礼拝説教要旨「一つの源から」(2022年3月6日)

聖書 ヘブライ人への手紙 2章10~18節

竹澤潤平(たけざわ・じゅんぺい)伝道師

聖書箇所は、日本基督教団が出している聖書日課を選ばして頂きました。受難節ということで、イエス様の十字架の死についての箇所です。このヘブライ書の具体的な背景はハッキリとはわからないそうですが、手紙の内容から、迫害や偽りの教えにさらされている人たちへ向けて書かれていると思われます。

1章では御子は天使にまさることが言われていますが、当時、天使たちへのいきすぎた関心や認識があり、重要視されすぎていたようです。天使たちを重要視するのはよろしいのですが、この時代の偽教師たちは天使の役割を極端に強調しすぎて、天使たちによってのみ神に近づけるとさえ教えていた者もいたようです。

またイエス様の十字架に対して、その死は頼りない、といった捉え方をするものもいたようです。そこには仮現論という考え方もありました。ものすごく簡略化すると、イエスが神なら虚しく殺されるはずはない。イエスの肉体はいわば仮住まいのようなものであって、十字架で死刑になる以前にそれを脱ぎさって、ただ見かけ上の苦難を受けたにすぎない、という考え方です。つまり、神が死の苦しみに遭われるだとか、人々から簡単に殺される、などということは受け入れられない、といった気持ちが強く前面にでているのです。天使たちなら神様の使いであるし、死なないし、光り輝く素敵な姿が想像できるというのです。

 

私たちは天使崇拝をしません。しかしマリア様、聖人様などを拝む教派もあります。イエス様だとなんだか親しみにくい、マリア様の方が、どこぞの聖人様こそが私を救ってくれる、と考えている人たちが実際にいるのです。

イエス様の死についてはどうでしょうか。たとえ私たちキリスト者がイエス様の死を否定的に捉えていなくとも、信仰のない人からみたら十字架の死を頼りないと感じるかも知れなせん。聞いた話ですが、ある方が伝道していると、話し相手はこう言ったそうです。「イエスというのは30数歳で死んだのか。そんなに若くして死んでしまうとは頼りないね」と。無抵抗の中捕まって、挙げ句殺されるなんて頼りない、と感じる人もいます。まあ、それだけを聞いたのならそう捉えられてもおかしくないでしょう。むしろ普通の感覚かもしれません。

ですがそのような中、キリスト者である私たちは、ある人たちから見れば頼りないかのようにさえ見えるイエス様の死、という問題をほっぽり出して、盲目的にいる訳にはいきません。十字架の死については脇に置いてといて、イエス様が人々に仕えてくださったお姿ばかりに目がいってはいないでしょうか。そもそもイエス様は素晴らしい教えを、また行いをしてきたではないか、それこそが重要なのだと。しかし、イエス様を通して与えられた福音がそれだけなら、親鸞だって、マハトマ・ガンジーだって、素晴らしい教えを説いたし、イエス様ほどではないにしても人々に奉仕してきた人たちがいます。いや、それ以上かも知れない、となってしまいかねません。イエス様の人々に仕えるお姿だけを見てしまうと、おかしな方向に行くのです。

 

そこでヘブライ書は言います。そうではない、十字架の死があってこその福音なのだと。そもそもイエス・キリストは天使にまさるものだと1章で語られ、2章でもそれが前提に続いて話がなされています。天使達を通して語られた言葉を堅く守るなら、それにまさるお方が取り次いでくださった福音をないがしろにしていいのか。十字架の死をいとも簡単に取り扱っていないかと。むしろ、あの十字架の死という低さこそが私たちを救いに導く福音ではなかったか。その死の苦しみのゆえに、栄光と冠を授けられたのがイエス・キリストだ、とヘブライ書は言うのです。神が私たちの救いのために望まれたことであったので、御子イエス・キリストは天から私たちのところまで降りて受肉し、『数々の苦しみ』を担ってくださった。

ユダヤ教の大祭司は民の罪を贖うため至聖所に入り生贄を捧げましたが、それは完全な捧げ物ではありません。だから何度も捧げ直すということをしていました。人間の罪の報いは死だと言われます。ならばそれにふさわしい捧げ物は命でしょう。動物の命では釣り合いません。天使は受肉しないので、人の肉と血と同じものとはならない。また、普通の人間では完全に清いものではなく、罪にまみれた不完全な捧げ物になってしまう。神であり、人であり、罪のないイエス様だからこそ完全なる捧げ物となります。イエス様は大祭司として民の罪を贖うため、ご自身を捧げられたのです。イエス様以外の、他の何者も代わりにはならないのであります。

この世では混乱や不安、恐怖に落としいれる偽政者、またその側近が、命の危険のないところでふんぞり返っています。安全な高いところから見下ろして、自分の民を犠牲にし、世界に混乱や争いなどをもたらしています。イエス・キリストという王様は全く逆であります。天から降って受肉され、ご自分が先頭に立たれて進まれました。そして、ご自身を守るどころか、自身をさげすみ、ののしり、暴力を振るい、あげく殺すような人間たちの罪の贖いのために、その命を捧げてくださったお方です。更には、死んで陰府にくだり、死と悪魔に打ち勝ち滅ぼしてくださったお方なのです。この方こそ、この世の支配を任されている真の王でありながら、ご自分の民のために十字架の上でご自身を捧げ贖われた大祭司であります。

 

そのようなお方が私たちを兄弟姉妹だと言ってくださいます。私たちは主イエス・キリストを信じる信仰によって神の子と呼ばれ、兄弟姉妹と呼ばれ、助けて頂くのです。その血によって贖われたと信じる故に、イエス様から、私の兄弟姉妹と呼んでいただけます。御子が私たちと同じ肉と血を持って下さり、更にその血の贖いによって私たちも清められ、聖なるものとされたからです。

その私たちは一つの源、神から出ているものとされています。神という一つの源から出ている私たちは、神の御許に行くことになります。悪魔のところに行く道である死を、イエス様がその肉と血をもって復活して滅ぼして下さったからです。一つの源から出ている者とされた私たちは、神の元に戻るのです。

そのような驚くべき道が、十字架の死によって開かれています。その福音をないがしろにすることはできません。それを恥とするなど、その福音に無頓着であるなど、もっての他であります。主イエスが十字架の上で死なれるほどに、自らを低くして私たちを愛してくださった。それなのに私たちは、主の愛が示されている十字架の死を受けとらずにいられるでしょうか。

このコロナの時、また世界が揺れ動いているこの時、信仰のない人からみたら、十字架の死を頼りないと感じるかも知れません。それよりも他に頼るものがあるのではないか。礼拝などしているより、他にすべきことがあるのではないかなどと惑わしてくるものがたくさんあります。しかしこのような中にあっても、このお方の死、そこで流された血こそが私たちの罪の贖いに必要なこと、これこそが世界に必要なこと、主イエス・キリストこそが救い主であり、ただ一つの救いの道なのだと告白し続けたいと願います。兄弟姉妹だと呼んで下さる主は、私たちが受けている試練を全てご存知です。その身をもって、いやそれ以上の試練を受けて下さるほどに私たちを愛して下さる主だからこそ、私たちを助けることができ、お見捨てになることなどなさいません。私たちの罪の贖いのため、また永遠の命を与えるために十字架にかかり、死にて葬られ、復活なされた主イエス・キリストをこそ信じ、頼り続けたいと思います。そしてその信仰を与えられた兄弟姉妹、一つの源から出ている兄弟姉妹同士、愛し合いながら、共に神の下にあってキリストの体として連体し、この世の全ての問題に向き合って行きたいと願います。