聖書 ヨハネによる福音書3章1~15節
ペトロの手紙一 1章3~12節
三吉 明(みよし・あき)牧師
①人は誰でもしばしば生まれ変わってやり直したいと思う(現代でも深刻な危機的な願望)。老年になってもそれはある。ニコデモは夜やってきた。何かを主イエスに求めていた。しかしイエスとの対話、イエスの答えを受け止められなかった。3章16節を超えて続く主の言葉を主の生涯がおわって初めて理解した。彼は7章50節(議会で発言)、19章39節(主イエスの埋葬に協力)に再登場する。
②生まれ変わることはニコデモにとってもう一度母の胎に入ることができるのか、できない(失笑?)主イエスの答え<水と霊とから>、水も霊も神のもの。水はおそらく洗礼をさすが二元論ではなく、神が、神のみが水と霊とによって新しく私たちを生まれさせる。新しくとは<上から>の意=神から生まれること。人間が求め用意する何らかの新しさではない。つまずき苦しむとき、新しく生きたい、やり直したいとの実現は人にはできない。神のみができる。 新生、再生、再創造(今日のひきこもりと母胎回帰)、もともと生まれることは神的なこと(詩編139:13)、いのちは神のもの、(ヨハネ1:13)その名を信じる人々は血筋によらず、~によらず、ただ神によって生まれる。体も心も洗礼は一度だけだが霊を注がれ霊で包接されて終わりの完成まで人は生まれ続ける。
③ヨハネ独特のキリスト論。天よりの降下(受肉)と十字架への高挙。それは神への、神からの道、命、神の愛そのものである。この主イエスによって(あって)、人は何度でも生まれることができる。クリスマスの御子誕生の出来事もキリスト内住の信仰も神がなさる奇跡を発見する信仰である。それは神が主語である信仰、聖霊の力を信じ歩む信仰である。