聖書 歴代誌下15章1~8節、使徒言行録4章13~22節
「美しの門」での奇跡
使徒言行録3章に書かれているエルサレム神殿の「美しの門」での出来事は人々に感動を与えます。ペトロは「美しの門」にいた足の不自由な男に「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」と言い、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と命じました。そして右手を取って彼を立ち上がらせました。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだし、神を賛美した、というものです。
この物語が感動的なのはイエス様が天に昇られた後にも神のしるしが現れたということです。ペトロが奇跡を起こしたのではありません。イエス様の名によって、すなわち神の言葉によって奇跡が起きたのです。ここに終末が現れました。終末は遥か未来の出来事ではなく神の国がこの世界に突入してくることですから、そこでは神の御心によって神が共におられることのしるしが現れます。
キリストを証しする
その出来事の後にペトロはイエス・キリストを証しする説教をしました。3章11節から26節です。ペトロとヨハネはこのことで一晩牢に入れられましたが、ペトロの説教で5千人が信じたと書かれています。
次の日に大祭司や議員たちがペトロに「お前たちは何の権威によって、誰の名によってああいうことをしたのか」と尋問しました。祭司長たちはペトロたちにそのような資格があるのかと問いただしたのでした。その権威を持っているのは祭司であって、ガリラヤの漁師出身の専門教育を受けてもおらず、資格も持っていない者が神殿で説教をすることを咎めたのです。
この尋問に答える形でペトロの証しが始まりました。4章10節から12節にこう書かれています。
「4:10この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。4:11この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。4:12ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
このペトロの言葉に、救いはイエス・キリストの名によって、すなわち神の名によって起こることが証しされています。
聖霊に導かれて語る
この言葉を聞いた大祭司や議員たちは「驚いた」と書かれています。それもそのはず、ペトロたちは彼らからすれば無学な普通の人なのです。そのペトロたちが目覚ましい徴をおこないました。大祭司たちは救いがこの世に現れた出来事を聞き、またその男を見たというのに、自分たちの地位を守ることに、また自分たちに都合の良い社会の仕組みを維持することにしか関心を持っていませんでした。彼らは神に仕える者であるにもかかわらず、神の臨在を示すしるしに目を向けなかったのです。まことに彼らは自らの職務と矛盾した行動をしました。ペトロたちに「今後あの名によってだれにも話すな」と脅しをかけることにし、二人を呼び戻して、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令しました。
しかしペトロたちは命令に従うのではなく、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」と答えました。このような答えはなかなかできるものではありません。聖霊が彼らに語るべき言葉を教えたのです。イエス様は弟子たちと一緒に居た時に「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(マコ13:11)と告げていました。
私たちが大胆に語らせて下さいと祈るとき、この祈りに応えて聖霊が私たちに語らせてくださいます。ペトロの言葉によれば「私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」。私たちに与えていただいた恵みの数々を心の中に仕舞い込んだままにすることはできず、誰かに話したくなるのも聖霊の導きによるからです。いつもいつもというのではなく、私たちが語らなければならない時に語らせてくださいます。
大祭司や議員たちはペトロたちを更に脅してから釈放しました。ペトロたちに危害を加えなかったのはペトロたちの周りにいて奇跡を目の当たりにした大勢の人々を恐れての事でした。
旧約聖書の歴代誌にはユダヤの王のことが書かれています。歴代誌下の15章にはアザルヤという祭司がユダの王アサに告げた神の言葉が記録されています。アサ王は宗教改革を行った王です。アザルヤは王に3つのことを告げました。第1は、あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいてくださる。第2は、もしあなたたちが主を求めるなら、主はあなたたちに御自分を示してくださる。第3は、しかし、もし主を捨てるなら、主もあなたたちを捨て去られる。という神の言葉でした。そして宗教改革を進めようとしている王に「あなたたちは勇気を出しなさい。落胆してはならない。あなたたちの行いには、必ず報いがある。」と告げました。この託宣こそ聖霊が私たちに宿ってくださっているしるしです。
ペトロたちはこの世の権力者から尋問を受けました。聖霊が働かなかったならば、その尋問にひるんだかもしれません。しかし聖霊によってイエス・キリストを主とする信仰に立ち、大胆に証しをすることができました。
この世界を取り戻す言葉
第二次世界大戦で大規模な殺戮を命じたヒトラーに対峙した牧師で神学者のボンヘッファーは次のように書いています。
「復活において我々が認識することは、神は地を放棄したのではなく、取り戻したのだということである。キリストの復活を信仰をもって肯定する人は、もはやこの世嫌いになることはできない。またその人はもはや世に溺れることもできないのである。なぜなら、その人はこの世の中に神の新しい創造を認識したからである。」
この世の権力者が神に逆らう言動をおこなっているとしても、それに抗う力はキリストの復活にあります。どのようにこの世界が悪に満ちていようとも、キリストが十字架でこの世を贖われたことは覆りませんし、キリストが復活したことを通して神はこの世界を放ってはおかれないことをお示しになりました。聖霊はこのことを私たちに教えています。私たちが忘れそうになっても再び思い出させてくださいます。
語らせていただく
私たちは自分自身では語る言葉を持たないかもしれません。また語る勇気を持たないかもしれません。しかし聖霊は私たちを用いて語らせてくださいます。私たちに与えられた恵みの数々を語らせてくださいます。語る時を用意してくださいます。その時には私たちは勇気をもらって大胆に語ることができるのです。