ヨハネによる福音書18章28~38節
辻 哲子(つじ・てつこ)牧師
1,真理とは
①<真理とは何か> これはピラトが主イエスに問うた言葉です。私たちも<真理とは何か>を真剣に問うべき課題であります。
旧約聖書では真理という概念をどのように持っていたでしょう。<堅固で揺るがない支える力がある>という意味で語られています。「神は真理である」とは「神は堅固で揺るがぬ支える力である方」であり、同時に<まこと、真実、誠実>であるという意味にも使われていました。
新約聖書では真理のことをギリシャ語でアレティアと言います。<アーメン>という言葉に近い意味をもちます。<アーメン>とは<確かなこと、真実なこと>を意味します。お祈りのあとに<アーメン>と言いますが、これは<この祈りは真実です>ということと<この祈りは真実に神に聞かれる>という意味をこめて「アーメン」と唱和するのです。この意味において<真理とは何か>聖書では神の真実、神のみ言葉そのものが永久不変であることを真理であると語ります。
②世間一般では自然科学的な真理を真理といたします。また社会的にも今日も明日も永遠に変わらない姿をもった原理を真理といいます。また知的に追求し発見した原理を真理とします。
しかし、「これが真理である」と言っても悪魔的なことに用いられることがあるのです。「オウム真理教」がそうでした。「真理教」の真理に魅せられて若い人たちは、教祖麻原の命令で地下鉄サリン事件を起こしてしまいました。<真理>という名のもとに悪魔的なものに用いられる側面があることを知ります。知的探求から勝ち取る真理は<人間がいかに生きるべきか>という倫理的なものと無関係になることもあることを知らねばなりません。
2,ヨハネによる福音書では
ヨハネによる福音書では真理について「アレティア」をどのように語っているでしょう。1章17節「律法はモーセを通して与えられたが恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」と語ります。主イエスは「わたしは道であり真理であり命である。だれでもわたしによらないでは父のみもとに行くことはできない」(14章6節)と主はご自身をとおして私たちに真理を明らかにされたのです。
この真理は主イエス・キリストを中心にした真実な交わりをもつ弟子たちをお支えになりました。主は十字架を前にこの世を去らねばならぬ時に祈りの中で17章17節「真理によって彼らを聖なる者にしてください。あなたのみ言葉は真理です」と祈っておられます。「真理によって聖別してください」とはどういうことでしょう。「真理による聖別とは」「この世に属していない者として聖別した交わりの中におかせてください」弟子たちはこの世に属していますが、イエス・キリストという真理によって聖別されることです。この交わりは弟子ばかりでなくキリストの体なる教会に与えられているのです。
私たちキリスト者はこの世におかれて、この世の秩序の中で家族や法治国家の社会や制度の中に生きていますが、ここに生きながらも国籍は天にあり、神に属しています。私たちはイエス・キリストにあって聖別されて神のもの、キリストのものとされているのです。御言葉の真理によって聖別されているのです。
3,ピラトの尋問の中で
今日読みましたヨハネによる福音書18章28節以降は主イエスがピラトから尋問されますが、その中で18章36節で主イエスはピラトに「わたしの国はこの世に属していない。もしわたしの国がこの世に属していればわたしがユダヤ人に引き渡されないように部下が戦ったことだろう。しかしわたしの国はこの世に属していない」と語ります。この言葉は正しく認識することが必要です。<わたしの国>とはイエス・キリストの国です。この世に属していないのです。この言葉をピラトは理解しませんでした。
ピラトはローマ総督としてAD.27~36年ユダヤ州の総督として務めてきました。主イエスが何故死刑に訴えられているのかピラトはつかめませんでした。ユダヤ人たちがどういう罪でこの男を訴えているのか。むしろ自分たちの律法に従って裁けるとピラトはうながしたのです。ユダヤ人たちは石打の刑があるにもかかわらず「我々は人を死刑にする権限がありません」と言って、ピラトの力で主が裁かれることを望みました。
ユダヤ人たちはピラトの力で政治犯としてユダヤ人の王と名のっているということで有罪にして十字架につけたかったのです。十字架という極刑です。ところが主イエスは「わたしの国はこの世に属していない」と語りましたからピラトは判決をくだすわけにはいきません。「わたしの国(Mykingdom)」とは神の国のことです。神の国はこの世に属していません。従って主イエスはいかなる時も政治的軍事的な力をもって戦うことをしませんでした。ただ、真理である御言葉をもってこの世のあやまちを指摘し偽善をあばき神の義、神の愛を語りました。
弟子たちにも<剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる>(マタイ28:52)「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(ヨハネ18:11)父なる神のみ心にいかなる時も従いました。十字架への道は父なる神がお与えになった人類の罪を贖う道であります。
ピラトは信仰の世界にいません。真理によって聖別された世界を知りません。ピラトはこの世の権力権威ある世界しか見ていません。従って、しつこく(18:37)「それではやはり王なのか」と主イエスに問います。政治犯であることをあらためて確かめます。真理の外にいる者は底知れぬ虚無しかありません。神なき世界は虚無と不安と孤独に突き落とします。今日のロシアのプーチン大統領にその姿が見えます。行きつくところは何でしょう。
このピラトは偉そうな姿勢で主イエスを裁いていますが、やはり恐れと動揺は隠すことはできません。真理の外に立つ者は権威権力を持っていても弱いのです。歴史上の人物を見て思います。ナチス・ヒットラーは突然のポーランド攻撃後猛烈な勢いで戦力を示しましたが、最後は全くみじめでした。自害する以外ありませんでした。
4,主イエスの支える真理
(18:37)「そこでピラトが『それでは、やはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『わたしが王だとはあなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く』
主イエスの語る真理はまことの生命を与える真理です。まことの生き方を教える真理です。むずかしい勉強をして探求して知る真理とは違います。
①主のみ言葉を聞くことです。
(8:31)「イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』真理に生きることは私たちにとっては聖書のみ言葉を聞くことです。
②主の与える真理はまことの生命と自由を与えます。
主が語る真理のみ言葉を聞こうとしなければ無意味です。主はわたしたちを招いて弟子になることをすすめました。そのために主は十字架の道を歩まれました。主イエスが与える真理は、キリストによって罪から解放し本当の生命を与えます。まことの生命はイエス・キリストといつもともにいるいのちです。病める時も死ぬ時も死んでから後も主イエスと共にある生命です。聖霊の働きが真理の御霊として私たちを信仰に導き、キリストと共に生きる真理へと導きます。
受難節が3月2日灰の水曜日からはじまりました。4月17日のイースターまえまで。私たちは主の声に聞き、キリストの真理中に抱かれた弟子であることを覚えたいです。
主の声に聞く日々でありたいです。ピラトのように真理の外に立つことがありませんように。「真理に属する人は皆わたしの声を聞く」(18:37)
世界の状況が厳しい対立・不安・恐怖の中にあればあるほど<主の声を聞く>日々でありたいと思います。ウクライナの問題は人ごとではありません。十字架の主を仰ぎ無抵抗に一方的に罪を負わせられた主の声を聞きたいです。私たちは父なる神のみ心に従ってすべての人間の罪を贖われた真理の主を信じ、正しい裁きと救いと平和が来ることをより熱心に祈り続けたいと思います。