5月29日礼拝説教「キリストの昇天」

牧師就任式準備の苦労と喜び

本日は午後に土気あすみが丘教会の牧師就任式があります。私はこの教会の第七代の牧師として4月から職務をおこなっていますけれど、この就任式において日本基督教団の規則に則って近隣の教会の関係者の皆さまにお集まりいただき、牧師に就任することを公にしていただきます。

この準備のために多くの方々が参加して、それぞれの持ち場で準備をしてくださいました。会堂の清掃や庭の整備、案内状の発送と回答の確認、お越しいただく人々への記念品の準備などいろいろなことが行われました。きっと来場される方々は清潔な会堂や行き届いた応対を喜んでくださることだと思います。

準備をするというのはいろいろと大変です。皆で手分けして行うので、その段取りをきちんと考え、必要なものを事前に用意するなど多くの手間がかかります。それをマルタの会(教会に集う女性の会(希望者は誰でも入会))や壮年会の人たちが進んで行ってくださいました。いわば全員で準備した牧師就任式であります。私には皆さん喜んで準備をしている様子が目に映りました。私も小さな働きですが担わせていただきました。

イエス様は復活後40日間、弟子たちに現れて、弟子たちを勇気づけた後、天に昇られました。イエス様は私たちのために場所を用意しに行くと言われました。これはヨハネによる福音書の14章に記されています。イエス様が天に昇られたのはいくつかの理由がありますが、その一つが私たちを神の国に迎えるための準備でした。けっして地上での任務を終えたので、人々を置いて天の父の御許に帰られたというのではありません。

イエス様の祈り

ヨハネによる福音書17章にはイエス様の長い祈りが記されています。本日はその内の1節から13節を聞きました。1節に「イエス様はこれらのことを話してから」と書かれています。これらのこととは14章から16章のイエス様の言葉を指しています。簡単に振り返りますと、イエス様は次のようなことを話されました。

イエス様は父なる神に至る道であるということ、弁護者を与えるという約束、ぶどうの木の譬え、迫害の予告、聖霊のこと、私たちの悲しみが喜びに変わるということ、イエス様は既に世に勝っている、ということです。これらの話はイエス様が十字架の死、復活、そして昇天して弟子の前からいなくなることを前提として語られています。いわば惜別の言葉でした。

17章のイエス様の祈りの最初は「父よ、時が来ました」というものでした。私たちは教会暦の復活節を過ごしていますけれど、ルカによる福音書の24章に書かれているエマオへ向かう弟子たちにイエス様が現れて、イエス様ご自身がご自分を明かされたように、今、私たちも本日の御言葉を通して、イエス様が地上を歩まれた時のことを思い出しています。

「父よ、時が来ました」。この言葉はいよいよイエス様の受難が始まることを私たちに思い起こさせます。

その後の祈りはこうです。「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」。イエス様は父なる神の栄光を現わすために十字架の道を歩まれようとしています。そのことはむごい出来事で、私たちは神の御子がそのような苦難を受けなくても、この世界を神の国にしてくださることを期待するのですが、その期待を完全に裏切って、イエス様は人を救うために十字架にお架かりになられるのです。しかし神の栄光はイエス様の十字架の死を超えて、復活と昇天の出来事へと続くのです。

2節に「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。」という言葉がありますが、原典では「支配する」という言葉はありません。直訳すると「あなたは子にすべての人に対する権威を与えました」となります。つまりイエス様は私たちに対して権威を持っておられるということです。支配という言葉に敏感な方(かた)がおられるかもしれませんので説明いたしました。

2節には「永遠の命」という言葉が記されています。私たちは永遠の命と聞くと<永遠に生る>という風に理解しがちですが、イエス様の祈りにある永遠の命は私たちの地上での生き死にを超えています。永遠の命とは、「まことの神と、その神が遣わされたイエス様を知ること」です。イエス様の言葉を信じる時、私たちには永遠の命である神と共にいる神の国がわかるようになってくるのであります。

4節と5節はイエス様が父なる神から与えられた業、すなわち地上で神の国を宣べ伝え、神がおられることを示す奇跡の業を行われたことが記されています。特に病気や貧しい人々に神が共におられることを説いて、奇跡をおこなわれたことは私たちが聖書を通して良く知っていることです。

6節から10節にはイエス様と父なる神とがひとつであることが明かされています。「御名を表す」という表現は<神を明らかにする>ということです。名前を呼ぶという行為は相手を具体的に知っているからできることです。何だかわからない漠然としたものに祈り、それを畏れ敬うというのではなく、<出エジプトの民を奴隷の束縛から救い出し、私たちをそれぞれの束縛から救い出してくださる主なる神>に祈り、そのお方を恐れ敬うということを意味します。イエス様によって神は私たちの父であること、そのお方に祈ることができるのです。私たちは、祈りの初めに「天におられる私たちの父よ」と親しく呼びかけることができるようになりました。

私たちを神の国に迎えるために天に昇られた主

11節から13節にはイエス様が天に昇られて、父なる神の御許に行くにあたって、残していく弟子たちや私たちのことを祈ってくださったことが記されています。イエス様が地上におられる間はイエス様がお名前によって弟子たちを守っていました。そして天に昇られるにあたって父なる神に、弟子たちを守ってくださいとお願いしました。イエス様は地上からいなくなっても父にお願いして私たちを守ってくださいます。

イエス様は私たちのために神の国に私たちの場所を用意してくださいます。それがどのくらい大変なことなのかを想像することはできないのですが、、少なくとも父なる神の右にあぐらをかいて気楽にされているのではなく、この世界を神の国にするためにお働きになっておられることを想像することはできます。

イザヤ書45章の御言葉と響きあうイエス様の祈り

イザヤ書45章はユダヤの民が国を滅ぼされて故郷から遠く離れたバビロニア王国で捕囚として暮らすことを余儀なくされていた頃に語られたお告げです。夢も希望もないけれど死ぬこともできないといった人生を送っている人々に、バビロニア王国の隣国であるペルシア王国の王キュロスが解放してくれる人として立ち現れることを神の言葉として告げています。

ユダヤ人の神として認められていた主が、実は世界の創造者であり、世界を治めておられることを示すために、ペルシア王を用いてユダヤの民を解放するという託宣です。

この中にヨハネ福音書のイエス様の祈りに出てくる言葉が記されています。ひとつは3節、5節、6節に記されている「私が主」という言葉です。これはヨハネ福音書17章3節の「唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリスト」という言葉と響きあっています。私たちを守ってくださるお方は世界を治めておられる権威ある神ですから、このお守りは盤石です。けっして揺るぎません。苦しい時には祈り求めてください。主なる神は必ず私たちには想像することもできない方法で私たちを救ってくださいます。

もう一つは、イザヤ書45章2~3節の「わたしはあなたの前を行き、山々を平らにし、青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り、暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。」という言葉です。これはヨハネによる福音書17章11節の「彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。」という言葉と響き合います。イエス様は私たちを迎える用意をするために天に昇られ先に神の国に帰られました。イエス様は私たちの前を行かれます。私たちはイエス様の後ろをついて行けば神の国に行くことができるのです。

イエス様が天に昇られた理由は他にもありますが、本日の御言葉から私たちが知り得たのは、イエス様は決して私たちを見捨てて天に昇られたのではなく、私たちのために準備をされているのだということであり、ご自分がいなくなった後も私たちを守ってくださるということです。

主の祝福

本日の土気あすみが丘教会の第七代牧師の就任式は主なる神がこの教会を祝福して下さり、守ってくださることを確信し、公にそのことを言い表す時であります。私たちはイエス様が私たちを、神の権威によって、守ってくださることを信じて、これからも礼拝に参加し、信仰生活を続けていきたいと思います。