8月7日平和聖日礼拝説教「あなたがたに平和があるように」山元克之牧師

〇 はじめに

8月第一日曜日は、日本キリスト教団におきまして「平和聖日」ということになります。私がこの世に生を受けて40年余り、今年ほど平和について思いを巡らせた年はなかったように思います。今なお戦火にある人たちのことを思い、一日でも早く神にある平和の日々が取り戻されるよう祈っています。

さて、今回は、「若い人たちへ日頃どのように平和についてお話しされておられるか、そのような観点から説教をお聴きしたいと強い要望が、土気あすみが丘教会の役員会で出て」、私にその依頼をいただいたということで、このような形で、皆さまと再会できたこと、また用いていただけますことを嬉しく思うと同時に、十分な奉仕ができるかいささか不安を感じています。

まさにマザーテレサが言ったように「世界平和のために私たちができることは、まず家に帰り、家族を大切にすること」そのことがいつも心の中にあります。

○ 鍵を閉める意味

主イエスがトマス以外の弟子たちの前に現れたときも、またトマスを含めた弟子たちの前に現れたときも、家の全ての戸には鍵がかけられていたけれど、不思議なことに主イエスが、いつの間にか、その弟子たちの真ん中に立たれて、「あなた方に平和があるように」と声をかけられたということが今日読まれた聖書箇所の2つの話の共通しているところです。

長らく社会問題とされているものの中に、引きこもりと言うものがあげられます。彼らそれぞれ悩みは違い、引きこもっている理由は違うけれども、共通していることは、部屋に引きこもり鍵を閉めて出てこないことによって、自分の心も鍵をして閉じ込めていると言うことです。本人も、周囲にいる人も解決したいのだけれど、本当に難しい。誰かと触れ合うことが辛くなってしまっている。いや、引きこもりというのは一つの現象でしかなくて、本当に様々な問題が私たちの社会には山積していますが、どれにも共通していることは、自分の心に鍵を閉めて、心閉ざして周りとの距離を置き、ともすれば周りのものを敵とみなし、様々な問題が生じている。

今日、戸を閉ざしている弟子たちの姿に、心を閉ざしている人を読み取ることは間違いではないでしょう。我が家の子どももそうです。腹を立て、悲しみに打ちひしがれ、疑いにさいなまれ、そのような時、誰もいない部屋に閉じこもって戸を閉ざしてしまいます。子どもだけではない。子供じみた仕方で、部屋にこもることはなくても、心が固くなるとき人間がすること、それは、閉じこもって心の鍵を閉め、誰も受け付けようとしないということです。自分の心の部屋の中に引きこもることが誰にでもある。そこに平和などない。ここにあるのは恨みであり、怒りであり、不安です。弟子たちもそうですユダヤ人を恐れたため鍵を閉めて部屋に閉じこもっていたわけですから、心は騒いでいました。それだけではなく、主イエスを裏切った後悔や、これから先の不安など、彼らが家の中に閉じこもる理由はいくらでもありました。はっきり言って彼らがとどまっているこの部屋の中に平和はない。

鍵がかけられ戸が閉められているはずのその部屋に主イエスが入ってこられます。そして弟子たちの中心に立たれて言われます。「平和があるように」。今でもパレスチナの地方で使われている日常的な挨拶「シャローム」、そのような挨拶を復活の主イエス・キリストは弟子たちに告げるのです。それはただの挨拶ということではなく、心穏やかではない弟子たちに、「安かれ」と慰めに満ちた言葉で語り掛けられる、平和の挨拶であると言えます。

挨拶が人を救うことがあります。讃美歌にも「おはようとの挨拶も心を込めてかわすなら、その一日お互いに喜ばしく過ごすでしょう」という歌詞がありますが、心閉ざしている人にとって何気ない挨拶が、平和を生み出す挨拶となることを私たちも経験したことがあると思います。平和って、武器をなくそうとか、基地をなくそうとか、もちろんそういうことも大切なのだと思いますが、もっと身近なもので、挨拶一つで平和を生み出すことができるのだと思います。

平和のない弟子たちに、いつもと同じように主イエスは「平和があるように」と挨拶されました。それはただの挨拶ではなく「あなたに平和をもたらすために来た」と伝え、「平和に過ごしなさい」という意味を込めて主イエスは言われるのです。

「平和があるように」と言われる主イエスのわき腹には深い傷があり、手のひらには釘の跡が残っています。その傷は、心閉ざした人間が残した爪痕です。恨みや怒りや不安で心閉ざした者が、主イエスを十字架につけたのです。弟子たちもこの主イエスの傷に無関係ではない。今まさに扉の鍵をして閉じこもっているのですから、主イエスの傷は彼らの傷でもある。その者たちの間に立たれて復活された主イエスは、その傷を示して「平和があるように」と言われるです。

心閉ざしたものがつけた傷を、弟子達とは無関係ではない深い傷を見せて、復活の主イエスは「平和があるように」と言われる。復活の主イエスと弟子たちの再開は恨みや怒りや不安を取り払うには充分すぎる平和の出会いでありました。弟子たちが平和を取り戻すには、これ以外の方法はなかったと思います。

老いも若きも、男も女も関係なく、平和を知るためには、自分には平和がないことをまず知るところから始まります。自分の身近なところにでさえ平和がないことを、知るところから始まるのだと思います。罪を認め、悔い改めるところからしか平和は始まらないのです。主イエスの傷に自らの罪を重ねるところからしか平和を理解することはできません。示された主イエスの傷に、平和をないがしろにする自らの傷を目の当たりにし、裂かれたわき腹に、平和を壊す自らの破れを見ない事には、この後語られる「平和があるように」という主イエスの言葉の意味を理解することはできないのです。自分たちの置かれている生活の中に、自分の罪を見出せないならば、平和を造りだすことなどできない。

罪深さを理解して、主イエスの御傷の意味を理解して、初めて「平和があるように」とお語りになる主イエスの言葉に、平和が与えられて、それに応答して平和を造りだしていく事ができるのだと思います。

鍵がかけられた部屋にどのようにして主イエスは入られたのか。ある神学者がこのように言います。「弟子たちは戸に鍵をかけて閉ざしておりました。しかし、主イエスはその戸を抜けて弟子たちの中に来られて真ん中にお立ちになりました。神が人間のところにきてくださるとき、いつもそうであるように。」その人は主イエスが戸をぬけるということで主イエスがスーパーマンであるかのように言っているのではありません。またこのときだけ起こった神秘的出来事といっているのでもありません。この神学者は、どんなに心を閉ざしていてもいつも私たちにそうであるように、主イエスと言うお方は心の扉を抜けてきてくださる方であるというのです。その事を信じて、「平和があるように」と心を閉ざす私どもの中に入って行かれる主イエスを紹介し続けることこそ、平和教育だと信じています。

そのような意味で、この場所に土気あすみが丘教会がこの地に立てられ、十字架と復活の主を証していることこそ、平和の活動であり、平和の証しなのです。