イエス様の癒しを必死に求めています。彼らの多くは癒された時点で、「良かった、良かった!」で終わり、まことの導きには関心は薄いのです。そしてイエス様は御自分の使命に忠実であればあるほど、ユダヤ教権力者側からの命の危機にさらされて行く状況を実感され、しばし身を隠されたのです。ユダヤ人は自分達の軽蔑している異邦人の住む地域までは追って来る事はないと思われたのかも知れません。

このマルコの記事には弟子は登場していません。実際はいたかも知れませんが、イエス様の苦しみにあまり関心が及ばなかったようです。この時弟子達でさえイエス様を理解出来ていないのです。正に孤独と無力感の只中におられたのではないでしょうか。

ここはゲツセマネの園で十字架を前にして「この杯をわたしから取り除けてください」と祈られたイエス様のお姿と重なる様に感じます。そこにシリア・フェニキアの女性がイエス様の足下にひれ伏し、娘から悪霊を追い出して下さい、と頼んだのです。そしてイエス様にしては冷酷とも思える言葉にもひるまず、彼女は言い放つのです。

確かに私は異邦人です。あなた方ユダヤ人が差別し、罪人とさげすんでいる者です。しかし子犬が食卓の下でパン屑によって生かされているのも現実です。ユダヤの人々に犬と言われようが、罪人と差別されようが、神様は子犬と呼ばれる異邦人である私達を生かして下さっています。ユダヤ人による差別も現実ですが、子犬が生かされている事も現実です。

シリア・フェニキアの女性の娘の癒しを願う願いは、あふれ出る神賛美となっているのです。それは又、ユダヤ教指導者たちの高ぶりと敵意に直面し、ご自分の無力感に身を隠す様にされていたイエス様へ、御自分の使命遂行の希望を再確認する天来の恵みでもありました。このシリア・フェニキアの女性は、ユダヤ民族の間では差別的扱いをされる異邦人でしたが、当時の地中海世界ではギリシア語を話し、経済的にも恵まれた階級の女性でした。しかし彼女は、イエス様の子犬発言に全く傷付いている様子はありません。彼女は今、自分と娘が生かされており、イエス様に会う事が出来た事だけで十分なのです。ユダヤ人が自分達の事を軽んじるのは残念だけれども、どうしようもない事だ、仕方がない。しかしこうして資格の無い者がイエス様に願う恵みに浴している。何と勿体ない神様の愛か!

彼女はユダヤ人への怒りどころか、神様の恵みへの神賛美と変わって行くのでした。

29節をお読みします。

そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」

「それほど言うなら」の原語・ギリシア語は、「そのロゴスによって」です。「それほど熱心に諦めずに言うなら」というニュアンスとは違います。その真理の言葉ロゴスによって,という意味です。(ヨハネ福音書1章1節に出て来る「初めに言葉があった。…言葉は神であった。」の「言葉」にロゴスが使われています。)「あなたが今、口にした真理によってあなたの娘は癒されました。」という宣言と言えましょう。彼女が口にしたロゴス、真理の言葉とは何でしょうか。それは、「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑は頂きます。」です。これは謙遜とかへりくだりなどという人間的言葉ではありません。

神様は人の世では子犬とされる者も、生かし育てようとしていて下さると はっきりと証しする言葉です。イエス様はこの言葉によって、それ迄明確に意識されていなかった神様の異邦人の救いの御旨を確認されたのです。確かにイエス様が民族主義的考えを御持ちであった事は、認めざるを得ません。軍事力による大帝国ローマにより征服された小国の民族文化は少しも顧みられることなく、ないがしろにされる運命でした。イスラエルの場合もローマに都合の良い部分は許されていましたが、その軍事力による支配に反する場合は、長年培って来た文化や民族性も一掃されるだけでした。その様な中で成長したイエス様を含めたイスラエルや周りの色々な民族の青年たちが、民族主義的傾向を抱くのは無理からぬことです。

ですからイエス様にとって愛するユダヤの人々が律法主義から目を覚まし、真の神信仰に立ち返ることが先ず第でした。正に「先ず子ども達(イスラエル)の救いが先決事項だという思いもあられたでしょう。その様な状況で、ティルス地方で身を隠す様にしておられたイエス様ご自身が彼女から改めて、再び人類救済への広い視野と新しい力を恵まれたのです。同胞ユダヤ民族の宗教指導者からの反発とローマ帝国からの迫害、そして身近に愛を注いで導いて来た弟子達の無理解。そこで人知れず身を隠す様にしておられたイエス様は、今、このシリア・フェニキアの女性との会話によって、魂の疲れと無力感から解放されたのです。

所でこの少々都合の悪い出来事がどうして語り継がれていたのでしょう。それは、そばにいた人々にとって印象深い事だったからです。疲れ切ったイエス様と言えども癒しを求める人々や、理解力の乏しいとはいえ弟子を自認する人々から「先生」と呼ばれていたイエス様です。そのイエス様が、当時ユダヤ人が差別していた異邦人のギリシア語を話す女性によって、喜びと力を回復されているのです。

「あなたの語る『真理の言葉』によってわたしは導かれ、力を回復した。父なる神は誉むべきかな!」と神賛美を献げておられるこの現場には、神様の御業の下に人間的差別など微塵も見られない平等な世界が成就していたのです。イエス様は、父なる神様を証しする尊い使命にありながら、人間的には何ものにも固執されていません。素直に、シリア・フェニキアの女性の言葉に感服し、感謝されています。「先生」と呼ばれている方が、何と柔らかく謙遜であられるのか。この様な方がおられるのだ! と忘れられない光景だったのでありましょう。シリア・フェニキアの女性はイエス様の足下にひれ伏しながら、日常生活の中で垣間見る子犬の様子から、神様の愛の広さと深さを素直に証ししたのです。この時、この女性とイエス様は、イコールの関係です。そこにはいたずらに自己を卑下する姿はありません。

古代イスラエルは東洋の影響もあり、師弟の関係を重く見ました。そして勿論女性は差別されていました。しかし今、期せずしてイエス様とこの女性の間に平等な関係が創り出されているのです。もし私共がその場にいたならば、生涯忘れ得ない出来事となったでありましょう。

所でイエス様は、よく人々を草の上に座らせてお語りになりました。正月に、八木重吉の「草にすわる」という詩を耳にしました。

草にすわる   八木重吉

わたしのまちがいだった

わたしの まちがいだった

こうして 草にすわれば それがわかる

今年はイエス様の「座りなさい」という御声を聞きながら低い目線を恵まれたいと願います。そして自分の間違いを素直に受け入れたいです。きっと、悔い改めの恵みを頂く一年となることでしょう。

お祈り致します。

主イエス・キリストの父なる神様、あなたは御子イエス様によって私共が互いの違いを受け入れつつ共に生かされて行く世界を備えて下さいました。感謝致します。その恵みが伝わる所は、私共の座っている所です。今、そこは冬枯れの草が北風に吹かれていますが、春の芽吹きを待つ生命の場です。イエス様の導きによって そこに座る時、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書14:34)と言われた導きの恵みが伝わって来ます。有難うございます。この国にも多くの外国の人々が暮らしています。その人々に津波の情報が、またコロナの情報が届きますよう行政の働きを力付けて下さい。

本日の礼拝参加を感謝し、この祈りをイエス・キリストの聖名により御前にお献げ致します。アーメン