聖書 申命記10章12~22節、ヘブライ人への手紙12章1節~11節
宗教不信という苦難
私が4月に来た頃は教会の周りで作業をしていると道を歩く人が私の様子を見て通り過ぎたり、挨拶を交わしていました。ところが元首相の銃撃死事件以来、道を歩く人が私に目を向けなくなり挨拶がしにくくなりました。小さな変化ですが、あの事件によって人々の中に宗教に対する不信感が増してきていることを感じます。
土気あすみが丘教会は使徒から続く正統なキリスト教会であり、主日礼拝や諸活動をおこないキリストの福音を宣べ伝えている教会なのですが、世の中の人々には問題を起こしている宗教団体との違いはわからないのだと思います。教会に来て礼拝すれば、神がおられることやどのように生きればよいかを知ることができるのに、洗脳されて財産を取られてしまうのではないかというふうに恐れるのでしょう。
主なる神の鍛錬で続けられる信仰生活
ヘブライ人への手紙が書かれた頃はローマで皇帝ネロによるキリスト者の迫害(64年)が終わった後、まだその影響が残っていた頃だと考えられています。当時は今よりもひどい状況で、キリスト者たちは主イエス・キリストを信じる信仰に生きることでいわれなき迫害を受けていました。毎週の礼拝に集うこと、讃美歌を歌うこと、主に祈るといった信仰者にとって当たり前の基本的なことがらでさえ迫害の対象になっていたと思われます。
12章1節は、私たちが旧約聖書の証人の群れに囲まれているという書き出しで始まっています。11章には沢山の人の名前が挙げられています。少しだけ名前を挙げますとノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ダビデなどが並んでいます。パウロはこの人たちのことを「この人たちは信仰によって何々した」と紹介しています。そして「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」(11:13)と書きました。旧約の神の民イスラエルは「約束されたものを手に入れなかったけれど、喜びの声をあげた」と伝えたのです。
パウロは11章40節で逆説的な表現ではありますが、キリスト者は「約束されたものを手に入れた」ことを示しています。「約束されたもの」とは2節に書かれている「信仰の創始者また完成者であるイエス様」です。このイエス様はご自身の喜びを捨て、恥も厭わず、十字架の死を耐え忍ばれました。そしてよみがえって天に上られ、神の右にお座りになられました。私たちにはこのイエス様が与えられたのです。
パウロは、信仰生活を送ることを競争に譬えて、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こう」と勧告しています。「すべての重荷や絡みつく罪」というのは信仰生活をさせないように働くすべての力を表しています。それは外部からの力もありますし、内側からの力もあります。旅行に誘われてそれを断ることで「付き合いが悪い人」と陰口を言われることがあるかもしれません。礼拝に参加することを大切にしていることを理解してくれる人ばかりではないのが現実です。私たちは礼拝に行くことができるようにするにはどのようにすればよいか知恵を働かさなければなりません。私たちは隣人とできるだけ仲良くすることも主のご命令であることを知っているからです。パウロはそのようなものを「かなぐり捨てる」ことができました。私も牧師となってからは日曜日に誘う人はいなくなりました。これは牧師の役得だと思います。仕事だからといえば無理に誘わないでしょう。
そうは言っても私たちは信仰生活を続けていくことに気力を失い疲れ果ててしまうことがあります。パウロはそれを見越してキリスト者にイエス様の忍耐を想い起こさせています。4節の言葉は強烈です。「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」と言う言葉で、私たちが十分な努力をせずにこの世の流れに流されることを諫めています。この4節の言葉を知った若者が悪い仲間から抜ける時に必死の抵抗をして抜けることができたという実体験を何かの本で読んだことがあります。必死に抵抗すれば誘惑者は諦めることを知っておくことは大切なことだと思います。
5節からは父と子の譬えを用いて「主の鍛錬」を説明しています。ここで言う「主の鍛錬」とは信仰生活を遮ろうとするすべての試みを「かなぐり捨てる」ことによって生じる軋轢(あつれき)や苦しみを忍耐して、信仰生活を続けること、また主を証しすることを指しています。
しかし人間関係のしがらみは苦難ではありませんし、慣習にしばられることも苦難ではありません。それらを「かなぐり捨てて」信仰生活を送ることにより起きる様々な不利益が苦難であり、それは「主の鍛錬」なのです。このような苦難を主の鍛錬として忍耐することにより私たちの品格が高められていきます。
8節からは神とキリスト者との関係を父と子の関係に譬えて、神はキリスト者を我が子として見ているから鍛えるのだと説明しています。子どもを放任する親は子どもを愛しているのではなく無視しています。親は愛しているからこそ子どもを鍛錬するのです。
信仰生活を続ける時に遭遇する苦難という主の鍛錬は11節にあるように「当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われますが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせます」。「義」とは神との関係を正しくしていただくことであり、そのことがキリスト者に平和や平安をもたらします。
主なる神があなたに求めておられること
申命記に少し触れたいと思います。申命記10章12節でモーセが問いかけたことは「キリスト者よ、今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。」という問いです。それに対する応答は「ただ、私たちの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして私たちの神、主に仕え、主の戒めと掟を守って、私たちが幸いを得ること」であります。
高齢者の寂しさや悲しさを超える希望
「高齢になっても鍛えられる」のは勘弁してほしいという思いを持たれているお方がおられるかもしれません。しかし、召される時まで主を信じて、信仰生活を続けることは、日々平和や平安が与えられることなのです。
ある牧師がデイサービスに行って、信仰を持っていない人から聞いた言葉は「どうせ死ぬ」という言葉だったそうです。この言葉は単純に絶望を表している言葉ではありません。達観の言葉あるいは諦めの言葉です。死ぬことを見つめなくなった言葉です。だからその人たちには一種の明るさがあるそうです。
しかしその人たちも愛する人や親しい人の死には寂しさや悲しみを感じています。それは二度と会えないという寂しさであり、それゆえの悲しみです。この寂しさや悲しみは、「どうせ死ぬ」と達観していても消えるものではありません。
それに対して主イエス・キリストを信じる人には死の後に復活の希望があります。この希望は死による別れの寂しさや悲しみさえも超える希望です。もちろん別れは寂しく悲しいことですが、その寂しさや悲しみを主が癒してくださいますし、再び会えるという希望に生きることができます。
希望を生む信仰生活
私たちはイエス・キリストを救い主とする信仰にしたがって日々を送りましょう。その信仰生活によって陰口を言われたり、仲間外れにされることがあろうとも、あるいは不利益をこうむろうとも、さらに教会が胡散臭い目で見られようとも、主は私たちに死を超えて続く平和と平安を与えてくださいます。