私たちの存在の謎
先週6月7日の新聞に、探査機はやぶさ2が小惑星りゅうぐうから持ち帰った試料の中に水やアミノ酸が見つかったという記事がありました。この発見は生命の起源を知りたいと思う探求心を喜ばせました。アミノ酸は人間や動物の体にあるたんぱく質を作っている基本的な材料です。
しかしながら小惑星にアミノ酸がどのようにしてできたのかはいまだ謎です。またアミノ酸が人間の体を構成する要素であっても、それらからどのようにして生命が生まれたのかは依然として謎のままです。更にはその発見が私たちの人生にどう関係してくるかは皆目わかりません。
結局、私たちがどのような存在であるかはこの発見によっても何も分からないといっても差し支えないでしょう。本日の御言葉を通して私たちは何者であり、人生とは何かを考えたいと思います。
聖霊による神の相続人としての神の子
本日与えられたローマの信徒への手紙8章12節には「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。」と書かれています。私たちの人生にひとつの義務があるとパウロは伝えています。その義務はこの文章の前後には書かれていません。そこで本日の旧約聖書の申命記を見てみますと、6章4節、5節に主なる神がイスラエルの民に告げた言葉が書かれています。イスラエルとはユダヤ人を表す言葉であるとともに、神の民を表す言葉ですから私たちに与えられた言葉であるといえます。今日(きょう)私たちは「聞け、あなた達」という言葉を聞きました。主は「あなたの神、主を愛しなさい」という戒めを与えられました。
聖霊は私たちにこの言葉を思い起こさせてくださいました。これは神が私たちに与えた霊の義務でありまして、決して肉に対する義務ではありません。「肉」という言葉は私たちの欲望や傲慢や自分勝手を表します。肉に従って生きる人は神に従うことをしません。神を愛するのではなく自分を愛します。私たちは肉に対する義務を一切持っていません。肉に囚われることがあったとしても、決して肉に対して義務を負ってはいません。
「肉に従って生きるならばあなた方は死にます」というパウロの言葉は命が無くなるということではなく死んだ状態になることを表しています。それは他者との交流が無くなる状態です。最近では社会に閉塞感が広がり、あおり運転のような迷惑行為をする人が増えているようですし、引きこもりの人も多くいるようです。ある自治体の調査結果が新聞に出ていましたが、24世帯に1世帯の割合で引きこもり者がいるという結果でした。神を知らず、神に背いて生きるならば自分に従って生きるほかありませんから、問題が起きた時に鬱憤を晴らす迷惑行為をしたり、人と接しないように引きこもるようになるのではないかと思います。神を知るならば、神を「父」と呼ぶほどに親しく、愛するならば、その人たちは素直になり元気になるのではないかと思えてなりません。そんなに簡単なことではないでしょうが、その人たちに神さまのことを知らせて元気になってもらいたいと思ってなりません。
「神の霊によって導かれる人は皆、神の子です。」この14節の言葉は何と慰めと希望に満ちていることでしょう。宗教改革者ルターは14節から17節について、「これは素晴らしい、慰めに満ちたテキストだ。黄金の文字で書くのがふさわしいしい」と記したそうです。
神の子といっても実子ではなく、いわば養子です。被造物である私たちが神になることはあり得ませんが、養子として相続人としていただいたのです。神の財産は何かといえば、神の国です。私たちは神の国の住人としていただいたのです。それは死後の事ではなく、すでに神の国は私たちのところに現われています。
私たちは先日の牧師就任式を自分の事のように喜びました。それは喜ぶ者と共に喜ぶという御言葉が実現した出来事でした。私たちはその喜びを共有しました。また先週のミニコンサートを多くの人が楽しみましたし、私自身も楽しい時を過ごしました。そこにも喜びがありました。
一方で、私たちはウクライナで行われている戦争に心を痛めています。毎週のSkype礼拝の案内メールにはこの事のために祈る言葉が添えられています。身近なところに、ささやかな喜びがあり、共に祈る課題があります。私たちは気づいていなくても、ここにはすでに神の国が現れています。
神の子の苦しみの意味
17節には「神の相続人、キリストと共同の相続人は、キリストと共に苦しむ」という言葉が書かれています。洗礼を受けて神の国を受け継いで、得られるものが苦しみであるならば、そんなものは要らないと思うかもしれません。このことについて思いめぐらせてみましょう。
<キリストと共に苦しむ>とは旧約の預言者エレミヤや苦難の人ヨブが神の前に立ったように、キリストと共に神の前に立つことです。神の厳しい裁きしか感じない時でも、神の言葉を雷鳴の中や静けさの中に聞き、神を暗闇の中で人生の方角を示す光として認めつつ、神を愛することであります。神を愛するとは、難しいことではなく、自我や我がままを捨てて、神の言葉に従うことです。神はキリストを通して、「私を愛するように隣人を愛しなさい」と戒められました。それは苦しみを自ら進んで引き受けることです。
神の子であるというのはキリストと共に苦しむことです。キリストが苦しまれたのは何のためであったでしょうか。それは私たちを罪のとりこから解放するためでありました。キリストは自らの命によってそれを成し遂げてくださいました。しかしこの世の悪がキリストを排除したように、この世は自分達とは違う異質なものとして神の子を排除しようとします。私たちを人間関係のしがらみの中に閉じ込めようとしますし、社会の因習に縛り付けようとします。神の子が神と共に歩もうとするとき、この世の悪は神の子に苦しみを与えるのです。この世は神を知りません、神を冒涜していることに気づいていません。自分たちの慣習がすべてで、正しいと思っています。
そしてまた神の子とされた者もこの世の悪から切り離されてはいません。世の悪に影響を受けて行動することがあるでしょう。これはキリスト者にとっては外部からの悪よりもつらい苦しみです。自分で自分が情けなくなります。しかしあのパウロでさえ「私は何と惨めな人間なのでしょう」と心の内を吐露したように、私たちは宥和うに弱い存在であり、そのことを認めたくない存在です。
だからこそキリストは私たちのために十字架におつきになられました。世の悪から来る苦しみと、そして私たちが肉を持つ存在であることから来る苦しみをキリストはすべてご存じです。私たちがこの苦しみから逃げるのではなく、キリストの執り成しに信頼して忍耐するならば、神は私たちに栄光を現わしてくださいます。その栄光がどのようなものであるかを知る必要はありません。神が私たちを用いてくださる徴だからです。
神の国は近くに
童話「青い鳥」はチルチルとミチルという二人の子が幸せの青い鳥を探しに方々を旅しても見つけることができず、家に帰ったらそこに青い鳥が居たというお話です。神の国もこの童話と同じだと思うのです。神の名が語られ、神を礼拝し、喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ人々がいるところは神の国に間違いありません。そこに居る人々は不完全かもしれませんが、それを認め受け入れる神がおられます。ここから世の荒波に出かけていくのです。
問題行動を起こす人や引きこもりの人や、そうなりそうな人々に神の愛を伝えることができたならば、そしてその人たちが神の愛を受け入れてくれたならば、私はきっとその人たちはもう一度人生をやり直す意欲を持つのではないかと思います。それは簡単なことではないでしょうが、そうしたいという気持ちに駆られます。それは敢えて苦しみを引き受けることになるのですが、キリストはすべての人に御言葉を伝えるよう私たちに宣教の業を託されたのですから、それをせずにはおられません。
神の子の栄光
私たちは聖霊によって神の子としていただき、もはや肉に従う義務を負ってはいません。この世の悪は私たちを神の子から自然の人に戻そうと誘惑してくるので、私たちは人間関係や因習によって苦しみを受けるのですが、しかしその苦しみは神の子の証しなのです。私たちは主が「聞け、神の民よ。あなた方の神は唯一の神である。あなたはあなたの神、主を愛しなさい。」と呼びかけている声に耳を傾け、神の子としての働きを続ける。このことが私たちの栄光を受ける人生なのです。