聖書 出エジプト記19章1~6節、ヨハネによる福音書15章1~11節
まことのぶどうの木
今日の御言葉は5月1日の礼拝で聞いた「私が良い羊飼いである」の御言葉と同様に、イエス様がご自分を私たちに明らかにした言葉です。「私がまことのぶどうの木である」というイエス様の言葉は、「世の中にいろいろと私たちの人生を豊かにしてくれるものがあるように思うかもしれないけれど、私から人生の栄養をもらわなければ豊かな人生は得られません」ということを私たちに伝えています。
豊かな人生とはこの世的に言って、お金に不自由せず、健康でいて、自由気ままに暮らすことでしょうか。これは多くの人のあこがれではないかと思います。例えば大きな屋敷に住み、女中さんや料理人や執事がいて、煩わしいことは皆、その人たちがしてくれる。自分は好きな趣味や気の合う仲間と極上の時を過ごす。などという生活を想像するといかにも幸せな人生のように思えます。それは人生の成功者のイメージがあります。
しかしそのような生活は決して豊かな人生ではありません。なぜかと言いますと、それは生きている実感といいますか、存在感が希薄だからです。今日は健康で楽しかったけれども、明日はどうなるか分からないという、不安を抱えながら生きているのです。どんなに蓄えを持とうとも、寿命を延ばすことも、健康を維持することもできません。根本的な不安を持っていながら、それを考えることをしないようにしているだけなのです。それは見せかけの豊かな人生です。
豊かな人生の源
イエス様は「私がまことのぶどうの木である」と言われて、私たちに啓示を与えてくださいました。豊かな人生の源は神から来る、そしてイエス様につながっていることでその源が維持されます。この個所には「つながっていなさい」とか「つながっていなければ」というイエス様の言葉が何度も出てまいります。枝は自分自身では成長することができません。それは私たちが良く知っていることです。しかし私たちは自分が枝だとは思っていません。自分自身で努力すれば豊かな実をつけることができるし、そうしなければならないと思っています。存在感の希薄さはこの考えにも現れています。努力しなければ豊かな人生を送ることはできないと信じている。しかも先に書いたような見せかけの豊かさを求めようとしている。それはそうです。日本ではイエス様の教えを信じる人は1%にも満たないのですから、他に頼るものと言ったら財産や健康や親戚・友人というその人にとって身近なものになってしまいます。
5節にある「豊かに実を結ぶ」というのはいつか訪れる未来ということではありません。イエス様の言葉を信じて生きるならば、私たちは今日から豊かに実を結ぶ人生、すなわち豊かな人生を送ることができます。私たちの存在を支えてくださる神がおられることを知るからです。私たちが存在していること自体に価値があることを知るからであります。
存在の重さ
詩人のまどみちおさんの詩に「ぼくが ここに」という詩があります。この詩には存在の重さが小さな子にもわかる言葉で綴られています。「ここに私がいればこの場所には他の何ものもいることはできない」、という当たり前のこと、当たり前すぎて気にも留めないことをまどみちおさんは驚きのこととして詩に表現しています。
しかし現代であれば、「邪魔だ、どけ」と無理やり居場所を奪われることから、この詩に込められた存在の重さを実感することができないくなっているように感じます。まどみとおさんが感じた存在の重さはどこかにいってしまったかのようです。それは、この詩には私たちを造られた父なる神の存在が隠れているからではないかと私は思います。それでもこの詩に込められている存在の重さは変わることはありません。
本日読まれた出エジプト記の中で、神がモーセに語られた言葉に「私の言葉に聞き従い、私の契約を守るならば、あなた達は私の宝となる。あなたたちは聖なる国民になる」という言葉があります。神の言葉に聞き従うこと、それは最も大切な戒めとしてイエス様が教えてくださった「神を愛し、隣人を愛する」ことを守ることですが、そうする人を神さまは宝としてくださいます。「聖なる国民になる」とは「私たちが清められる」ということです。
戻りまして、先ほどのヨハネによる福音書15章3節にはイエス様が「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」と私たちに告げた言葉が記録されています。イエス様の言葉によって私たちは清められ聖なるものとなることが明かされています。
清められるということは心の中の雑念が取り払われることです。神を知らない人たちが追い求めるもの、それは財産や健康といったものですけれども、それにあこがれを持つことは、心の中に雑念が入っていることです。それを罪が入ってくると言ってもいいでしょう。
私たちはいわゆるこの世的に成功している人の話を聞いたり、テレビで紹介されているのを見たりしますが、それは華やかな面だけを語っているに過ぎないことを想像する力をいただかなければなりません。それはイエス様から来ます。イエス様の周りには神の平和が実現し、見せかけの平和が打ち壊されていました。イエス様は力で私たちを支配するのではなく、愛によって私たちの良心を目覚めさせてくださいます。
み言葉によって養われる人生が豊かな人生
豊かな人生とはお金にも健康にも心配なく、好きなことをする人生ではありません。人は生きている実感を感じなければ豊かな人生を過ごしているとは言えません。もし人が生きている実感、存在感を感じるならば、70歳,80歳,90歳になっても充実した人生を送ることができます。
イエス様は「私がまことのぶどうの木」と言われます。イエス様を通して存在の根源から命の源をいただく、すなわち御言葉によって養われることによって、私たちは自分の存在が確実であり、生きていることに喜びを感じることができるようになります。イエス様につながって与えられる豊かな人生はすでに今日始まっています。
アーメン