牧師 真壁 巌
「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここからあそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
(マタイ一七:二〇節)
困り果てた父親がいました。彼は発作で苦しむ我が子を、主イエスの弟子たちのところに連れて行きました。しかし弟子たちには治すことができませんでした。父親からそれを聞いた主イエスは言われました。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」(同一七節)。
弟子たちの所ではなく主イエスの所に行かなければダメなのです。ところが弟子たちは「自分たちの力で何とかなる。かつて悪霊を追放したことがあったから」と、心が高ぶっていたのでしょう。それが「よこしま」ということです。弟子たちがしなければならなかったことは、この父親を主イエスの所に案内することでした。父親も主イエスに会いに来たはずです。ところが弟子たちは自分たちの所で止めてしまった。そして癒そうとしたのにできなかったのです。当前です。弟子たち自身には本来、病を癒す力もなければ、悪霊を追放する権能もないからです。
牧師に持ち込まれる相談にも様々な問題があります。そして大抵の場合、牧師一人ではどうすることもできません。牧師も人間だからです。しかし牧師にはすることがあります。主イエスを紹介することです。その人を主イエスのもとに一緒に連れて行くことです。その人が主イエスに目を向け、主イエスにお会いすることができるように導くことなのです。
きっと弟子たちは、その子を癒すことができなくて恥ずかしかったのでしょう。あとで「ひそかに」主イエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」(同一九節)と尋ねました。それに対して主イエスは冒頭聖句を述べられたのです。
「からし種一粒ほどの信仰」とは何でしょう?それは神さまに請求書を出す信仰ではなく、病の床にあっても共にいてくださる神さまの愛を信じて領収書を出せる信仰(渡辺和子)です。誰でも病気になれば癒されることを願います。そしてその祈りを聞いてくださる神さまこそ、私たちの神さまであってほしいと思います。当前のことです。でもそんな当前の信仰とは違う、もう一つの信仰こそ、からし種一粒ほどの信仰だと主イエスは言われたのです。直径〇・五ミリという本当に小さなからし種です。それでも「神さまが祈りを聞いてくださるのは当然」のように請求書を何枚も出す信仰がいくら大きくても山は移らないのです。
主イエスは憐れな父親の子から悪霊を追い出されました。人間にはできないこともできる方なのです。そしてこの主イエスが命じれば、山をも移してくださるのです。
その上で私たちはなお呟きます。「本当に山は動くのか?」。実際には山は動かないかもしれません。その時点では神のご計画によって、病が癒されないかもしれません。それでも私のために十字架につかれたほど愛してくださった主イエスが今も共にいてくださることを信頼できた時、心の山は動きます。
病気の状態がどのようなものであれ、たとい死の床であれ、「わたしの恵みはあなたに十分である」(Ⅱコリント一二:九)という主イエスの言葉を信じることのできるからし種一粒ほどの信仰がこの時の弟子たちにあったなら、この親子にも「あなた方はそのままで十分神さまの愛に包まれています」と告げ、平安を与えることができたはずです。それこそがすなわち「癒し」ではないでしょうか。
癒しとは病気が治ること以上に、病気のままでも神さまの愛の内におかれていることを感謝できる心身の状態を指すのかもしれません。つまり平安に病むことなのです。からし種一粒ほどの信仰がもたらす恵みとはそのようなものです。