「 天から与えられている住みか」
ダニエル書12:1~4
コリントの信徒への手紙二5:1~10
この体は私たち人間の目に見える体、私たちの存在そのものと言えましょう。そして世に於いて、さまざまなことがあれど、神によって与えられたこの体で、絶えず心を高く上げて希望を抱き、存分に生き抜くことが、神の御心でありましょう。
それと同時に、キリスト教信仰は、はっきりと死を語ります。今生かされているこの体で、世をどのように生きるかということと同時に、聖書は死とその先にある命を語るのです。
何よりイエス・キリストは、神であられるのに、人となられて体を持ってお生まれになり、その最期はその人間としての体をもって十字架に架かり死なれました。苦しまれ、血を流し、死なれました。しかし、イエス・キリストは死を打ち破り復活されました。これは、私たちの聞く、福音の言葉、信仰の言葉です。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(一コリント15:3)とパウロが語っているとおりです。
キリスト教信仰は、世に於いて希望を持って生きるということと共に、自らの死を見つめ、さらにその先にあるイエス・キリストの復活に与る命がある、ということを明確に語る信仰です。
私たちが週に一度、こうして礼拝をすること、その意味も私たちは自分が「死すべきものであることを知る」「死を見つめる」ということと結びついています。この聖餐卓は、人となられた神の御子キリストが私たちの罪の犠牲となって死なれた、そのことを表すものです。私たちの前には絶えず、私たちの罪に代わって死なれた、キリストの犠牲の死があります。そして、その先に顕された復活の命、永遠の命を、私たちもいずれ共に与る者として、希望を持って見据えつつ、主の復活を記念する日曜日の朝、今日もここに集められています。
そして、私たちが今、ここに集められているのは、神の霊であられる聖霊の働きによります。聖霊とは、天の父とイエス・キリストの元からこの地に降り注がれ、私たちの間を駆け巡り働かれる神の霊であられ、また、イエス・キリストを主と告白した者たち、ひとりひとりの内に与えられ、私たちの「内なる人」(二コリント4:16)を造り替え、世にあって私たちを神の支配の中にある者として生かす霊であられます。パウロは本日お読みしたコリント二5:5で「神は、その保証として〝霊″―この霊とは聖霊の事です―を与えてくださったのです」と語っています。
「保証」という言葉は、商業用語で、後に何かを得るための「手付金」に当たる言葉です。何の「保障」「手付金」なのでしょうか。そのことも含めて、お読みした箇所を読み解いて参りたいと思います。
今日は使徒パウロの手紙を読んでおりますが、パウロの語ることを語ろうと致しますと、どうしても理屈っぽくなってしまいます。パウロは聖霊の強い促しによって神の言葉を宣べ伝え続けた人であると同時に、律法に精通し、またギリシア文化にも長けている学問的な人でもあり、特にコリントという非常にギリシア的な町の人々に語る福音の言葉というのは、とても理屈っぽく理論的で難しく思えるところがあります。今日の箇所はそのような箇所のひとつでありましょう。でも、語っていることは、私たちのこの世の論理、理論ではなく、神の側の論理ですので、時にこんがらがるほどパウロの言葉は難しいのです。
さて、人は心と体を持っている、と私たちの多くは思っています。しかし、よく考えますと、心というのはその人自身のありようと言えましょうから、人が心を持つ、という以上に、心はその人だ、と言えるのではないでしょうか。
体はどうでしょうか。私たちの体は、私たちの世への誕生と共に与えられたものです。生まれつき、体に何らかの重荷を背負っている方がおられ、また、その体に優れた運動能力を持つ人もおられます。この意味で、体というものは「肉体」として、それぞれ与えられたものがあります。しかし、「体」というものはそう単純ではありません。例えば「体の具合が悪い」とか「良い」とか、私たちは、自分の体の状態を語ります。それは、運動能力などの肉体の特徴を超えて、心の具合によって体に変調を来たすことは大いにありますし、体と心は密接に繋がっているということは、現代医学でも立証し語られていることです。すなわち、人間は体そのものであるとも言えるのではないでしょうか。
心は人間そのものであり、体も人間そのものであるのです。
創世記2章7節に「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と語られています。これは、聖書の人間観の根幹を成す御言葉です。神によって土の塵から形づくられたものに、命の息=神の息を吹き入れられて、神の形づくられた土の塵が躍動し生きる者となったと語るのです。「躍動する」と申しましたが、これは原文の直訳に近いものだと思います。吹き入れられたのは神の命の息であり、命の息によって、土の塵から形づくられたものが、命の躍動する存在となった、それが聖書の語る人間の姿です。
これに対し、ギリシア的な人間観に於いては、肉体があり、肉体に「魂」と呼ばれる目に見えない人格が宿っているのが人間であると考えます。魂と肉は分かたれていて、肉体とそれが所属する物質界を絶対的な悪で最下層のものと見て、魂は物質界という最下層から脱出し、幾層もの霊界を通過して最上層の神的な光の中に帰還するということ語っています。これはグノーシスと呼ばれるキリスト教異端にも入り込んでいる考え方で、初期の教会は、このギリシア思想の系統を受け継ぐ思想に混乱させられました。
しかし、日本的な感覚では、死ぬと魂が体から離れると語ったり、「魂」を「幽霊」「火の玉」のように捉えたりして、仏教の影響を受けて輪廻転生を当たり前のように受け入れている死生観であると思え、どちらかと言えば、聖書よりも大いにギリシア的なものに似ていると思います。
しかし、聖書の考え方では、あくまでも吹き入れられたのは、神からの「命の息」であって、形の無い「魂」ではありません。
この「魂」という言葉は難解な言葉で、皆様もこの言葉から受けるイメージをそれぞれ持っておられると思います。聖書に於いても多く「魂」という言葉が使われておりますが、先ほど申し上げましたようなギリシア的な「魂」という言葉と、聖書に書かれている「魂」とは意味が違います。聖書に於ける「魂」とは、神が形づくられた土くれに、命の息が吹きいれられて、躍動する命となりましたが、その「躍動する命」そのものを、肉体、体も含めて「魂」と呼んでいます。聖書に於ける「魂」とは、人間の体と心そしてさらには霊、すべてを含む、―ここで強調したいのは、体も含むということです―神によって生かされている存在そのもの、生きる存在のすべてが「魂」であるのです。聖書に於ける人間の存在というのは、体と心を分けたものとしては考えていないのです。
そのような意味で、パウロという人は、人間の総体である「魂」の重要な要素である「体」ということに非常に拘った人だと思います。
幼い頃からモーセの律法に親しんだユダヤ人であるパウロの持つ人間観というものは、体と切っても切り離せない、「土の塵から形づくられたものに、命の息を吹き入れられ、生きた魂となった」という、旧約聖書の人間観そのものを持っている人であるのです。
そして本日お読みしたコリントの信徒への手紙二は、そんなパウロの書いた手紙です。
この手紙は、紀元54年~55年に掛けて、パウロが第三回目の伝道旅行の中、エフェソ~マケドニアでコリントの教会に宛てて書いた数通の手紙が纏められてひとつの書簡として残されたものと考えられています。
パウロの伝道の旅というのは、多くの困難を通ってきた旅でした。この手紙の11章にパウロの伝道の旅の中で起こった苦難について、パウロは語っています。「鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げられたことが一度、難船したことが三度。昼夜海上を漂ったこともありました。」(11:23~24)と、まだまだ受けた困難についてのパウロの言葉は続くのですが、初期のキリスト教徒というのは、迫害や困難の中、命の危険にさらされながらも信仰を守り抜いた人々でありましたが、パウロはその中でも最たる人であったと言えるのでしょう。パウロは絶えず自らの死を意識しつつ、宣教の働きを続けていたと言えます。
パウロはファリサイ派ユダヤ人です。生まれながら、律法に親しみ生きてきた人でしたが、イエス様と弟子たちを迫害し、躍起になって捕らえて牢に入れようとしていた、そのような人でしたが、復活のキリストに出会い、その生き方が180度変わりました。そして、パウロはその身を以って、自分の育まれてきたファリサイ派ユダヤ教で教えられていた、本日お読みしたダニエル書12章に書かれている「終末の救い」「復活信仰」というものが、イエス・キリストにあって真実にどのようなものであるのか、ということを神からの啓示、またさまざまな知恵を通して知るようになり、それを語り伝えるようになりました。
そして今日の箇所では、終末の救いの完成、復活について、パウロが語り始める箇所となります。
パウロは申します。
「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています」。パウロは、信仰によって、神によって既に備えられているものを見据えています。それは、人の手によって造られたものではない天にある永遠の住みかであると語ります。
「幕屋」というのは、旧約聖書で出エジプトをしたイスラエルが、ソロモン王の時代に神殿を持つに至るまで、契約の箱が置かれ、また動物の犠牲を献げ、神を礼拝していた場所です。畳んで持ち運びが出来るような簡素な設計のものです。パウロはここで、「地上の住みかである幕屋」という言葉を使って、私たち自身である、この地上で与えられている体と、この体によって見て、また生きる状況、この世に於ける命のことを語っています。そして、この「幕屋」という言葉は、6節で「体を住みかとしている限り」とパウロが語る「体」とほぼ同じ意味です。
「幕屋」というものは、人の手によって造られたものです。また畳み持ち運ぶことが出来るのですから、いかにも簡素です。必ず無くなる時がやってきます。人の手によって造られたもので永遠に存続するものはありません。それと同様に私たちの「体」は、永遠に存続するものではありません。必ず「死」がやってきます。そして永遠に存続するものは「目に見えないもの」であり、パウロは信仰によってそれを見据えて、この幕屋=体による歩みをしているのだということを、語るのです。
パウロは、世の死を超えた、永遠の住まいを上に着たいと望んでいます。このような思いは、パウロの宣教の働きが死と隣り合わせであったために、「永遠の住まい」が身近に感じられていたと言えますし、また、ただただ、主のもとに住みたい、主と共に居たいと願う信仰が、パウロのうちで確かなものとなっていたのでありましょう。
しかし、「永遠の住みかを上に着たい」というこの「着たい」という言葉は、ちょっと不思議です。「永遠の住みか」と言いますと、「天国のことを語っているのかしら」と私たちは思ってしまいがちですが、ここでパウロは天国のことを語っているわけではありません。パウロが語る「永遠の住みか」とは、終わりの時、キリストの再臨と共に与えられる「復活のからだ」のことを語っているのです。
パウロはここから、復活の体について語り始めます。復活の体とは、私たちのこの世の死とも密接に絡み合う、神の神秘の領域の話と言えましょう。
パウロがここで語る「この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」という言葉は、この体に於いてこの世で生きる生というものに対し、パウロ自身の現実的な苦難と重なるように思えます。また、私たちそれぞれの世に於ける限界と言いますか、苦しみにも重なるように思えます。それらも、重なり合ってパウロは語っているのでしょうが、しかし寧ろ、パウロがここで語りたいのは、「復活への希望」です。
「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」
これも不思議な言葉ですが、パウロは、地上の幕屋=体を脱ぎ捨てても、すなわち、死を迎える時、地上の幕屋なる体を脱ぎ捨てる時にも、「わたしたちは裸のままではない」と言うのです。「裸」というのですから、体がなければ裸はありません。ユダヤ人であるパウロにとって、死とは、いわゆる「霊」や「魂」と言われる形のないものが、体から抜け落ちて、より高い次元を求めて新しく転生をするために、新しい肉体を求めることではありません。
キリストを信じる者たちの、「私自身」を表す幕屋なる「体」は死んでも、人間の目には見えない「体は有る」、そのような理解です。「外なる人」「土の器」なる地上の幕屋、体は、誰しも死んだら、骨になり葬られるわけですが、恐らくは「見えないもの」として「体」はあり、復活の主なるキリストを信じる者たちは、「天から与えられる住みか」を新しく「着る」のです。裸にはされずに、新しい衣を纏うのです。それは命=永遠の命へ飲み込まれる体です。そのようにして、命=永遠の命=神と共に住む命へと、神の支配の中にすっぽりと飲み込まれ、神と共に永遠に生きる者とされるのです。
そのような永遠の命への保証として、世に於ける体に、神は聖霊を、キリストを信じる者に与えてくださったのだとパウロは語ります。聖霊とは、神、イエス・キリストの霊であられ、キリストを主と告白し、イエス・キリストを信じる者の地上に於ける幕屋、体の内側に住まわれ、キリストを信じる者たちを、神に似た者へと変革をしていく、神の力です。キリストを信じる私たちには聖霊が既に与えられています。
地上を住みかとしている限り、主と離れています。そしてただ、見えないものを見る信仰によって、世の困難な歩みを超えた希望を見据えて歩む私たちです。しかし、罪を悔い改め、キリストを信じる者たちのこの世の歩みには、「天から与えられる住みか」が、必ず与えられる保証、手付金として、今、聖霊が与えられているのです。神が霊として、私たちのもとに来て下さったのです。神の方から、神と離され世を生きる私たちの元に近づいてくださり、さらに私たちのうちにお住まいになられているのです。ある学者は、このことを「聖霊は私たちの体を、天の国の大使館のように住んでおられる」とこのように語りました。
このことを信じる人は幸いと思います。神が絶えず共におられることを知ることが出来るからです。そして、そのゆえにパウロは「わたしたちは、心強い」(8節)と語っています。
そしてさらに、「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」とパウロは語ります。なぜなら、わたしたちは皆、終わりの時、キリストが再び来られる時、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ、悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて報いを受けねばならないからです。終わりの時、すべての者は、キリストの前に立つ。これも、聖書が明確に語っていることです。だから、パウロはその時、主に喜ばれる者でありたいと語ります。そして、このことは私たちにも勧められていることです。
ここでパウロが語ることは、私たちには不思議に思えます。私たちの目には見えないことであるからです。しかし、私たちは、パウロがここで語る信仰の言葉を、信じる者でありたいと願います。
そして、今、私たちは、聖霊を受けて、「天から与えられる住みか」を上に着る日―キリストが再び来られる時―を待っているのだ、パウロがそこを信仰によって見て、この地上の体を生きていたことを、私たち自身の希望とし、それぞれの歩みを全うしたいと願います。その時まで、世に於けるキリストの体としての教会の枝として、週のはじめの朝毎にここに集い、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を、私のものとして感謝しつつ受け、神を礼拝する者でありたいと願います。
私たちには、この体の命を超えて、永遠に神と共にある命が、既に保証されているのです。希望を持って歩みましょう。