聖書 創世記4章1~16節
ヨハネによる福音書15章13節
森下静香伝道師
今日の説教の隠れたテーマは「兄弟」である。創世記四章は、三章、アダムとエバの話の続きとして読まれる。カインとアベルはアダムとエバの息子たち。最初の人であるアダムとエバは神との関係、縦の関係があった。私たち信仰者に当てはめるなら、神とだけ時間を過ごし、聖書を読み、祈り、一日が終わる。教会に来る必要も社会と関わる必要もない。平和で、人とのいざこざがなく、リラックスした世界。しかし、時として孤独を感じ、寂しいかもしれない。
第四章でアダムとエバにカインとアベルが生まれる。カインとアベルの物語。兄弟の物語。カインとアベルは家族の中で一番近い横の関係が生まれた。「兄弟」とは兄と弟の関係だけでなく、より広い一人ひとりとの人間関係
を表す言葉。人間関係は私たちが生きている限り逃れることができない。この物語には、主な登場人物が、二人の兄弟の他に、もう一人いる。それは、「主」ご自身。元々聖書の主人公は神である「主」。またその著者も神である「主」。この「主」の言動、行動に注目しつつ、この物語を読んで行こう。
1節。エバは言う。「わたしは『主によって』男子を得た」と。エバは自分がカインを身ごもったのは、『主によって』であると自覚している。この一文はエバの信仰を表す。「カイン」という名前の意味は「得る、産む、造り出す」。神が主語となる場合には、「創造する」という意味になる。しかし、エバが弟アベルを生んだ時には、ただその弟アベルを生んだとだけ記されている。カインは喜び祝われた者。長子として未来の可能性に満ちている。一方、アベルという名前の意味は「空気、無」であり、生命の可能性の無さを示している。
3節から5節に至っては物語が設定されていく。両者ともに捧げ物を携えて神を礼拝しにやって来る。しかし、困ったことが起こる。神が、アベルの捧げ物である羊の初子に目を留められ、カインの土の実りを拒否された。なぜか。理由は書かれていない。
私はここでこう考えた。
もし、神がカインとアベルの両方の献げ物を受け入れていれば、カインはアベルを殺すことはなかったかもしれない。また逆に、主がアベルの献げ物を拒み、カインの献げ物を受け入れていたら、弟アベルは怒ったり、兄を殺し
てしまっただろうか。兄弟が入れ替わっただけで、結果は同じであっただろうか。だから、混乱は神によって引き起こされた。神の気まぐれがこの事件の引き金となった。神がいなかったら、この家族は上手く行っていたのではないか。さらに、こう考えた。しかしながら、神は神であられるから、自由な存在で、何をしてもよい。私たちにも同じ自由を得させるために、この世にイエス・キリストを送ってくださった。神の性質は自由に基づいている。だから何をされても自由だ。時として人生にはこれと似たようなことが起こる。なぜあの人ではなく、私に、このことが起こるのか。人生は不公平に思われる。
カインは激しく怒って顔を伏せた。6節に至って初めて主題が始まる。この物語で最も興味深い神の奇妙な発言。まず最初の問いは「どうして怒るのか、どうして顔を伏せるのか」ここでの第一声は「どうしてアベルを殺したのか」ではない。いずれにせよ、神はその答えを知っていたはず。第二の問いは、「もしおまえが正しいなら顔をあげられるはずではないか、正しくないのなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める」「もし正しいなら~、もし正しくないなら~」とこちらも神が自問自答しているかのよう。罪はまるで野獣のように獲物を捕らえよ うとして戸口で待っている。
罪とは規則を破ることではない。罪とはカインを待ち伏せている得体の知れない目に見えない攻撃的な力。罪は死を来たらせるもの。その罪がカインを慕い求める。そして神は言われる。「お前はそれを支配せねばならない。」これは主の命令。カインの心に入り込もうとしている悪い思い、アベルを殺そうと思う思いをとどまらせようとして、神はここでカインに警告された。しかし、主の言葉とは裏腹にカインは罪を支配できず、逆に罪に支配され待ち伏せていた野獣にまんまと食われてしまった。物語の残りの部分は裁判。ドラマは9節から10節の取り調べ、11節から12節に至る判決、そして最後に16節の追放へと展開して行く。どのような判決が言い渡されたのか。それはカインが逃亡者となること、そして不毛の地を耕し続けること、このことは楽園から追放されたカインの父母に対する判決に似ている。
しかしながら、この物語の語り手にとって興味のあるのは、殺人そのものよりも、殺人者カインの運命。カインは主に慈悲を求める。殺した者が今度は自分が殺されることを恐れる。それに対して神はカインに一つのしるしをつけられた。このしるしには二つの側面がある。一つはカインの罪を明らかにする。もう一つは「それにもかかわらず」カインが神の守りの下にあることを示す。神に従わない罪と、「それにもかかわらず」守られている人間の生。
先日、私の夫があるニュースを私に読んでくれた。ある80歳を過ぎた妻が、夫の顔や体を踏みつけて殺してしまったという事件。私は夫に聞き返した。「なんで」。夫は記事を読み進め、その妻が寝たきりの夫の介護をしてい
たと言った。そして私の夫が言った。「私もあなたによく踏まれるけどね」わざとではないが、夜中に寝ぼけて、トイレに行くときに踏んでしまうことがある。一応言っておくが、私が踏まれることもある。私は冗談半分にこう言った。「でも80歳過ぎて、老々介護をしていて、煮え切って、踏みたくなることもあるかもね、私も踏んじゃうかな」と。あってはいけない恐ろしい事件だとは思うが、あるかもしれないとも。私たちは罪を支配しなければならない。罪の問題を何とかしなければならない。
カインは自分よりも神に好まれたアベルを受け入れようと思えば、できた。しかし、彼は待ち伏せていた怒りに身を委ねてしまった。カインは神の守りの下にある。しかし、家を離れ、さすらいの身になってしまった。事態はカインにも神にも困難なものとなった。罪は裁きを受けた。しかし、罪を犯した者にさえ、「それにもかかわらず」神の驚くべき恵みがある。その恵みはカインから離れなかった。11節ではカインは死んだも同然。神がカインにつけた印は再生、そのものではないが、その可能性を秘めた印。罪を犯した者を神が見捨てておられない印。
この創世記の4章の物語における神の驚くべき恵みに、本日のもう一つの主の御言葉であるヨハネ15章13節を照らし合わせた時に、その御言葉は、どのように私たちの心に響くのか。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」私にとってこの御言葉は、韓国のキリスト教を言い表す代表的な御言葉。この御言葉は、ソウルのヤンファジンというところにある宣教師墓地の資料館、その資料館の最後に書かれている御言葉である。ヤンファジン宣教師墓地、そこは私にとって特別な場所。そこはクリスチャンにとって、特に宣教師たちとその教えを受けた者たちにとって特別な場所である。私自身もアメリカ人の宣教師から大学四年間伝道されて信仰を持つに至った。韓国の友を愛するために海を越えてやって来た勇敢な先輩の宣教師たち。彼らは、この御言葉を文字通り、生き抜いた。皆、この神の限りない恵みに触れた人たちであった。そして文字通り、「友のために命を捨てる」ことができた。一人ひとりの思いが込もった言葉が、この資料館には収められている。一文一文を読む時に心が熱くなっていったのを覚えている。その宣教師一人ひとりの行動の根底に流れているのが、この理解のでき
ない、人間には到底わからない、不可解な神の恵みである。日本に最初にやって来たプロテスタントの宣教師の一人にヘボン博士がいる。眼医者であった。韓国に最初に行った宣教師のアンダーウッド宣教師やアッペンテェラー宣教師の仲間。皆、この見えない神の力に突き動かされて、海を越えて見知らぬ国へやって来た。当時は今と違って、飛行機はなく、過酷な船の長旅。ヘボン宣教師夫妻は、旅の途中に子供を亡くしたり、日本に着いてからは奥さんが石を投げられて怪我をしたり、とうとう病気となり、一度本国へ戻る。しかし、再びヘボン博士が44歳の時に、船に乗って日本にやって来る。
私はこの宣教師たちのビデオを繰り返し観てようやく、なぜ彼らがそこまでしなければならなかったのかを悟った。様々な命の危険があっても、また自国で安定した職業や地位があっても、なぜわざわざ他の国に行って、宣教するのか。それはこの奇妙で不可解な神の恵み、神の霊に促されるからであると私は思う。そして今日の私たちはその延長線上に存在する信仰者である。つまり、奇妙で不可解な神の恵み、神の霊によって動かされた人たちがいなければ、私たちもここにこうして座っていることはなかったことは、確かである。
主イエスは言われた。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」「友」という言葉は、「愛する」フィレオーというギリシャ語に由来した言葉。今日、私たちが使っている「友達」という意味より、「もっと親しい関係、親密な関係」を表す言葉。これは主イエスが弟子たちに語った言葉。弟子たちに「もう僕とは呼ばず、これからは友と呼ぶ」と語った。主イエスは「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」また弟子たちに友と言われる理由は、「父から聞いたことをみなあなたがたに知らせたからである」と言われた。主イエスの弟子である者たちには神の友となることが約束されている。神が隠された神の計画を知らせてくださる。神の計画を知らせていただくためには、神との関係を結んでいなければならない。ただ関係を結べばよいというのではなく、神との親しい関係、より親密な関係を日々求めていかなければならない。
土気あすみが丘教会の皆さん、皆さんは主イエスと今どのような関係か。主イエスはあなたの友か。皆さんは主イエスと親しい関係をもっておられるか。また持ちたいと望まれるか。神は私たちが神と親しい関係になれると言
われる。私たちには罪の性質がある。自ずと悪い方向に向かってしまう性質を持っている。そして人間を野獣のように待ち伏せている得体の知れない罪という存在がある。その罪を支配する方法は神の恵みによる。再生に至る兄弟愛を持つには復活のイエスの力が必要である。兄弟を愛せない、それは生まれながらの人間の姿。兄弟を愛する、それは死から命に移った証拠。私たちを友と呼び、友のために十字架で命を捨てられた主イエス、主イエスの驚くべき恵みは今日も私たちの前にある。
結語
この恵みを受け取り、主の恵みの中を生かされる者となろう。神が私たち一人ひとりに持たれている愛は底知れぬ海よりも深い愛。罪びとを決して見捨てない。その理解を超えた神と私たちは親しい関係を持つことができる。私たちと親しい関係を持ちたいと主イエスは招き、望まれている。この驚くべき恵みの中を私たちは今日も生かされている。私たちはまた、海よりも深い神の愛に取り囲まれて、生かされている。どうか主の大いなる愛に答え、主の御腕をしっかりとつかみ、主の復活の力をいただいて、兄弟を愛する者へと変えられよう。友である私たちのために命を捨てるほど深い愛を示してくださった神である主イエスの親しい友としていただこう。