聖書 サムエル記上16章14~23節、使徒言行録16章16~24節
清められる出来事
ダビデは竪琴を奏でてサウルの霊を清め、パウロはイエス様のお名前によって占いの霊に取りつかれている女奴隷から悪霊を追い出してこの女性を清めました。本日は聖霊が私たちを清めてくださることについて御言葉に聞いてまいりたいと思います。
清められた女性
本日与えられた使徒言行録16章にはパウロたちがフィリピの町で占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った出来事が書かれています。パウロたちは第1回宣教旅行を終えてエルサレム使徒会議に出席した後に、第2回宣教旅行に出かけました。そのルートは陸路で現在のシリア、トルコを経て、エーゲ海を渡りギリシアに行くルートでした。現在のギリシアの東部に当時のフィリピの町がありました。この出来事はフィリピの町で起きました。フィリピはギリシアの町でしたからギリシア神話の偶像が信じられており、占いの霊はその偶像のひとつでした。占いの霊は人の未来を告げて人を恐怖に陥らせ心理的に束縛します。しかし人々はその女性にお金を払って未来を求めていました。この人はパウロたちを「いと高き神の僕」と呼び、「救いの道を宣べ伝えている」と叫んでいました。私たちはこの言葉を聞いて別に不思議には思わないのではないかと思います。しかし実はこの言葉には偶像礼拝が隠されています。
「いと高き神」とは原典では<神々の中で一番高い神>という意味ですから、唯一の神を表している言葉ではありません。唯一の神を言い表す言葉は新共同訳では「いと高き方」と訳されています。原典では定冠詞がつけられており、これは絶対的な神を表しています。
また、この女性が「救いの道」と語る時、その言葉には否定的響きあるいは敵意がありました。なぜなら、「道」という言葉はキリスト教やキリスト者が信仰して生きる生き方の事であり、それは偶像を信じるギリシア人には到底受け入れられない生き方だったからです。
パウロはたまりかねて、この女性についている悪霊に「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」と命じました。すると即座に霊は女性から出て行きました。霊から解放された女性は普通の生き方に戻り、もはや彼女の主人から束縛されることがなくなりました。女奴隷の主人にしてみれば金儲けの金づるを失ったのですから、そのようなことをしたパウロたちに怒り、彼らを捕えて高官たち、すなわち守衛長たちに引き渡しました。彼らの訴えにパウロたちがフィリピで受け入れられない理由が示されています。パウロたちはユダヤ人で扇動者であり、ローマ帝国の市民が受け入れることのできない風習を宣伝しているということです。彼らは女性が占いの霊から解放されたことを神がそこに臨在しておられることのしるしと受け止めることはできませんでした。「イエス・キリストの名によって」とはイエス・キリストご自身が働かれることです。
清められたサウル王
旧約聖書のサムエル記上16章には悪霊に取りつかれて苦しむサウル王のことが書かれています。サウル王は預言者サムエルから油を注がれて、イスラエル王国の最初の王に任じられた人です。油を注ぐというのはその人を神の代理人としての王に聖別することを表します。
サウルは最初の頃は主なる神に従ってイスラエルを統治していましたたが、ある時、アマレク人とその財産をすべて神のものとするようにとの神の命令に従わず、最上の羊と牛を戦利品として持ち帰ったのです。主はサムエルを通してそのことをサウルに伝えて悔い改めるよう促しましたが、サウルは言い訳をするばかりで主の命令に聞き従いませんでした。それで主の霊がサウルから離れました。そして更には悪霊が彼をさいなむようになりました。きっとサウルは今日でいえばパラノイアと呼ばれる偏執病、妄想病、病的な疑い深さに悩まされたことでしょう。しかし聖書が語るサウル王の苦しみは神から離れたという神との関係によるものであり、精神的なもの、あるいは心理学的なものではありません。悪霊はサウルが神から離れたことによる主からの応答であり、主の御旨に従ってサウルをさいなみました。そこで竪琴の名手であるダビデが召し出され、悪霊がサウル王を襲う度にダビデは竪琴を奏でました。そうすると悪霊はサウルから離れサウルは心が安まりました。
このパウロによる女奴隷の解放の出来事とダビデによるサウル王の安らぎの出来事は聖霊が働いてのことでした。ここには聖霊という言葉は出てきませんが、ダビデは預言者サムエルから油を注がれて主の霊が降った者であり、パウロは復活のイエスに出会い聖霊を受けた者です。彼らによって聖霊が働いたと信じることは決して根拠がないことではありません。聖霊は人を清め、悪霊から解放してくださいます。
清められるキリスト者
キリストの教えを問いと答えの形式で伝える信仰問答という文書があります。いくつかの信仰問答書がありますが、私たちの教会が信じる信仰が書かれている信仰問答として、宗教改革のさなかの1563年に書かれた改革派の信仰問答書である「ハイデルベルク信仰問答」があります。この問答の問60に次の問いが書かれています。
「あなたはどのようにして神の前に義となるのですか。」
<神の前に義となる>というのは、神の前に何かを自分の手柄のように差し出すというよりも、自分がむしろ完全に空っぽになって徹底的に、キリストの贖いと義と聖さを受けることです。問いは「それはどのようにしてですか。」と問うています。
この答えは長いのですが次のようなものです。
「ただ、イエス・キリストを信じるまことの信仰によるだけです。かくして、私の良心が、あなたは神の戒めに対してはなはだしく罪を犯し、そのいましめのどの一つをも守ることがなく、いつまでもあらゆる悪に向かう傾向がある、といって、私を責めたとしても、神は、私に何も功績がなくても、ただ、恵みによって、あたかも私が何の罪も犯したこともなく持ったこともなく、<キリストが自ら私のために果たして下さったすべての完全なる服従を完全に行ったものであるかのように>、私がこれらの恵みを信じる心をもって受けさえすれば、<私に完全な償いと義と聖とを与え、私のものとしてくださる>のであります。」
私なりにまとめますと、「イエス・キリストを信じる信仰によって、神は私に完全な償いと義と聖さとを与え、それを私のものとしてくださる」となります。この個所は使徒信条の第3項である聖霊のところに関連付けられています。聖霊は私たちにイエス様が成し遂げてくださった罪の贖いを思い出させてくださいます。イエス様の名によってなされることは神が働かれることであることを信じさせてくださいます。パウロに起きたことは私たちにも起きるでしょう。
「あなたの良心があなたを責めたとしても、キリストを信じるまことの信仰によって義となります」。そのように聖霊が私たちを清めてくださいます。
占いの霊につかれた女性は占いをする力があるのではなく、彼女自身が悪霊によって支配されていました。パウロの「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」との命令により悪霊は彼女から離れ、彼女は普通の生き方ができるようになったことでしょう。
サウル王は最後まで自分が神の命令に従わなかったことを認めようとしませんでした。彼は自分が偉大な者であると己惚れてしまい神の命令を守らなかったばかりか、それを悔い改めることをしませんでした。しかしダビデの竪琴の音によって悪霊が去り、一時的に清められて平安を得ました。私たちが罪を認めて悔い改めるならば聖霊は何度でも私たちを清めて神の前に義としてくださいます。
清くされたことを信じる生き方
聖霊はイエス様の十字架の贖いによる救いの恵みと父なる神の愛を思い出させてくださいます。そして私たちを清いものに変えてくださいます。私たちが現実には神の戒めを守ることができず、悪に向かう傾向があって、良心がそのことを責めたとしても、イエス・キリストの恵みを信じる心をもって神の恵みを受けさえすれば、聖霊は私たちを清めてくださり、私たちは神の前に義となるのです。