5月22日礼拝説教「真理の霊」

聖書 創世記18章23~33節、ヨハネによる福音書16章12~15節

悪を裁くとは

いまから30年程前に人気となった映画バックトゥザフューチャーのパート2が上映されました。この映画に描かれた世界は悪が栄えている世界でした。ビフ・タネンという男が過去の試合結果を記録したスポーツ年鑑をデロリアンという車タイプのタイムマシンで過去に持ち帰り、スポーツギャンブルで大儲けして、悪の帝国を築き、そこの帝王として君臨し、その町は犯罪だらけという世界でした。映画では主人公のマーティという青年とデロリアンを発明したドクという老人の活躍で、元の平和な普通の世界に戻り一件落着となりました。
これは娯楽映画ですから見ている人をハラハラさせて最後には安心させるものでしたが、もし現実にそのような悪の町が出現したならば、主なる神は裁きを行われるでしょう。ここで私たちに突き付けられる問題はその裁きとはどのようなものであるのかということです。現実に目を向ければ世界中で悪がおこなわれています。私たちの正義は悪を滅ぼせというものになりかねません。主なる神はどのように正義を貫かれるのか聖書に聞いてまいりたいと思います。

悪の町にいる神を信じる人々は救われるか

聖書の中で悪がおこなわれている町として登場するのは本日読まれた創世記18章に出てくるソドムという名の町です。「ソドムの罪は非常い重い」(創世記18章20節)という言葉が記されていますから、滅ぼされても仕方がないような悪がおこなわれていた町であったのだと思います。主はソドムを滅ぼすことを裁きとしておられました。
ここでのアブラハムの問いは現代の私たちにも大いに関係がある問いです。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。」
主は義を貫くためにソドムを滅ぼそうとなさっている。しかしそこには少数ですが主を信じる正しい者たちがいる。町を滅ぼすということは、その人たちも滅ぼすということになります。主がその義を全うしようとすれば、少数ではあっても正しい者たちを滅ぼすことになります。
私たちが考える正義は悪を滅ぼすことではないかと思います。少数の正しい人がいたとしても社会全体を考えれば、その人たちが滅ぼされることは仕方がないことだという考えもあります。悪が滅ぼされたら神の国が実現するという考えは魅力的です。その少数の正しい者が自分でなければ仕方がないと思ってしまう心が私たちの中にはあるのではないかと思うのです。
ですからアブラハムの問い「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。」は私たちの持っている正義にも向けられていると思います。

アブラハムは主に問います。「あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」と。
それに対して主は「50人の正しい者がいるならば、その者たちのために町全部を赦そう」と答えました。
アブラハムはその答えで満足することなく、主に問うことを止めませんでした。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。」と主にへりくだりながら、45人、40人と正しい者の数を減らしていき、遂に正しい者が10人しかいなくても町を滅ぼさないという答えをもらいました。10人いれば町は滅ぼされません。

さてアブラハムと主とのやりとりはここで終わりですが、ここで一つの疑問が残ります。9人以下だと主を信じる正しい人がいても、町はその人たちもろとも滅ぼされてしまうのでしょうか。この個所にはそのことは書かれていませんから何とも言えませんが、聖書全体を通してみると、次のような御言葉に出会います。

イザヤ書53章の「苦難の僕」のところです。軽蔑され捨てられた<僕>は私たちの病を担い、私たちの痛みを負っていました。彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの咎のために砕かれました。彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされました。
またヨハネによる福音書3章16節には「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という言葉が記されています。このように聖書全体通して確認すると、主を信じる者は一人も滅ぼされないことが分ります。迷い出た1匹の羊の譬えもそうです。

ただし主はご自分に背く悪い者をお赦しになることはありません。主は人を愛し祝福されているからこそ、人が悪の道を歩むことを良しとはされません。その裁きは生きている間だけでなく死んだ後も続きます。滅ぼされて終わりではなく、ちょうどルカによる福音書16章に出てくる金持ちとラザロの譬えで、金持ちは死んだ後に陰府でさいなまれていたと書かれているように裁きは終わりません。どこまでも裁きは続き、それによってご自分に立ち帰るようになさいます。

真理の霊

本日読まれたヨハネによる福音書16章の12節から15節には真理の霊、すなわち聖霊が来ることが語られています。私たちはすでに聖霊を降していただき、私たちは神の宮としていただきました。正しい者は滅ぼされないということを悟らせてくださったのはこの真理の霊です。

真理の霊は私たちを導いて真理をすべて悟らせてくださいます。そのために必要なことは神学書を読み聖書を研究することではありません。ただ一つ、聖書を読み、黙想し、祈ることです。祈りには一人での祈りと共同での祈りがあります。そして聖書は聖書が説き明かします。つまり旧約聖書39巻、新約聖書27巻のそれぞれの御言葉が響きあって私たちに真理を明らかにするのです。聖書は主の恵みを語り、主の義を示し、私たちの進むべき道を指し示しています。

真理の霊は自分の言葉を語るのではなく、父なる神が持っておられるものを語るのです。そしてそれはすべて御子なるキリスト・イエス様が語る言葉です。このことは父なる神と御子なるキリストと真理の霊である聖霊は一つであることを示しています。その御心はまったく同じなのです。

更に言えば、もし私たちが受けたことを、それに加えることも引くこともなく人に伝えるならば、私たちは神の言葉を語っていると言うことができます。ただし、これには難しい面があります。それは私たちが高ぶって神の言葉を伝えるという意識であれば、語る言葉は人の言葉になってしまうからです。アブラハムは主の前で自分のことを「塵あくたにすぎないわたしです」と言って、主にへりくだって話していました。私たちもそのようでありたいと思います。

バックトゥザフューチャーのような勧善懲悪は映画やテレビドラマの世界であって、私たちが住む現実の世界では、主なる神が働いておられて、主は義をまっとうされますが、裁きの時を忍耐を持って延ばし、私たちに働きかけておられます。

主は悪を終わらせるために神を信じる正しい者を犠牲にすることをなさいません。そればかりか正しい者だけでなく神に背く悪い者をも救うために主なる神は御子をこの世に遣わし、御子を贖いのために犠牲となさいました。

神の言葉の宣言

真理の霊なる聖霊は私たちにイエス様の言葉であり父なる神の言葉を私たちに告げ、悟らせてくださいます。私たちは地上からイエス様がいなくなった今でも真理の霊が語る言葉によってイエス様を想い起こし、イエス様に倣おうとする心を新しくしてもらっています。真理の霊が語る言葉は聖書に書かれている文字を神の言葉として私たちに悟らせてくださいます。私たちは聖書の御言葉を読み、黙想し、祈ることで、真理の霊なる聖霊から主なる神の言葉をいただくことができるのです。