聖書 ローマの信徒への手紙10章1~13節
辻 哲子牧師
初めに
私たちは何に熱心に生きているでしょうか。
仕事や教育に、病気をなおすことに、健康に老化現象を防ぐことに、社会奉仕に、趣味に...。人は様々な形で熱心に生きています。しかしやることがない、体も頭も動かない<生活不活病>といううつ状態に陥っている人も多くいるとの最近の状況です。
その中で私たちキリスト者は伝道することに熱心でありたいと思います。
私の一番の願いは孫たちみんなが、里子で育てた娘の息子たちも含めて、信仰を持つことです。私の兄弟姉妹5人は皆信仰を持ち、私の娘や甥や姪もみなキリスト者であります。甥の一人及川信牧師は沢山の説教集や「ヨブ記」や「ルカによる福音書を読もう」等出版し活躍しています。
しかし実家の孫の世代は皆が皆クリスチャンということではありません。私は両親から受洗することや牧師なることを強制されたことはありませんでした。しかし両親は真剣に祈っていたことをあらためて思います。
さて、多くの人々は神なしでも生きていられると思っています。神という的をはずして生きていることになんとも思っていません。人間は罪深い者だという言葉は知っていますがそれが<神と正しい関係がくずれていることからきていること>に気づきません。
罪とはギリシャ語の「ハマルティア」=的をはずす、という聖書の言葉です。
1,パウロの同胞ユダヤ人の救いへの熱意
さてパウロは同胞ユダヤ人が救われるために熱心に祈りました。
10章1節「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」
パウロは9章からイスラエルの人々の救いのために熱心に祈っています。
9章2節「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」3節「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」4節「彼らはイスラエルの民です。」
イスラエルの民とは神から選ばれた民、祝福の源となる民です。
パウロは同胞イスラエルの人々が救われるならば自分がキリストから、神から見離されても、見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。というほど同胞の救いを熱心
に祈っているのです。
わたしたちはこれほどの思いで家族のためあの人、この人のため同胞のために熱心に
祈っているでしょうか。そのことが問われます。
ところでユダヤ人は神の約束を信じて神に仕えることに熱心でした。しかし彼らの熱心はつまずきの石につまずいたのです。(9:31)
ではどういうつまずきの石につまずいたのでしょうか。
2,正しい認識に基づかないユダヤ人の熱心です。
10章2節「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。」正しい認識に基づかない熱心というものがあるのです。それは何か。
①神の働きを無視した自力主義です。
パウロ自身も経験したことですが<律法を行うことを通して神に仕えることを証しする>ことでした。神に仕えることが律法を守ることであり律法を守ることによって<自分の救いを勝ち取ることができる>という熱心です。自分の努力で自分の意志で救いを勝ち取る自力主義の熱心です。神の力、神の憐み、神の愛を信じるということよりも自分の一生懸命さを信じていたのです。
熱心であることは大切なことです。しかし正しい認識に基づかない時は傲慢になります。熱心でない者をさげすみます。さばきます。蔑視します。このことはユダヤ人だけでなく多くの人間に起こりうることです。
ではなぜ自力主義や自分の努力で救を勝ち取る熱心はいけないのでしょうか。決して悪いことではありません。しかし、そこに神さまの働きがあることを無視してしまう時、あやまちを犯してしまうのです。
多くの人々はプライドがありますから神様の働きを見ようとしません。自分の力で自分の努力で自分の自由と責任で人生を歩むべきだと思っています。従って神様が一方的に与えて下さる救いのみ業を信じることはむつかしいのです。私も若い時イエス・キリストによる無条件の救いがあまりにも虫のよすぎる話であると思い信じられませんでした。それは以前にもお話ししたように、私の信仰は<道徳的キリスト教>にとどまり福音に対する<正しい認識>に立っていなかったからでした。
即ち<神の義>を知らないということでした。
そして<自分の義>を求めようとしていました。
10章3節「なぜなら神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」
ユダヤ人が正しい認識に基づくものではない大きな要因は<神の義を知らない>ということでした。
3,神の義とは何か
ひと言で説明しにくいのですが<神の救い、神の力強い働き>であります。<神から人
に与えられた正しい関係を基礎づけるもの>であります。
<義とする>ということは<正しい状態に置く><救うこと、正しい関係を与える>という意味です。
神様は<選び>と<契約>と<律法>をもってイスラエルの民に神との正しい関係でいるように救いのご計画をすすめましたがイスラエルの民は神様と正しい関係を保つことができませんでした。
そこで<時が満つるに及んで>神は独り子<イエス・キリスト>をお遣わしになりその十字架の死と復活を通して<正しい関係>を全人類に用意してくださいました。それが<神の義>です。
しかしユダヤ人は<神の義>を知らず<自分の義>を求めようとしました。
4,<自分の義>とは何か
それは私たち人間が自分でよいことをして神様との関係を築こうとすることです。神様が与える義を見ないで、救いの働きを見ないで自分の力で自分の熱心で律法を行い神との関係を回復しようとすることです。
キリスト教は自分の義を見ないで神の義を見る宗教です。「神の義は信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには差別がありません。」
5,キリストは信じる者すべてに義を与える
10章4節「キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために」,これは大事な言葉です。
口語訳では「キリストはすべて信じる者に義を得させるために律法の終わりとなられたのです。」
<ティロス>というギリシャ語は①終わり②目標と両方の意味を持っていることがわかります。主イエス御自身は「わたしは律法を廃棄するためではなく成就するために来たのです。律法の一点一画でも決してすたれることはありません」(マタイ5:17)
主イエスは「神を愛すること、隣人を愛する者は律法を全うしているのです。」と語り、主ご自身がその律法の内容を徹頭徹尾完全に実行されました。
愛は律法を全うするのです。神と人を愛する者は律法を全うしているのです。そのキリストが無条件に無償で、差別なく信じる者すべてに<神との正しい関係=神の義>を用意してくださいました。
ここで必要なのは信仰です。神への信頼です。神様がイエス・キリストをとおしてなされた神の御業を受け入れる信仰です。
神の義を与える出来事を信じなければ感謝も喜びも平安もありません。信仰がなければ救いがせっかく用意されていても無関係な事柄になります。
ローマの信徒への手紙1章17節「福音には神の義が啓示されていますがそれは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてある通りです。」
おわりに
あらためてイエス・キリストの十字架の贖いの恵みが信じる者すべてに与えられています。言いかえれば義をもたらす驚くべき恵みを私たちは与えられています。Amazing Grace です。決してお見捨てにならない驚くべき恵みです。
私たちその恵みを知る者はこの暗いニュースの多い現実の中で何を神様から求められているか。驚くべきAmazing Graceを家族が、多くの人々が知り信じることができるように祈りつづけることではないでしょうか。