マタイによる福音書11章2~6節
空閑厚憲(くが・あつのり)牧師
御言葉を取り次ぐ前にご一緒にお祈り下さい。
イエス・キリストがその十字架により証しして下さっている神様、私共をお許し下さい。ウクライナの惨状はどんなに深く御心を傷付けている事でありましょうか、お許し下さい。
どうしてこの様な野蛮な暴力が今もってなすがままなのか私共には分かりません。
しかし今こそイエス・キリストの聖名により祈ります。戦いを止める知恵と勇気を私共にお恵み下さい。来たるべき方は既に来て下さり、戦火に追われて恐れと苦しみの中にある人々と共にいて下さることを信じます。昏迷と悲惨のこの時、イエス・キリストの導きに与らせて下さい。
この祈りをイエス・キリストの聖名により御前にお献げ致します。アーメン
ヨハネはイエス様から強く望まれたとはいえ、イエス様に洗礼を授けた人であります。
当時ユダヤ教の宗教的指導者たちは、ローマ帝国や領主ヘロデなどと同じく、社会的に弱い人々を切り捨てる社会に、何の疑問も持っていなかった様です。
このような考え方は、21世紀の今日でも、「自己責任」などという言い回しで、何の疑問も持たれないことがあります。また連日報道されるロシアのウクライナ侵攻も、国家が指揮する軍隊の行動であるならば、あれ程の暴力と人権無視が可能なのかと驚くばかりです。
2000年前のローマ帝国の様子と変わりがないと言えます。戦後77年、世界は少しは平和の道を歴史に学んだと思い込んでいた私共が、今なす術もない有様です。結局「軍事力」がものを言うという事なのかと、無力感に襲われそうになる時もあります。
力強く世直しを進めていた「義の人」ヨハネは権力者ヘロデに捕らわれ、何の力もなくなり無力感の中からイエス様に問うのでした。
「来たるべき方はあなたでしょうか」と。
ヨハネは、富と力を手にした権力者が 思いのまま振る舞うのは、神が「善し」とされていないことを時の権力者ヘロデに対してきっぱりと言い、彼の統治を糾弾しました。ヨハネはヘロデの魂の目覚めを諦めていなかったと言えましょう。勿論、命の危機は覚悟の上です。
ヨハネは正に「義」に飢え乾く人でありました。
そのヨハネがイエス様の下へ使いを出したのです。
ヨハネは、ヘロデのヘロディアとの結婚を、律法で許されていない、と反対したため、牢に捕らわれていました。(マタイ14:1-12)
マタイ11章2-5節をもう一度お読みします。
「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。』 イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。』」
このカ所は、旧約聖書イザヤ書35章5,6節及び61章1節を引用して、来たるべき方である救い主の来られた後の、新しい世界を言っています。しかし救い主が来て下さったなら、肉体や精神に障害のある人も皆 完治されると受け取るのは少し的が外れている様です。
つまり、来たるべき方 メシアを知らされると障がいも病気もその人の人生を左右する様な重大な事ではなくなるという事です。
イエス様が病や障がいを治療したという記事は新約聖書に一つもありません。
イエス様は癒しをなさったのです。
たとえ病気や障がいが完治しなくても、イエス様によって望みを与えられ、生きる力を得られたのです。これが癒しです。
イエス様の時代、社会的に力ある人や、経済的に余裕のある人は病気になっても、良い薬や腕利きの医者や、霊験あらたかな拝み屋さんにかかることが出来ました。
しかし社会の底辺で、どうにか生きて行くのが精一杯の多くの人々は、一旦病気に罹ると働けなくなり経済的にも苦しくなります。治療どころか段々と病も重くなり、生活も荒れて家庭崩壊の始まりとなるのでした。当時の社会の半分以上がこの様な経済的にヤットカットの暮らしだったそうです。福祉社会を目指す現代でも、医療格差は解決されていません。
富が数パーセントの裕福な人に偏っている社会で、イエス様はいつも病の人や、貧しく、望みを失った人々と一緒でした。そして彼らと語り合い、食事を共にし、病を癒しておられたのです。
イエス様はヨハネから遣わされた人の問いに、御自分のありのままの日々、正にこの様な人々との生活そのままをヨハネに伝えなさい、と言われたのです。ヨハネへのイエス様の答えは、宗教的教義や、人生哲学などの高邁な教えではありませんでした。イエス様の日々の暮らしそのものを伝える事でした。
ところで時の権力者ヘロデの悪事を、恐れることなく正々堂々と糾弾する程の信念と、正義感の強い人であったヨハネは、マタイ3章11、12節でイエス様のことを次の様に言っていました。
「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
この様に言い切ったヨハネが、何故改めてイエス様に「来たるべき方はあなたでしょうか?」などと言う問いを発したのでしょうか。
「来たるべき方」とは、当時ユダヤでは救い主、即ちユダヤの人々を差別や不公正から、すべて救い出し、平等で公正な社会を実現される方、という意味であります。ヨハネはイエス様こそ その方であると確信していたはずです。それではヨハネにとって分かりきっている事をなぜ聞きに行かせたのでしょうか。
その理由は記してありません。
牢獄などの狭い所に長く囚われていると、特別な心理状態に陥ることがあることはよく聞くことです。その様な状況がヨハネにも起きていたのでしょうか。ヨハネは、この時は囚われの身であっても、決して少なくはない人々が、ヨハネのそれまでの活動に賛同し、ヨハネの弟子として、一つのグループが出来ていました。
ヨハネは、自分がこの世を去った後の、彼らのことを心配し、弟子たちが従うべき師を、彼ら自身に悟らせるため、イエス様のところに主(おも)だった弟子を遣わしたのだ、という推察もされています。ヨハネのグループが、当時のユダヤ社会にどれほどの影響力を持っていたかは定かではありませんが、ヨハネが一つのグループのリーダーとして、残される弟子を心配することは容易に想像できます。
また、ヨハネといえども、私共と同じ人間です。
到底命の助かる望みはなく、死を待つばかりの時を過ごす内に、自分が一番信頼し、いつの日か、イスラエルに神の御旨が実現することを共に追い求めていたイエス様に対しての確信に、揺らぎが生じて来たのかも知れません。
「何故早く世直しの活動を始めて下さらないのか!」と。
しかしもしそうであったならば、当のイエス様に「今まで通りあなたを信じていていいのでしょうか」と尋ねるでしょうか。イエス様ご自身に関することを、当の本人のイエス様に尋ねても、客観的な返答が期待できるでしょうか。
もしヨハネが、本当にイエス様が来たるべき人かどうか疑っていたのなら、イエス様に直接聞かずに第三者に聞くのではないでしょうか?
するとこの問いは、ヨハネのイエス様への絶大な信頼の現われと言えるかも知れません。
その信頼とは「イエス様は本当の事を答えて下さる方である」と言う信頼です。
もし自分が迷いや不安や疑いの中にいたとしても、イエス様は真実を知らせて下さるという信頼です。
ところで、今ウクライナの痛ましい惨状を引き起こした原因の一つでもあり、日々それを激化させているのは信頼出来ない情報です。総ての情報への疑いと不信です。情報システムの急速な進歩とは逆に情報の信頼は揺るぎ出しています。
ヨハネはこの時、「イエス様、私は今あなたへの信頼を失いそうです。迷っています。不安です」と正直に訴えているのです。
ヨハネは以前からナザレの人イエス様こそ救い主であり、自分が出来なかったことを完成して下さる方であることを確信させられていました。しかしこの時、その確信が揺らぎ始めていたのです。いつも貧しい人や病気の人と一緒にいるだけにしか見えないイエス様のやり方では、その意図が分からなくなったのかも知れません
「弱い人、貧しい人々と一緒にいるだけでは世の中は変わらないのではないか。獄中に届くイエス様のやり方で、一体いつこの不正と矛盾に満ちた世に救いが実現するというのか。自分は今、命を懸けて横暴な権力を正そうとしている。
イエス様も権力者に対する行動を起こす時ではないのか!」という思いが生じても不思議ではありません。
所でヨハネは、イエス様に問うた「ほかの方を待たなければなりませんか」という問いの答を得たのでしょうか。それは答えと言う様なものではなく、深い感謝と平安であったはずです。
もう待つ必要はない。すべての人々にこの方、ナザレの人、イエス様が生きられた生き方、語られた言葉に導かれて生きる道が与えられた。
ヨハネは死を前にして、はっきりとこのことを悟らされたのです。
それまではユダヤの人々だけでなく、人間という存在自体が、どこに向かって生きて行けばよいのか分からなかったのです。
しかし今、イエス様が、人間が向かうべき方向をはっきりと示して下さったのです。
それがマタイ福音書11章5節6節です。
お読みします。
「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
わたしにつまずかない人は幸いである。」
確かにヨハネにとって、イエス様の生き方は、彼の描いていた救い主 キリスト像とずれて来たように思えました。ですから彼は今「死」の予感の中で、はっきりと神様の救いの業とはどういうものかを示して欲しかったのです。
それが示されなければ、ヨハネは自分のして来た事は何だったのかという大きな不安に陥りそうだったでしょう。その不安の中で死を待つだけだったヨハネは、この最後の切実な問いを、ほかの誰でもない イエス様に問うたのです。
そしてイエス様は、はっきりと示して下さいました。
今お読みした11章5節、6節は、奇跡を強調しているのではなく、むしろ奇跡によって、権力者や富める人々が今まで見ようとしなかった人々に光を当てたと言えましょう。
あなた方の近くにこんなに苦しんでいる人々がいる現実を直視して下さい、と言う声が聞こえそうです。
つまりイエス様は、神様の救いとは このような人々との関わりの中で、この様な人々と一緒に生きられる、正にインマヌエルなる方によって実現されるのだと証しされたのです。
聖書にはこの答えを恵まれたヨハネについては、何も記してありません。
しかしもしヨハネがこの返事に望みをなくし、疑いを持ったなら、この逸話は残らなかったでしょう。ヨハネは、このイエス様からの伝言を聞いた時、すべての疑いや迷いが奪われたのです。只あるのは、深い感謝と平安でした。
そして獄につながれ、死を待つだけの、まことに無力な者となった私に、はっきりとイエス様による救いの恵みを知らせて下さったのだ。
ありがとうございます、とイエス様の聖名によって神を賛美せざるを得なかったでしょう。
そして気付いたことでしょう。
今では最も弱い者の一人である私ヨハネのすぐ側にイエス様はいて下さり、一緒に祈って下さっている事を、です。
そして最後にイエス様は、感極まった様に言われているのです。
「私につまずかない者は幸いである」と。
この言葉は、感嘆のニュアンスを含んでいます。
「あぁ、何と幸いなことか。私につまずかない者は!」という言葉で、ヨハネを心から祝福されているのです。
「ヨハネよ、あなたは幸いだ、私につまずく事がない様に私はあなたをいつも祝福している。だからあなたはこの私に問うた。」
ヨハネは、彼の人生最後の最大の問いをイエス様に問うたのです。
しかしこの事は決してヨハネの信仰心の強さ、正しさの結果ではありません。
イエス様によってもたらされた祝福そのものであります。
私共もまた、イエス様に従いたいと願いつつも、現実を見ると もっと効果的で力ある生き方に惹かれることが度々です。
まさにウクライナの惨状を目の当たりにして、国家のリーダーになる際には、世界共通の適性テストが必要だ、とか平和教育の充実と義務化や兵器産業への重税と透明性の必要性、そしてやはり軍事力増強だ、とか、はたまた核抑止力は必要だ、と言い出す人が増えて行くかも知れません。
しかしそんな中で、イエス様を知らされた私共はイエス様に問い、イエス様が明言された生き方に立ち返ることを許されている恵みを感謝せざるを得ません。
不肖の弟子ペトロへイエス様は「私はあなたの為に信仰が無くならない様に祈った」と言って下さっています。
私共は、そして人類は、私共が祈る前にいつもイエス様によって祈られているのです。
何と有難いことでしょう。
疑い、迷いの多い昨今でありますが「分かりません。御導き下さい」と首を垂れ、イエス様に問い続ける人生を歩ませて頂きたいと願います。
お祈り致します。
イエス・キリストの父なる神様、聖名を崇め、感謝致します。
私共が祈る前に、イエス様が祈って下さっている事、勿体なくもありがとうございます。
私共はもう待つ事はありません。たとえ現実がどの様に絶望的であっても、来たるべき方 イエス様が常に私共を導いて下さっています。
今、この時、レントの苦しみの中でイエス様が、ウクライナの人々の苦しみを共にして下さり、支えて下さっている事を信じます。
この祈りを、主イエス・キリストの聖名により御前にお献げ致します。アーメン