5月8日礼拝説教「おかあさんありがとう」

聖書 サムエル記上1章9~20節、マルコによる福音書7章8~13節

母の日は教会から始まった

今日は母の日です。教会が母の日を記念して子どもたちと一緒に礼拝するのは、母の日が教会から始まったからです。巷で行われている母の日はお母さんに感謝して何かプレゼントをする日として定着しました。一般の人たちは「教会でも母の日を祝うんだ」と思っていることでしょう。今日はそんな人たちのために、教会が祝う母の日について思いを新たにしたいと願います。

最初の母の日

母の日は今から約110年前の1907年5月の第2日曜日にアメリカで行われた教会学校の先生アン・ジャービスさんの追悼記念会がきっかけで始まりました。アンさんは長年教会学校の先生をしていて、かつて生徒だった人が記念会を催し、その会には470人もの人が集まったそうです。その記念会にアンさんの娘のアンナさんも参加して、お母さんが好きだったカーネーションを捧げ感謝の気持ちを表しました。そのことに心を動かされた人たちが毎年5月の第2日曜日にお母さんにカーネーションを贈って感謝を表すようになりました。

アン先生は20歳で牧師と結婚し、教会学校で奉仕する傍ら社会活動家としても活躍しました。26歳の時に病気で苦しんでいる人たちを助けるための募金活動や公衆衛生活動をおこないました。29歳の時にアメリカを二分する南北戦争が始まると、アン先生は仲間たちと共に南北双方の負傷兵を看病し、戦争が終わりに近づくと、お互いに敵意を持つことを止めさせようという活動をしました。

教会学校では生徒たちに神さまのことを語り、仲直りして仲良く暮らすことが大切だと教えていました。アン先生は10人の子どものうち8人を戦争や病気で失いましたが、アン先生にとっては教会学校の子どもたちが自分の子どもだと思って、神さまのことを話していたに違いありません。

神のメッセンジャーとしての母と父

神さまのことを子どもたちに語るというのは母や父の大きな務めです。聖書の教えでは、それこそが親の務めです。例えば先ほど交読した詩編34編のように、神を讃えることを教えたことでしょう。
「どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」(詩34:2)という言葉を聞けば私たちには主なる神がいてくださり、私たちはそのお方を賛美するのだということがわかります。
また、「主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱(はずかし)めに顔を伏せることはない」(詩34:6)という言葉を聞けば、どのように屈辱的な事に出会っても主を仰ぎ見て雄々しく生きていくことができることを知るでしょう。

サムエル記上に書かれているサムエルの母ハンナの祈りは、もし男の子が授かったらその子を主なる神に献げるというものでした。この祈りが痛切であることはきっと男性よりも女性のほうが感じるのではないかと思います。せっかく授かった子は乳離れしたら再び自分の元からいなくなってしまうのです。それでもハンナは熱心に祈りました。ハンナは子どもが欲しいということを超えて、神様の御用を果たす子どもを授けて欲しいと願ったのです。

このハンナの祈りに「あなたの父母を敬え」という十戒の第五戒の戒めの意味が明らかになっています。十戒は第一戒から第四戒までが神に関する戒めで、第六戒から第十戒までが隣人に対する戒めで、その間の第五戒に「あなたの父母を敬え」(出20:12、申5:16)という戒めが書かれています。神と人とをつなぐ位置に「あなたの父母を敬え」という戒めがあることは、母が、そして父が神さまのことを伝える役割を持っていることを示しています。

母の日のきっかけとなったアン先生は見事にこの役割を果たしていたのです。きっと本人にもその自覚があったことだと思います。昔、教会学校の生徒でアン先生から神さまのお話を聞いた人々はアン先生の実の子どもではなかったけれど、アン先生から神さまのことを聞き、友達と仲良くすることを教えられて成長したことだと思います。その人たちがその後、どのような人生を歩んだとしてもアン先生から教えてもらった神さまのことは忘れなかったことでしょう。

愛は犠牲を引き受ける

親は子どもを愛しています。子を愛さない親はいません。ただ、子どもは親の言うことを素直に聞くロボットのような存在ではなく、親が子どもに合わせなければなりません。しかし子どもが親の思うようにしないことに腹を立て、我慢できない親が子どもを虐待し社会問題になっていることに心を痛めます。しつけと称して食べ物を与えなかったり、言うことを聞かなければ冷水を浴びせるなどというのは、神さまから与えられた一番大事な務めを親が知らないからです。

愛は犠牲を引き受けることを知らなければなりません。愛するがゆえに自ら犠牲を引き受けるのです。それはイエス様の十字架に端的に現れています。イエス様は茨の冠をかぶせられ十字架を担いでカルバリの丘を登られました。屠られる羊のように、ただ黙々と十字架への道を歩まれました。

このイエス様が示された愛を子どもに示すことが親の務めであります。そして親にはそれが出来るだけの力と意志が与えられている。愛するがゆえに我慢し忍耐することができるはずなのです。それなのに自分の都合が優先してしまうと、子どもが言うことを聞かないと思ってしまい、この子は親を愛していないと思うようになってしまいます。愛されない子どもは愛することができません。愛することを知らないからです。子どもを愛するとは子どもを自分の思い通りにすることではなく、子どものために自分のしたいことを我慢して後回しにする、そういった犠牲を引き受けることです。これこそが神の愛を行動で子どもに教えることです。

子が母を蔑ろにするのは神を蔑ろにすること

一方で、イエス様の時代に子どもが親を虐待するということがあったようです。先ほど読まれたマルコによる福音書7章11節には「コルバン」という言葉が記されています。これは神への供え物という意味ですが、人があるものを普通だったら用いるものに使わないようにするとき、そうかといって神殿に奉納するわけでもない場合に「コルバン」と唱えたそうです。イエス様の示された例は、極端な飢餓状態で起きたことではなく、子どもが傲慢になって親をないがしろにしている例です。

イエス様はモーセの十戒と人間が作った伝統のどちらが勝るかと問うているのではなく、神の戒めである十戒に人は無条件で従わなければならないのに、従っていないのは神を軽んじているのだと叱責されています。これは母や父を敬うことは十戒を守ることであり、それは神を敬うことである、ということを示しています。

母の日を覚えて礼拝するのは務めを再確認すること

私たちはキリストの証人として子や孫に主なる神を語り継いでいきましょう。詩編に詠われている神への感謝や賛美、苦しい時の叫びなどを教えてあげましょう。イエス様の犠牲の愛、無償の愛を伝えましょう。そうすることが親の務めです。「母の日」を覚えて礼拝するのは、このことを心に留めるためであります。子どもや孫はそのような母を、父を、尊敬し大切にしてくれます。

アーメン