「私を憐れんでください」(2016年9月18日礼拝説教)

「 私を憐れんで下さい 」
出エジプト記22:21       
ルカによる福音書18:9~17

 以前ある方から「結局キリスト教というのは、駄目人間を作るものじゃないか」という言葉を投げられたことがあります。その意味は、自分の力で努力して頑張っている人は悪く言われ、自堕落なように悪いことばかりをしている人=罪人が神様から大切にされていると語られている。人間が努力して励むことが悪いように言われるのはおかしい、結局駄目人間を作る宗教だ、というものでした。
 これはかなり答えに窮した問いかけでした。確かにそういうところがある。確かに駄目な人間を認め、限りなく赦して下さる神であられます。でも、それは、罪ある人間が―罪の無い人はひとりもおりません―神ではなく自分自身を頼りにし、務めていくという生き方の行き着く先が、果てしない深い罪と結びついて行くという、どこまでも弱い人間の罪の性質を神は知りすぎるほど知っておられる故であろうと思います。
 旧約聖書エレミヤ書17章9節に「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」という主の言葉があります。人間は、神と結びついていなければ、神を脇に置いて自分の力をのみ頼り生きるようになれば、いつしか必ず罪が絡みつく。神はそのことをご存知であられ、私たちを心に掛け、心配しておられます。人間は、自分の力を過信しすぎ、また自分の力に頼ることでいっぱいになってはいけないのです。
神は人間が自分で出来る限りの努力をすること、また神の力を借りずに人間の力で出来ることは人間に任されます。それは、人間を人格のある存在として重んじておられるからです。しかしそれと同時に、神は人間の罪が憐れでならない。罪にあえぐ人間を助けようとされるお方でもあられます。弱い人間の傷を包むお方であられるのです。
さらに、御自身のふところに私たちが全く信頼し、飛び込み、神の御言葉に生きることを待っておられます。罪人が悔い改め、神の元に戻った時から、神の新しい創造の業がはじまり、神との関わりの中で、救われた人の新しい努力がはじまります。そして、神が共にある努力は、必ず報われるのです。
 
 人間というのは、それにしても弱い存在です。
 土の塵で造られたと語られるこの体は弱く、また心もすぐに傷ついたりする弱い存在です。私たちの目には、今、神は見えません。神と顔と顔を合わせることが出来ません。ですから神が存在しているからこそ、今、私は存在しているのだということがなかなか分からず、神の存在を疑い、自分の目に見えるところ、自分の体や心の感じるところで物事を判断し、それが世界のすべてのように思えてしまって、また自分がすべての中心に思え、どこまでも自分を頼りにするしかなく、また自分と他者を比べて悲観したり、優越感に浸ったりする。あくまで自分というこの小さな体が中心の考え方をする者たちと言えましょう。
このようなことは、大人だけでなく、物心つき、自我が芽生えるのと同時に、私たちのうちでさまざまな形で表れていくのではないでしょうか。
私は自分が幼稚園に通っていた記憶のはじまりの時期から、自分の心にはさまざまな劣等感だとか、根拠のない優越感だとか、自分を中心とした小さな世界の中で、人と自分を比べる心があったことを思い出します。そして、自分を中心にものごとをひたすら考え、また自分は自分の力で何でもやるんだと思い、そうでなければならないのだと思った時期もありました。自分をひたすら頼ることが出来るのは、若さゆえのこともありましょう。しかし、何らかのきっかけで弱さが前面に出て来る時があります。また、誰でもやがて歳を取り、弱さを認めざるを得なくなります。それまで出来ていたことが出来なくなります。それはとても辛いことです。
しかし、そのような時こそ、自分の力が無いと思った時にこそ、はじめからおられ、私たちを形づくり、目には見えない力で絶えず私たちを覆い続けてくださった神に気づき、自らを神に委ねることが出来るのではないでしょうか。その意味で、弱くされていること、そして歳を重ねていくということは恵みなのではないかと思えます。

 そして今日お読みした15節からは、イエス様に触れていただくために連れて来られた乳飲み子を、弟子たちは「子どもたちまで連れて来るな」と叱りましたが、イエス様は乳飲み子たちを呼び寄せられています。おそらく、病気の人、悪霊に取りつかれた人がどんどん周りに集まり、ごったがえしていた。そんな中で、乳飲み子まで来なくてもよいじゃないかという弟子たちの思いだったのしょう。
2000年前のユダヤ地方では、乳児の死亡率が4割という記録があります。生まれた子の半数近くが死んでしまうのです。何としても、愛する我が子が健康に成長してほしいという親の願いが、イエス様のもとに乳飲み子を連れて来させたのでしょう。イエス様は弟子たちの言葉を退け、そして言われました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」と。
この「乳飲み子」と語られている言葉、マタイ、マルコでは同様の箇所では「子ども」と語られていますが、ルカだけは「乳飲み子」と敢えて語って、より幼さが強調されています。この言葉は、福音書の中ではルカだけが使っている言葉で、天使の御告げを受けたマリアが、エリサベトのところに行った時に、エリサベトの胎内の子=バプテスマのヨハネが「胎内の子は喜んで踊った」また、イエス様がお誕生の時に、「幼子を飼い葉桶に寝かせた」のように、胎内の子、また産まれたばかりの赤ちゃんを表す言葉です。
 乳飲み子は無力です。まだ自分では何も出来ず、母親から与えられる乳のみを、与えられて初めて口にすることが出来る、そのように自分では何も出来ない存在です。
 そんな乳飲み子を招きつつイエス様は仰いました。「神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ない」と。
 ルカがここでわざわざ「乳飲み子」と語っているのは、ただただ与えられたものを受け取るだけ、あてがわれたものを無心に飲み続けるしかない、そのような弱さをことさらに強調しようとしていると思います。しかし、そこには、与えられたものを無心に受け入れる吸収の力、そして与えてくれる母親への全幅の信頼。この人しかいないという信頼。与えてくれる母親が居て、自分が居る。母親は乳飲み子を愛し尽くすほど愛しており、乳飲み子は、その愛に自らを明け渡し生きている。
この関係は、父なる神と、私たちに求められる信仰の姿でもあります。キリスト教信仰は、まず神がおられて、私がある。私たちはついつい自分中心に何事をも見る癖がありますが、私たちは、神に造られ、神の愛と支配の中に造られ育まれ、生かされている者たちです。「私」よりも、絶えず神が神の愛が先にある信仰であり、それであればこそ、弱い肉体を持った自分自身を頼りにするのではなく、私たち自身を、私たちの造り主なる神に「明け渡す」ということが、とても大切なことなのです。

 さて、今日お読みしたルカによる福音書19章9節からは、先週お読みした1~8節と、テーマが「祈り」であるということで結びついています。先週のやもめの祈りは、「粘り強い祈り」は神を動かすというメッセージでありました。そして今日お読みした譬えは、「自分が正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人」の祈りと、「自分は罪人だ」と胸を打つ徴税人の祈りが、イエス様の譬え話として語られています。そして、イエス様の子どもへの祝福が続きます。
先週お読みした最後8節に「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と主が語っておられますが、この言葉で繋がっている祈りに関する譬え話は、「神の国にはどのような人が入るか」ということも、大きなテーマとして語られています。

 二人の人が祈るために神殿に上りました。一人はファリサイ派ユダヤ人であり、もう一人は徴税人です。
 この二人がまさか一緒に仲良く神殿に上っていったわけではないでしょう。神の目に、ふたりの人が神殿に上る姿が殊更に目に留められたということでしょう。
 エルサレム神殿の階段は、二段上ると二段目は少し広くなっていて、一歩歩いてからまた一段二段上る、という階段になっています。同じ幅の階段ですと、駆け上がることが出来ますが、二段毎に幅の違う階段ですので、駆け上がることはとても難しい。神殿への階段は、駆け上がらないで、ゆっくり一歩一歩踏みしめて上っていくために、そのような構造になっていたのだとエルサレムに行った際、ガイドの方から聞いた記憶があります。
 そのように神殿に上る人たちは、それぞれの祈りを持って、一歩一歩踏みしめて、礼拝するために神に向かって歩んで行ったのです。神殿に上るふたりのそれぞれの姿を、思い浮かべてしまいます。きっとファリサイ派の人は堂々と敬虔なそぶりで神に受け入れられている者として、階段の中央を上って行ったのではないでしょうか。そして、徴税人は、重い足を引きずるように、俯いたまま、階段の隅の方を、目だたないそぶりで歩を進めて行った、そのように想像いたします。

 神殿の中央の至聖所と犠牲を献げる祭壇の、その周りを取り囲むように「男子の庭」と呼ばれるユダヤ人男性のみが入れる庭がありました。その外側に「女子の庭」と呼ばれる、ユダヤ人の女性が入れる庭があり、それらは柵で囲まれており、柵の外側が「異邦人の庭」と呼ばれる、ユダヤ人以外の人々も入れる庭がありました。
 徴税人であってもユダヤ人男性であれば、「男子の庭」まで入ることが出来ます。ファリサイ派の人は、勿論神殿の中央、「男子の庭」まで入ったことでしょう。そしてこの徴税人も、おそらくはユダヤ人であって、このファリサイ派の人の目の届く範囲に、しかし、後ろの方、「遠くに立って」祈ったのでありましょう。ファリサイ派の人は、おどおどした態度の徴税人が居るのを見て、「悪いことに手を染めている救われない愚かな罪人」くらいの目で見て、わが身と比べて見下した目で一瞥したのではないでしょうか。わが身を高みに上げ、人を見下す態度で、このファリサイ人は祈っておりました。
 このイエス様がこの譬えを語られた、「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」とは、このファリサイ派の人のことを指しているに違いありません。

 この「うぬぼれる」と訳されている言葉を直訳すれば、「自分自身を頼りにする」「頼みにする」となります。口語訳、新改訳聖書では「自分を義人だと自認する」と訳されています。新共同訳は、自分自身を頼りにしているということを、「うぬぼれる」という悪い意味合いが響いているものとして、このように意訳を交えて訳したのだと思われます。しかし、文字通り「自分自身を頼りにする」という意味に取る方が、イエス様がここでファリサイ派の人を非難される理由に近いと考えます。
 このファリサイ派の人の祈りを読んでみます。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取るもの、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」
 この人の祈り、呼びかけは「神」に対してのものですが、その他の言葉の主語はすべて「わたし」です。神に感謝はささげてはおります。しかし、この人の感謝の内容に、神の助けも、神との関係性も必要ありません。この人が語っているのは、自分の正しい行いを並べて、自分を誇り、自分はそのような者であることを感謝しますと語っているのです。自分は律法を守る者だから神の御前に罪を犯していない、そのように誇りを持てる自分であることへの感謝であり、また、後ろで胸を打ちながら佇む罪人の頭と言われている徴税人のような者で自分がないことへの感謝であり、さらに週に二度断食をしている、そのような自分である事も感謝の内容です。
 断食については、律法では年に一度の大贖罪日と呼ばれる日に行うことが命じられているだけなのですが、この人は週に二回断食をしていると語っています。イエス様の時代のユダヤ教では、断食の日が増えてきており、週に二度、火曜日と木曜日に断食をするようになっていました。でも、強制ではありません。この日は市場の日、買い物の日であったそうで、大勢の人で外は賑わっていたそうで、そのような中で断食をする姿、その敬虔に見える姿を人に見せるための絶好の機会であったと言います。この人の断食は人に見せるための断食でありました。さらに律法に基づき、十分の一を献げる者であると言う誉れも語られています。しかし当時獲得したものすべてについて十分の一を納める必要もありませんでした。
 この人の祈りから窺えるのは、実際に熱心なユダヤ教信者であり、努力家であったということです。そればかりか、「守るべき掟」以上のことを実践しています。そして、すべて自分に頼り、すべて自己完結しています。
 人間は誰しも弱い存在ですが、その弱さをこのファリサイ人は、自分に頼ること、努力によって克服しようとしました。さらに、その努力による自分の正しさの故に神の前に立っていられると思っている。努力は尊いですが、その努力をする自分を高めることになり、神がその人に働く隙を与えず、いつしか自分の正しい行いのゆえに他人を見下すようになっている。自分に頼るあり方というのは、自分の誇りが強くなり、上=神よりも、横=人が気になるようになり、人との比較の中で自分を高めて慢心しており、絶えず人を心で裁き続けるのです。

 それに対し、徴税人の祈りは短い、叫びとも呻きとも取れる言葉です。ユダヤ人は祈りの際、立って両手を上げて、天を仰ぎ祈る、という姿勢を取ることが多かったということですが、彼は遠くに佇んだまま、自分の犯した罪を恥じて、目を天に上げることも出来ません。横も見ることなく、徴税人は、ただ自分の内奥を見つめ、胸を打って苦しみ呻くように叫んだのではないでしょうか。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」打ちひしがれ、それ以上言葉が出ないのです。「憐れんでください」とは、神の自分の人生への介入を祈る祈りで、罪によって分かたれている神との交わりを求める叫びです。この徴税人は自分の罪を知り、ただ、神に自分のすべてを明け渡し、神の憐れみを乞うたのです。
イエス様は、「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」と言われました。さらに「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と。
徴税人のしたことはこれだけです。赦される時点で、彼がしたことはただ神の憐れみを求めただけでした。
 この徴税人は、自分の罪を知った後、ひたすら神との関係の中に身を置き、他人を見ることはありませんでした。自分自身のその深い部分を見つめ、胸を打ち叩いて悔い改めました。他者を見る余裕など彼にはなかった。自分が罪人であることを知り、神の御前に胸を打ちつつ、ただひとりで立ったのです。そしてただ神に、自分自身の心の叫びをすべて明け渡したのです。
 この叫びと神への明け渡しは、神に受け入れられました。神はこの罪人である徴税人を義とされ、赦し、家に帰りました。この徴税人は赦された者として、新しい命を得、主が絶えず共にある新しい生き方へと歩みを変えたに違いありません。そこには、新しい、主が共にある人間としての努力がなされることでしょう。
 
 自分自身の内にある罪に気づいたならば、神の御前に悔い改め、神に自分を明け渡し、憐れみを求める者でありたいと願います。憐れみ深い神は、悔い改める私たちを必ず回復してくださいます。
 私たちにはそれぞれ弱さがありましょう。しかし、その弱さは神の憐れみに出会うため神によって備えられた弱さであるのかもしれません。そして、弱さを通して、また人間の「欠け」ているところを憐れまれ、神は御自身を顕してくださいます。弱い部分を通して、神は私たちを助けてくださいます。「力は弱さの中で働く」(二コリント12:9)のです。

 そこから罪人である私たちの新しい、神と共にある人生が神と共に拓かれていきます。神と共にあって自分の道を正していく努力を、神は必ず省み祝福してくださいます。今週も主に向かって希望を持って歩みましょう。