聖書 創世記32章23~33節、コロサイの信徒への手紙1章21~29節
奉仕の苦労と喜び
昨日は心に残るコンサートを聞くことができました。最後に演奏した「安かれ、わがこころよ」という歌の中に「憂いは永久に消えて」という歌詞がありました。私たちはいろんな憂いを持って日々を過ごしておりますけれども、神様に信頼して歩むならば憂いは消えるのであります。昨日のコンサートの準備や片付けの時に私たちの心は燃えたではありませんか。とても疲れましたけれども、それは心地よい疲れだったのではないでしょうか。このような時を与えてくださった神さまを讃えます。
私たちはある意味、やらなくて良いことをしました。誰もそれをしなさいと言った人はいません。これをしようと私たちが決めてわざわざ苦労をしました。なぜコンサートをしたのかを振り返りますと、「この地域に住んでいる人たちに生の音楽を聞いていただきたい」、また、「キリストの教えは人生を歩んでいく道しるべなのだ」ということをお伝えしたいという思いからでした。そしてその苦労はちゃんと報われたと私は思います。
ところで、やりたくない、やらなくて良いことをしたくないという思いですが、私たちの生活の中でやらなくて良いことなんてあるでしょうか。食事はしなければなりません。寝なければなりません。24時間働く、あるいは遊びたいと思っても体が許してはくれません。私たちは出来ればしたくないという気持ちを持っていますが、はたしてそれが正しい思いであるのかどうか振り返ってみたいと思うのです。
ヤコブは怯えていた
さてヤボクの渡しを渡る前のヤコブはどんな心境だったでしょうか。彼はこれから兄のエサウに会わなければならない。ヤコブは「エサウが先に使いにやった人たちの言葉を聞いてヤコブが戻ってくることを知り、400人の手勢を引き連れてヤコブの所に向かった」という言葉を聞いて不安や恐れにとらわれていました。ヤコブとヤコブの家族は殺されてしまうかもしれません。彼は兄ヤコブを裏切り、父イサクをだまして祝福を奪ってしまった過去を持っている人間です。20年間、伯父ラバンの所にいて一所懸命に働いて彼は変わりましたけれども、兄エサウはそのことを知りません。そしていまだに根に持っているかもしれません。ヤコブの心は閉じられていました、不安にとらわれていました。ヤコブは3度も豪華な贈り物を届けましたが、そこまでしても彼の不安は治まりませんでした。
神の介入の出来事
その出来事は夜に起きました。ヤコブがヤボクの渡しの所にいた時、神が近づいて来てヤコブと格闘しました。神が先に近づいてこられました。不安の中にいるヤコブの所に神が近づいてこられました。神は「よしよし、大丈夫だよ」とは言われなかった。徹底的に格闘したのです。私たちが謂わばやらなくて良いことをやるという時に私たちはもしかしたら神さまと格闘している時なのかもしれないのです。
そしてヤコブは格闘から逃げませんでした。朝まで格闘し続け、そして満身創痍でした。それでも神さまから離れなかった。「もう去らせてくれ」と神さまが言われる時に、「祝福してくださるまでは私は話しません」と神さまを求め続けました。その時にヤコブは変えられたのであります。
神は「神と人と闘って勝った」とヤコブに言われました。誰に勝ったのか、何に勝ったのかが大事なところです。ヤコブは神に勝ったのではありません、自分自身に勝ったのであります。自分自身の不安や恐れに神と格闘することによって勝ったのです。私たちもやりたくない、この事に何の意味があるのかと思うことばかりかもしれません。私たちに意味があると思うのは、私たちが楽しいことをする時で、その時は頑張ってしますが、それは不安や恐れを一時的に忘れるための刹那的な喜びに浸っていることが多いのです。本当に充実した人生を生きていくとき、自分がやらなくてもいいと思うところに鍵となるものがあるのです。私たちが何もしたくないと思って家に閉じこもっていたとしたら、それは誰とも交わらない、生きているけれどももはや死んでいる状態と言えるでしょう。そういう状態にいることはかえって辛い。誰かと交わりたい、話をしたい、笑い合いたい。それだけじゃなくて一緒に苦労をしたいという思いが実はあるのです。それはその苦労の向こうに、争いでも分裂でもなく、豊かな交わりの世界を見るから、神様によってその世界を見させていただけるから。それは幻かもしれませんが私たちがそれを追い求めていくと豊かな交わりが現実になるのであります。神は神の方からヤコブに近づかれました。彼が神に近づくより前にです。「イスラエル」とは「神と人と闘って勝った」ということを意味する言葉ですけれども、これは「自分に勝った」ということです。神は一切傷ついてはいません。ヤコブの方は満身創痍です。彼はその中で生きるとは神と共にあるということではないかということに気づかされたからこそ、「祝福してくださるまでは離しません」という言葉を発することができたのであります。私たちもそうなのです。苦しくて大変でどうしようもない満身創痍の時にこそ、神様あなたを話しません、という信仰を持てるのであります。神は私たちの苦しみをただ「大変だね」と言ってくださる神ではなく、そこから立ち上がらせてくださる神であります。若い人は若いがゆえに何をして良いか分からない。歳を取れば年を取ったがゆえに何もできないと思う。そのような中にあって神は闘って私たちを立ち上がらせてくださるのであります。
私たちが行ったコンサートは一人ひとりがいろんなところで働いてくださいました。その一人ひとりの働きが昨日来られた方たちに対する「おもてなし」というところで来場の皆さんの心に残ったと思います。この教会の入口に咲いている花や青々とした木々を見、教会の中が清潔で奇麗であることを見て、私たちが目に見えないところで働いたことが、その人たちの意識、無意識の中に残っているのです。それは私たちとその方々とをつなぐ架け橋となりました。このコンサートは演奏が上手なプロが来て演奏したからよかったというコンサートではありません。私たち一人ひとりがそれぞれ自分ができることを、これをしたら喜ぶだろうと思ってしたことがちゃんと伝わっています。だからこそ皆さん満足して帰ったのだと思います。アンコールの讃美歌の「憂いは永久に消える」という歌詞の通りのことが起きました。ヤコブほどの衝撃的な出来事ではありませんけれども、私たちにもこの事が起きたのです。
十字架は希望のしるし
コロサイの信徒への手紙で「以前は神から離れた人々」(1:21)という言葉がありますが、これはヤコブが不安と恐れの中にいた状態と同じ状態の人々のことです。その不安を打ち消すのに刹那的な行動をする。その時は心が高揚して不安が消えますけれど、その興奮が冷めるともっと深い不安や恐れに襲われるかもしれない。つまりそれは解決になっていないのです。やはり神の方から私たちに近づいてくださいます。「しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解してくださいました」(22節)。私たちと和解してくださった。まだ私たちが本当の神を知らないうちから神は私たちのために私たちのところに来て、私たちのために死ぬべき私たちに代わって死んでくださったのであります。それが主イエス・キリスト、私たちのあがない主、救い主であります。「信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)。福音の希望は神の祝福です。ヤコブが「決してあなたを話しません」と言ったその言葉通りに私たちも決して神から離れない、信仰に踏みとどまって福音の希望が私たちにはずっとあるのであります。「祝福してくださるまでは離しません」という思いをもって日々を歩んでいくことが私たちの生きる道しるべであります。私たちは不完全な者、傷のある者、ある意味ヤコブのような人間です。負い目を持っています。それは心の傷ですけれども、それをイエス様の十字架があがなって傷のない者にしてくださるのです。私たちに傷がないのではありません。私たちの傷を覆ってくださるのです。神さまの愛がイエス様の命によって私たちを救い出してくださいました。傷のない者として神の前に立てる者としてくださったのであります。「ペヌエル」(創32:31)、私たちが神と出会うところ。そういう意味では教会堂もペヌエルです。
福音は聞いて信じるものです。伝える者がいなければ福音を受けられません。福音を受ける人々がこの世の中に大勢になれば、それだけ心豊かに生きていく人が増えるということであります。聞いて自由になる、不安や恐れから解放される、というのは不思議なことですが、これが起きるのです。
キリストは私たちを必要としておられます。「キリストの体である教会のために」(24節)と書いてありますが、この教会とは私たち一人ひとりのことであり、その集合です。一人ひとりが持っているカリスマ(賜物)の集合体です。今、神学校で学んでいる神学生たちもキリストが召し出し、キリストを伝える準備をしています。私たちの中からそういう人が起こされても良いのです。私たちはそれを期待しましょう。きっとこの近くにいるんですよ、きっと。それを信じましょう。だから毎週喜んで礼拝しましょう。
「秘められた計画」(26節)が明らかにされました。これが「啓示」です。神さまが私たちに明かしてくれるのです。どれだけ聖書を研究しても真理には至りません。しかし神が私たちに啓示してくだされば、私たちは聖書に書かれていることから神の言葉を聞くことができます。「栄光の希望」(27節)という言葉は何とすばらしい言葉でしょう。この希望はキリストが持っておられます。この希望が私たちに与えられるのであります。神に大元を持つ希望。だからこそ決して消えることのない希望です。この希望は栄光に輝いています。
「十字架につけられ殺された人が神の御子である」というこのとんでもないことをパウロは伝え、わたしたちも伝えています。それはなぜかと問われるならば、私は何度でも申し上げます。イエス様が私たちに代わって罪を背負い死なれたからであります。あの十字架はみじめな死です。決して神が受けられるようなものではありません。あれは栄光ではないと皆そう思います。ところがあれが栄光なのです。この逆転。一番みじめな方が一番豊かで私たちを支えてくださる。このことに気づかされたわけです。このお方がみじめに死なれたから、私たちは生きている。そうなのであります。このお方が苦しまれたから私たちもその苦しみを共にしていくことができる。やらなくて良いことを喜んでするんです。私たちは真理を知った人間として、喜んで苦労をするのです。イエス様は言われます、「私が死ぬから、あなたは生きよ」と。ですからぜひ生きてください。交わりをもって、豊かな共に生活をする場にいてください。
パウロはこの福音を馬鹿にされようとののしられようと、傷つけられようと殺されそうになっても伝えました。それは彼のために死なれたイエス様を伝えるためでした。すべての人に神の福音を受けてもらうためでした。パウロ自身が恐れや不安から救い出された人です。そして彼は生き方を変えました。いや、変えさせられました。神を求める人となり、キリストを伝える人となりました。
キリストに結ばれよう
神を求め、神を離さない。自分がどんなにだめな人間でも神は聖なる者、傷のない者、咎めるところのない者としてくださいます。イエス・キリストの命のあがないによってそれが成し遂げられました。私たちはただ神を求めましょう。信仰に留まり福音の希望を持ち続けましょう。