礼拝説教「ぶどう園の経験」(2022年2月20日)

聖書 マタイによる福音書20

空閑厚憲(くが・あつのり)牧師

イエス・キリストがその御業と御言葉で証しして下さっている神様、聖名を賛美致します。

コロナ禍の中でありますが、すべてのことを整えて下さり、あなたへの礼拝を備えて下さったことを感謝します。この場にイエス・キリストの十字架によって遣わされることとなりました聖霊を豊かに注いで下さり聞く者、語る者をあなたの御前に低くさせて下さい。

春まだ浅い、ロシア ウクライナ地域に戦争の兆しが燻っています。今こそ平和の主イエス・キリストの導きを聞きつつ、祈り続ける者とさせて下さい。

この祈りを私共の救い主イエス・キリストの聖名により御前にお献げ致します。アーメン

 

新約聖書に書き留められたイエス様の御言葉と御業は、2000年前のものだとは思えない程の新しさで私共を導いて下さいます。

いつの時代においても、又どの民族文化の下でも、多少の誤解や衝突を生みながらも、主イエス様の御言葉は全く新しい導きとして、力強くその時代に、その民族に、生命力を注いで来ています。

所で幼児教育の大切さが言われて久しくなります。中でも幼い時の絵本の読み聞かせは、子供の生きる力に大きな影響を与える事が知られています。

心に響く物語りを聞きながら育つ子供達は、苦しみの時も前向きに生きる力を育てられるそうです。

2000年前、イエス様によって語られたたとえ話もヒトという生き物が、利己的な遺伝子に振り回されながらも人間性を回復し、今日迄生き抜いている力だと言えましょう。それはイエス様の御言葉と御業が私共に「悔い改め」という自己変革を促して下さるからだと言えます。その意味でイエス様のたとえ話は、子どもにとっての絵本の様に、私共不完全で弱いヒトという存在にもかかわらず、それぞれの人生を生き抜く力と希望を与えて下さっています。

本日与えられましたマタイによる福音書20章1節でイエス様は、

「天の国は、次の様に譬えられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに、出かけて行った」と言われています。

天の国とは、ある特別な場所や空間を言うのではなく、神の働かれる状況を指している様です。

皆さんはこの有名なぶどう園の労働者のたとえ話をお読みになり、一番気になるところはどこでしょうか。

ある方は16節の「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」という言葉かも知れませんが、これは当時ユダヤでは日常よく使われていた諺の様なもので、マタイの教会が付加したと考えられています。

或は、朝からずっと働いた人たちの賃金と、夕方に来て1時間しか働かなかった人たちの賃金が、労働時間を全く無視して支払われる、というカ所が気になる方もおられましょう。

6節7節をお読みします。

「五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。」

もしこのたとえ話が20章9節の賃金を労働者達に支払う場面で終わっていたなら、何も問題はなく、農園主の貧しい労働者達への愛の行いを褒めている「善い行いの勧め」で終わることが出来ます。納得のいく結論です。しかしこのたとえ話は、そうはいきません。

所で私は、この話を読むと、あの放蕩息子のたとえ話を思い起こします。

ルカによる福音書第15章28-30節をお読みします。

「兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。

『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』」

家を出て、放蕩に明け暮れていた次男が回心し、家に戻って来た時、父親が肥えた子牛をほふって喜びの宴会をして、次男を迎えたのです。

その時、長男が父親に対して発した抗議の言葉が、この言葉です。

ここにも、ぶどう園の主人に抗議する人たちと同じく、天の国、即ち「神の恵み」としか表現できない出来事に抗議する人が描かれています。望外な賃金の恵みに与る同じ所で、思いもしない怒りに直面する私共です。しかしこれはよく考えてみると、正に私共人間の現実です。

2000年前イエス様の後をゾロゾロついて歩き、その話を聞こうとしていた人達は、どんな人達だったでしょうか。彼らは仕事のない人、よその国から流れ流れて来た人、長患いの持病に苦しんでいる人、伴侶を失くした女性、親のいない子ども達等、弱く貧しい人達でした。彼らは何の希望もない状況をやっと生きていたのです。その様な中でなぜ彼らは全身を耳にして、イエス様の話を聞いたのでしょうか?

そしてその話を自分だけの心にしまっておくことが出来ず、身近な人に語り継いだのでしょうか? もしイエス様の話が難しい教えであったら、彼らは聞かなかったでしょう。

今、2000年後の私共が、こうしてイエス様のたとえ話を耳にする事が出来るのは、彼らが聞いて、そして語ってくれたからです。

しかしそれは、1世紀のパレスチナの最底辺で生きていた彼らに、世の中にはほんの少し働いた丈で、1日分の賃金を払って下さる神様の様な農園主もいるから、望みを捨てずに神様を信じて生きなさいとか、放蕩の限りを尽くしても全面的に悔い改めれば、許されて再び受け入れて貰えることもあるから、希望をもって生きて行きなさい、という様な話が聞いている人々の腑に落ちるでしょうか?

それではユダヤ社会の最底辺の貧しい人々が、このたとえ話にどうして感銘を受けたのでしょうか?

それは、これ迄見えていなかったものが見える新しい目を開かれたからです。

このぶどう園の話でイエス様が語られているのは、当時の社会の現実をまるでベールを剥ぐ様に、赤裸々に語っておられる、ということです。

いつもは都エルサレムの大邸宅に住んでいるブドウ園の持ち主は、土地を持っている農民に金を貸し、病気や天候不良などのため、借金が返せない農民から、借金の「かた」として農民達の先祖伝来の土地を没収したのです。

本来ユダヤでは土地は神様から託されたもので、売り買い出来ず、他人の所有物になることはなかったはずです。

しかし大金持ちは強引に手に入れた土地に、

ぶどう園を造り、ぶどう酒製造というビジネスを始めるのです。

そしてその農園主は益々豊かになって行ったのです。

通常農園主たちは直接農園には行きません。

農園経営のすべてを、雇い人の才覚ある者や、 農園主が所有する信頼できる奴隷に任せていたのです。

ぶどう園の運営に関係する色々な苦情や面倒なことに農園主は関わりたくないのです。

ですから自分が所有している優秀な奴隷や使用人に任せます。

ところが、イエス様のこの話では、農園の持ち主自身が労働者を雇いに、日に何度も広場を訪れています。

労働者はそれ迄目にする事が出来なかった農園主に会って、今迄見えていなかったものをはっきり見せられているのです。

農村ではめったに会えない様な、上品で知的な人にもかかわらず、農地買取りは凄腕だなぁーと思ったかも知れません。

自分達が先祖から死守して来た農地が、どの様にして今はぶどう園に変わり、遂に自分達は以前自分達の土地であったそのぶどう園で働くしか生きる道はなくなった事を、なぞる様に思い巡らしたでしょう。

正にその同じ時、労働時間に比例しない、望外な賃金を得た幸せな経験をした労働者がいました。

神様からの恵みとしか言えない出来事です。

しかしこの話は「神様に感謝しましょう」では終わりません。

「これは不公平だ!」と朝から働いた労働者が抗議します。同じ労働者だからと言って、「沢山貰えて良かったなぁ~!」と一緒に喜んでくれるわけではありません。これは私共の生きているリアルな人間社会です。「神の恵み」としか表現できない様な幸福を恵まれたとしても、その出来事を否定し、受け入れさせない新しい内部分裂が起きて来るのです。

農園主は15節にある様に「自分のものを自分のしたい様にしては、いけないのか」と労働者たちを高圧的に黙らせます。

一方、帰って来た放蕩息子を迎え入れる父親を許せない兄は、いつになったら二人を受け入れられるのでしょうか?

重い問題を残したままイエス様の話は終わります。

当時農園主などの金持ちは、貧しい人を助けたり、借金を帳消しにしたりするなどの善い行いをする事にも気を配っていた様であります。

今で言う、富んでいる人の慈善事業の始まりです。それは社会的名誉を得られる、見返りのある慈善活動でもあったのです。ですから金持ちの農園主がわざわざ自分で広場に人集めに出たのも、慈善行為のパフォーマンスという一面も考えられます。そうであったとしても、そこで1時間しか働かないのに、1日分の賃金が支払われるという、驚く様な出来事が起きました。そして1時間しか働いてない者から始めて、賃金は支払われました。

そしてあの放蕩息子は、いろんな悪事もしたし、苦しい目にもあったし、お兄さんの了解は未だ得られていないけれど、実家に戻る事が出来たのです。しばらくは下座で小さくなって、使用人として働かせて貰うでしょう。

これらのたとえ話の結論・エンディングはどうだったのか、イエス様は語られていません。

まるで「あなたが もしこの話の現場にいたらどうですか? どう思いますか?」と問い掛けられているみたいです。

ある人は、労働時間にかかわらず支払われる豊かな愛に感動するでしょう。又ある人は、譬話の主人公の近くにこんなに強く怒り、抗議する人がいたとは、と驚くかも知れません。

たとえ使用人として帰って来た弟であっても、父の喜ぶ様子に納得のいかない兄の強い不平不満も理解出来ます。

イエス様は賃金の支払いの不公平さに怒る人々と、回心して帰宅した弟を受け入れられない兄をはっきりと私共に見せて下さっています。

予想もしていなかった高額な賃金に、そして又放蕩息子への父親の許しと憐れみの恵みに気を取られている私たちは、農園主に抗議する農民や父親と弟に抗議する兄に突然気付かされます。それ迄この事に気付いていませんでした。

労働者の中には何となくこのままではことは収まらないと感じる人もいたでしょうが、気付かない振りをして自分の賃金を貰って帰ろうとした者もいたでしょう。

イエス様はこのたとえ話で私共が見えてなかったもの、見ようとしなかったものを見せて下さっています。

熟したぶどうの実を摘み取る頃は、とても暑く忙しい時です。雨季が始まる前に1時間でも働ける労働者を探す必要があります。

その様な重労働を朝からしていた人と、夕方1時間しか働かなかった人と賃金が同じとは理不尽な話です。又長男に生まれたからと、幼い時から期待され重い責任を負わせられていた長男の苦しさは積りに積もっていたでしょう。

イエス様は言われます。

「あなた方のそばには、この様な人々が共に生かされています。つまり、この様な人々との関わりの中で、あなた達は共に考え、共に喜び、共に苦しむ者に成長させられた時、天の国は始まります。一部の労働者が高額な報酬を得ても、又、弟だけがやり直し人生を恵まれても、それだけではことは済まないのです。ですから私があなた方と共にいてあなた方を導きます。」と。

イエス様はたとえ話を通して私共にそれぞれの人生をより広く、より深く耕して下さるのです。

私共一人びとり、それぞれの課題を抱えています。いくら考えても明確な結論に至らない事も山積しています。大切な人間関係も時には誤解されます。肉体的な弱さは年齢と共にあらがえません。しかしこれらの難問を用いて、同時進行で神の御業がイエス様によって力強く働いて下さっているのです。それは今まで見えてなかった事が、イエス様によって明らかにされてくる不思議な経験と言えるでしょう。

ちょっと働いた丈で多額の賃金を貰った人と共に喜ぶ人にどうしたらなれるのか?

不公平な賃金に抗議している人の怒りをどうしたら解決できるのか?

放蕩息子の兄が、弟の帰りを父と共に喜べる日はどうしたら来るのか?

と思い巡らす者へと私共を導かれるのです。

当時のユダヤ社会では最も「天の国」から遠いとされていた人々が、イエス様が自分達の苦しい現実を知り、たとえ話を語って自分達と一緒になって一緒に考えて下さる事が嬉しく、元気が出たのです。それはぶどう園で働き、望外な賃金を貰った労働者が経験した喜びにも通じます。その喜びは「私はイエス様に『えこひいき』されている」という実感です。

ユダヤ教徒としては罪人と扱われる者にもかかわらず、イエス様はこれ程わたしの近くにいて下さっている勿体なさです。そしてその自分への恵みに気付かされる時、同時に周りの人々の存在に気付かされるのです。

私の尊敬する友人の一人に、長年障がいを持ったお子さんの教育に携わっている方がいます。

彼女の障がい児の保護者への言葉です。

「障がい児中心の暮らしが続くのが現実です。しかしその中で、時にはお兄ちゃんやお姉ちゃんをいつもの200倍可愛がって下さい。」と。

私は、見えない事を見せて頂いた思いでした。

イエス様はたとえ話によって、私共を偏見や差別から解放し、平和を創り出し天の国の建設に参加させて下さいます。私共も又、ぶどう園に招かれ、思いがけない恵みである、イエス様を知らされた経験者なのですから。

誠に感謝であります。

 

お祈りします。

主イエス・キリストの父なる神様、聖名を崇めます。

今世界はコロナによる不安が終わりません。そしてウクライナのきな臭いニュースが飛び交っています。遠い国の事と無関心になる事なく、この地球上の一大事に多くの国が関わり、力を合わせて戦争回避に漕ぎ着ける事が出来ますように知恵をお恵み下さい。そして今世界を、そして私共の家族や仲間を分裂させ敵対させる働きに気付かせて下さい。いつの日か、イエス様によって自分からほかの人のことを思う力を恵まれることを信じます。これからもイエス様が語って下さった譬話に耳を傾け、そして周りの人に語り継ぐ者にさせて下さい。

救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン