聖書 箴言13章6~7節、ヨハネによる福音書6章9~15節
子供の成長に感謝
今日は成長感謝礼拝として礼拝をおこなっています。この礼拝は子どもたちが健やかに成長したことを神に感謝し、これからも子どもたちが主に守られて成長し、主を知って信仰を告白するように祈るものです。
聖書には子どもが生まれると神殿に行って神に子どもを献げる記事が書かれています。イエス様の両親は清めの期間が過ぎるとイエス様を主に献げるために神殿に行きました(ルカ2:22-38)。預言者サムエルの母はサムエルを文字通り主にささげました(サム上1:21-28)。日本でも昔は子どもの死亡率が高く、生まれても多くの子どもが死んでいましたからある年齢に達するとそのことを神に感謝することがおこなわれていました。私たちの教会では11月の第2主日にこれをおこなっています。
子どもたちは小さな存在ですが、成長すると逞しくなり、神様のために働きを与えられます。子供の成長のためには親が養育するだけでなく、子どもたちが神の家族の一員として会堂に集い、神に感謝することや、お互いに赦し合うことを学ばなければなりません。そこには信徒である教会員がかかわります。土気あすみが丘教会でも子どもの教会に子どもたちが集います。子どもたちが神さまを知るようになるのはこのような環境があってのことです。一日も早くコロナ感染症が治まって子どもの教会を再開できるように祈りたいと思います。
箴言の言葉―価値観の転換
本日与えられた御言葉に聞いてまいりましょう。旧約聖書の箴言13章6節の御言葉は聖書協会共同訳では次のように翻訳されています。
「正義は誠実な道を保ち、悪事は罪人を誤らせる。」
先ほど読まれた新共同訳聖書よりも、こちらの方が意味が分かるように思います。すなわち、神の目に正しいことを行うことは主の道を歩むことであり、悪事を行うことは人を滅びの道へと向かわせる、と言うことです。子どもたちがこの言葉を知るならば、神の目に正しいことをおこなう人になるという目標を見つけることができるでしょう。
7節はどちらの聖書もほぼ同じ訳ですので新共同訳聖書を読みます。「富んでいると見せて、無一物の者がいる。貧乏と見せて、大きな財産を持つ者がある」。この言葉は実に奥が深いと思います。「富んでいると見せて」と書かれていますが、これは原典では金持ちのことです。「貧乏と見せて」はお金に乏しい人のことです。つまり「金持ちだが無一物の者がいて貧しい者だが多くの富を持つ者がいる」と書かれています。まだ社会に出る前にこの言葉に触れ、この言葉の意味を知るならば間違った人生の道を進むことはないでしょう。この言葉を聖書全体に照らして解釈すれば、お金が絶対の価値ではないということを示しています。もっと価値あるものがあることを教えています。それは愛とか、友情といった目には見えないものです。他にもたくさんあります。親切や善意もそうです。奉仕や祈りは大切なものです。一番大切なことは神さまを知り、神様と共に人生を歩んで行くことです。人生におけるまことの価値観を身につけるならば、人は豊かに生きていけるのです。これらのことは子どもたちだけに語られるものではなく成人した大人も老人も心にかけていなければならないことは当然であります。
イエス様は子どもの差し出したものを感謝して用いた
次に新約聖書のヨハネの福音書6章9節から15節の御言葉に聞きたいと思います。ここはイエス様が少年の差し出した大麦のパン五つと魚二匹を神に感謝して男性だけで5千人、全体では1万人以上の人たちを満腹にした奇跡が書かれています。このような奇跡は人をつまずかせます。聖書に証しされている神の言葉を聞く前に、この事柄を拒絶してしまいます。しかし今日はこの個所が私たちに何を示しているかを聞いていただき、判断してもらいたいと願います。
ここには人数にカウントされない子どもと大勢の群衆の役には立たない食べ物が登場します。イエス様のお弟子さんはイエス様に言いました。「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。弟子は与えられているものを見て知っていましたが、それを役立てようとは考えませんでした。たぶん人は誰でもそう思うと思います。当時の記録によれば大人の一食分にはパン3個が必要だったそうですから少年が差し出した食べ物は二人分にも足りないものでした。
しかしイエス様はそれらを神に感謝して皆に欲しいだけ分け与えられました。するとすべての人が食べて満足したのです。食べ物が増えるというのは私たちの常識では考えられません。しかしここではそのことが起きたのです。この奇跡が起きたのは、この個所には書かれていませんが、イエス様が大勢の群衆を憐れまれたこと(マコ6:34)と少年の差し出した食べ物を心から喜び神に感謝したことにあります。人は神を信じると言い、神は全能だと言いながらも、神の力を信じ切れないところがあります。イエス様が示してくださったのは神の偉大さを知り、神を完全に信じて、祈ることです。このことなくして奇跡は起きません。
聖書には「求めなさい。そうすれば、与えられる。」(マタ7:7)というイエス様の言葉が記されています。また「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタ6:33)という言葉も記されています。神さまの力を信じないことも、神さまが何とかしてくださると思って何もしないことも、どちらであっても奇跡を見ることはできません。イエス様が示されたように神に感謝して、人のために祈るならば神は私たちを憐れみ、私たちが考えることもできないような奇跡を起こされます。与えられたものが増えるのは神の国を建て上げる神さまの力ある働きのしるしです。「神の国はからし種に似ている。庭に蒔くと鳥が巣をつくるような大きな木になる」(ルカ13:19)という小さなからし種が成長するイメージです。
さらにイエス様は「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われました。するとそのパン屑で12の籠がいっぱいになりました。このパン屑は散らされた神の民、すなわちキリスト者一人ひとりです。『十二使徒の教え』という聖書が今の形になった頃に書かれた書物があります。その中の第9章4節に、この個所に基づく次の文章が書かれています。
「山々の上に散らされていたこれらのパンが集められて一つにされたように、あなたの教会が地の果てからあなたの御国へと集められますように。栄光と力はイエス・キリストによって永遠にあなたのものだからです。」
このような言葉です。この個所には、共に食事をすること、イエス様を信じる人々が神の国に集められることが書かれているということが分ります。
14節と15節には人々がイエス様の神の国への招きを誤解していたために、イエス様がひとりで山に退かれたことが記されています。この世の常識が邪魔をして、私たちがイエス様の業を理解するのは難しいことが知らされます。しかしイエス様は言われます。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マコ10:15)。
そうなのです。子どものように素直にイエス様の行いを受け入れ、その言葉を聞くならば私たちは神の国にいるのです。
共に食事をする大切さ
施設にいるある子が食事を食べなくなりました。その子に聞くと「とても不味くて食べられない」と答えたそうです。でも食事は、豪華ではなくても、美味しく栄養のあるものでした。それを聞いた人は原因を探りましたが好き嫌いといったものではなかったそうです。そして辿りついたのは、その子には友達がいなくていつも一人で食事をしていたということでした。私たちにも経験があるのではないでしょうか。一人で食べる食事は味気ないものです。会話がなく味わって食べるというよりも栄養を口に入れるといった感じです。現代社会では一人で食べる孤食が増えているように思います。それは社会の仕組みの変化が家族のありように影響を与えているからでしょう。家族の概念が変わらない限り、この問題の解決にはなりません。核家族化が進んでしまい、しかも地域で子どもを育てる文化や習慣が廃れてしまうと、子どもも親も食事を楽しむということを忘れてしまいます。時間に管理され、時間に追われる生活では楽しむ余裕すらなくなってしまうでしょう。
イエス様が祈り、父なる神が現わされた大勢の人の食事は、神の家族が共に食事をする喜びを私たちに伝えています。満腹したという表現には、満足したとか喜んだという意味を読み取ることができます。しかもイエス様は神の家族をご自分の元、神の国に一人残らず招いてくださることも教えられました。
神は僅かなものもお用いになる
5つのパンと2匹の魚は私たちの目には取るに足りないもの、あっても役に立たないものの象徴です。私たち自身も自分の存在をそのように感じているところがあるかもしれません。しかしそれを神に感謝して用いるならば、神は偉大なことを成し遂げてくださいます。数も数えてもらえない存在すら認められない少年が差し出した、僅かなものを、イエス様は感謝してお用いになりました。