聖書 列王記上10章4~9節 、テモテへの手紙一・3章14~16節
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ソロモンが歩んだ主の道
「あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように」(王上10:9)。シェバの女王はイスラエル王国を訪問し、宮殿の見事さと丁重なもてなしに驚き、またソロモン王の知恵に息も止まるほど感激しました。そしてソロモン王に語った言葉が先ほどの言葉でした。シェバの女王はイスラエルの神がソロモンに働いて国を豊かにし人々の品格を高めたことを認め、神を賛美したのです。
シェバ国は香料、その中でも特にオリエントの宮廷で珍重された乳香の産地(イザ60:6、エレ6:20、エゼ27:22)として知られるアラビア半島の南西部、現在のイエメン辺りにあった国だと見なされています。イスラエルまでは直線で2,000km以上も離れています。そのような遠くの国にまで当時のイスラエルの繁栄の噂は聞こえていたのでしょう。
ところでソロモンの知恵とイスラエルの繁栄はどこから来たのでしょうか。この事に関して列王記上3章に次のように記されています。神はある夜ソロモンの夢枕に立ち「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」(3:5)と言われました。それに対してソロモンは財産や全世界を治めることを願うのではなく、「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」(3:9)と願いました。主はこの願いを喜び、次のように告げました。
「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。」(3:11-13)
ソロモンは<知恵に満ちた賢明な心>でイスラエルを治め、その結果として国は栄え、人々の品格が高まったのでした。ソロモンが選んだ道は<主の道>でありました。
パウロの勧告
次にテモテへの手紙第一に聞きたいと思います。これはパウロがローマの獄中からエフェソ教会の指導者となったテモテに宛てた手紙です。この手紙でパウロは「神の家でどのように生活すべきか」を示し、テモテに「これらのことを兄弟姉妹に教えるならば、あなたはキリスト・イエスの立派な奉仕者になります」(Ⅰテモ4:6)と書き送っています。
パウロはこの手紙の大部分で神の家での生活を語っていますが、それは神の家が「真理の柱であり土台である生ける神の教会」だからです。教会は神によって柱あるいは土台としてこの世に建てられています。この土台の上で神の啓示、唯一の真理が語られます。ここで人々は神と出会い、御言葉を聞くのです。
パウロはこの手紙の中で、祈りに関して教え、監督者や奉仕者の資格について語り、教会の人々に勧告しています。それらはどのように生きるかという倫理規定と言ってよいでしょう。それらを私たちが義務として受け取るならば、キリスト者はなんと窮屈な人生を送ることになるでしょうか。
しかしパウロが勧告するのはキリスト者を立派な人の型にはめて束縛しようというものではなく、<信心の秘められた真理>に基づくものです。秘められた真理とは<隠されていた真理が啓示によって私たちに示されたこと>を意味する言葉です。どのような啓示かと言うことが16節に詩として書かれています。
キリストは肉において現れ、
霊において義とされ、
天使たちに見られ、
異邦人の間で宣べ伝えられ、
世界中で信じられ、
栄光のうちに上げられた。
このような啓示です。これは後の人たちが「キリストを讃える歌」、「キリスト賛歌」と呼ぶようになりました。
私たちが信じ、従っているお方、またいつも私たちと共にいてくださるお方、イエス様がどのようなお方かが詩、ポエムの形式で証しされています。
原文はどの行も受動態で表されています。日本語に訳すのにすべてを受動態で記すのは難しいので、ここに挙げられたような訳文になっていますが、受動態であることから、この詩では神がこれらのことを行ったことが示されています。
すなわち、
(神は)キリストを人間としてこの世に現わされた。
キリストは人間でありながら霊によって正しい者とされた。
(神は)天使たちがそのお方を見て礼拝するようにされた。
(神は)そのお方を異邦人に宣べ伝えるようにされ、
世界中で信じられるようにされた。
そして(神は)そのお方を栄光のうちに天に上げられた。
<この詩に讃えられているキリスト>に倣う者としてのキリスト者は主の道を歩くことを自ら選んでいます。私たちは人生において主の道を歩むのです。
相対的価値観と絶対的価値観
ところでここ2,3年の出来事を振り返りますと、自国第一主義の台頭、国民弾圧、戦争などが起きており、日本でもつい最近、要人が銃撃され死亡するという事件が起きました。新聞やテレビは銃規制が世界で一番厳しい国で銃による殺傷事件が起きたことに対する驚きの記事が多く出されました。また犯行の動機がある宗教団体に対する恨みからであったことが社会に衝撃を与えました。このことによって日本社会に宗教に対する不信感が増しているように感じます。
一方で価値観が相対化されてきています。おそらく半世紀前までは殺してはいけないという教えは人々に何の疑問もなく受け入れられていました。これは絶対的価値観と言えます。ほかの価値観と比較してこれが優れているから、このことを受け入れるということではなくて、神から啓示されたことは揺るがず、人間がそれを受け入れるか受け入れないかが問題でありました。
ソロモンが受けた<訴えを正しく聞き分ける知恵>の道も、パウロが歩み、テモテに勧告した道も神の啓示に基づく絶対的なものです。私たちはその道を受け入れてその道を進むか、それを拒否して他の道を進むかの二者択一を迫られています。詩編1編に詠われているように、主の道は<幸いであると主が祝福されている道>であります。
子どもの母親に対する価値観は絶対的
幼い子供は自分のお母さんが世界一だと誇ります。これは相対評価をしているのではなく、その子にとって自分のお母さんはかけがえのない人であって、絶対の信頼をおける人です。最近では幼児虐待が社会問題になっていますが、それは親に問題があることであり、子どもは親をどんなことがあっても頼ります。
子どもが自分のお母さんを世界一というのと同じように、キリスト者はパウロが示す主の道を、この道しかないと信じて歩んでいけばよいのです。なぜならば、イエス様が示してくださった愛に私たちは打たれ、その愛によって目覚めさせられたからです。イエス様を知らなかった時には不平不満だらけだった人生が、イエス様を知って喜びの人生に変わりました。もちろんその体験は人それぞれですが、少なくともイエス様の言葉や行いに影響を受けて、新しい生き方を始めたことに間違いありません。
ソロモンの生き方もパウロの生き方も主の道を歩く生き方でした。主の道は使命の道と言い換えても良いと思います。ソロモンは正しく聞き分ける知恵によって王としての使命を果たしました。そのことがイスラエルを繁栄に導き、人々の品格を高めました。パウロは福音を宣べ伝えることによって伝道者としての使命を果たしました。そのことが多くのキリストの教会を生み、福音が世界に広まる基礎を築きました。
主の道はキリストが示された道
主の道はキリスト者の歩む唯一の道です。これはいろいろな生き方を比較してのことではなく、キリストが示してくださった、すなわち啓示された道です。このことを自覚することで迷いから解き放たれます。世間から胡散臭い目で見られようとも、私たちは主を見上げてそれぞれに与えられている主の道を歩きましょう。
主の道に至る門は狭く、道は細いのですが、キリスト者はその道を見いだしました。それは使命の道と言い換えても良いと思います。キリストが示された使命を私たちの使命と受け止めて、他者のために、他者と共に歩むのです。その時イエス様は私たちと共にいてくださいます。