礼拝説教要旨「一粒の麦が地に落ちて死んで」(2022年3月27日)

イザヤ書53章6~12節

ヨハネによる福音書12章20~26節

三吉 明(みよし・あき)牧師

①一粒の麦のたとえ。主イエスは何故ご自身の死と復活を自然の表象を用いて語ったのか。(パウロも用いたのは主イエスに倣ったか。Ⅰコリント15:35)

私は素朴に主イエスの成長生活(少年時代)、働き食べ人間であること又人々とのつながり(共通性)宣教が死と死を超えた未来=復活までこの麦のたとえで表せたからだと思う。

②大麦(貧しい者、家畜)にしろ、小麦(富んだ者、商売用)にしろ、どちらも聴く者に身近なものであった。まくこと・かること・たべること心配することも含め貧にあっても富にあっても苦楽あわせ生きる意味がこの麦のたとえに言い表されている。

③一方今日救いを精神論でとらえようとする現代人にとっては他のことはともかく十字架の死と復活に麦のたねまきと実りがあてはまるかと疑問も残る。自然科学の知恵と観察は蒔く→発芽は死ではない。まかれることはは死ぬことではない。連続性がある。むしろ復活は非連続ではないのか。実ることも復活とはいえない? モルトマンは言う。むしろこの連続性こそ神がおこして下さる奇跡的なこととして人間の経験・人間の生活の事柄を神のことにあてはめ類推してよい。私たちも一粒のままではない。主と共に死んで主と共に復活する(連続性)。私も自己を捨てて自己への固執や自己保存の限界を破って主に仕えるものとなる。(27節以下ヨハネにおけるゲッセマネに続く戒めには、それ故にきびしさがある。)現実生活(体のこと)にせよ内面の霊的なことにせよ、主イエスの言と神のみ旨に自分をあてはめない所に信仰の発芽はない。信仰生活の光も土台も揺らいでくる。

④麦のたとえを語られたのはギリシャ人の来訪によると聖書は記している。二人の弟子を介して出会いはていねいに語られる。イエスはすぐに〈栄光を受ける時が来た〉と言う。この〈時〉はいつのことか。ギリシャ人が来たこと自体か、これからおこる十字架と復活か。おそらくこの異邦人の庭でのめだたない出来事は主イエスにとって大切な神の時の始まりの受認であった。28節以下ではゲッセマネの祈りのような苦しみがあり、天からの声が〈再び栄光をあらわそう〉と告げる。二度の栄光が何をさすのかはいくつか考えられる。(17章も参考に)

この天の声を主はあなたがたのためだと言う。(異邦人伝道はすでにここに始まっている。)

私たちも主の体のいただく栄光にやがてあずかる(フィリピ3:21)。

⑤イザヤ書53章苦難のしもべ。私たちの罪のため打たれ苦しみ、とりなしつつ死ぬ。ここに旧約なりの復活=死を超える未来がある。彼は自らが死んだその実りを見る。それを知って満足すると。このような僕の死をわたしがゆるされいやされることに代えて受けとって本当によいのだろうか。そうしなければ生きていけない程今日も神の前に人間という生きものの罪は重い。歴史はくり返すものなのか。神の新創造は全被造物の喜びへとむかっているのに。ウクライナの現実はロシア、あるいはプーチン個人の逸脱か。それに至る敵対勢力、累積する歴史の負のスパイラルか。日々死んでゆく=殺されてゆく命、土にうずめられる遺体、これらも命の種であろうか。我らの罪を負う失われた命がキリストの栄光と愛の力のもとで贖われ全く新しい平和が来るように。しかし神よ、真の一粒の麦は御一人子、主イエスのみ。戦う双方を憐れみたまえ。私たちの小さな信仰を用いたまえ。主よどうぞこの世界を憐れみたまえ。キリエ・アーメン