12月4日待降節第2主日礼拝説教「救いを待ち望む」

聖書 イザヤ書55章10~11節、ルカによる福音書4章18~21節

一年を振り返って

クリスマスが近づいてきました。コロナ感染症の影響もあってか、町の中はそれほどイルミネーションにあふれていません。住宅が多いこの地域は昔からこのようなアドベントの雰囲気なのかもしれません。落ち着いた雰囲気で私にはかえって好感が持てます。夜、教会に来てみますと庭のツリーの明りが輝いていて、クリスマスが近づいているのを感じます。ろうそくの明かりのような色の小さな明りが沢山輝いていて、教会がクリスマスを待ち望んでいると言うことを思わせます。そしてここを通る人たちがこの光に希望を感じてくれたらと思います。昼間に来ますと赤と緑のクリスマスカラーを基調に彩られたいろいろな飾りが目に入ってきて、落ち着いた雰囲気の中にもクリスマスの喜びが感じられます。

この1年、世界を見ればウクライナでの戦争、香港や台湾をめぐる緊張、各地での人権弾圧の継続などがありました。国内では元首相暗殺事件、宗教カルト団体と政治との癒着の問題、コロナ生活3年目、酷暑、大雨、台風などの自然災害など、大変な1年でした。しかし良い事もありました。土気あすみが丘教会は無牧師期間を皆で支え合って乗り切り、牧師を招聘することができました。私は素晴らしい教会に招かれました。そして私たちはこの地で神を礼拝することを続け、御言葉を宣教し続けました。色々な出来事に一喜一憂しつつも、神に従って過ごしてきたことを思い起こすと、神への感謝の気持ちにあふれます。

神の言葉が果たす使命と成し遂げる神の望み

本日与えられた旧約聖書はイザヤ書55章10節、11節です。ここには雨や雪が大地を潤して実りを与え、再び空に帰っていくという譬えによって、「神の言葉は神から発せられると、この世界に働いて神の使命を果たし、神の望むことを成し遂げて神のもとに戻る」という神の言葉が、預言者イザヤの口を通して告げられています。この言葉はとても力強いと思います。人間の言葉が空しいだけに、神の言葉が力強く響いてきます。この言葉は神の民に告げられた約束の言葉が成就することを確証しています。

さて、雨や雪は地上の生き物が生きるために飲み水として必要ですし、草木が育つためにも必要ですが、神の言葉が果たす使命と成し遂げる神の望みは何でしょうか。このことについて新約聖書に聞いてい参りたいと思います。

弱くされた人々を大切にされる神―誰が弱くされた人々?

本日与えられた新約聖書のルカによる福音書4章18節から21節にはイエス様の最初の宣教のことが書かれています。イエス様は受け取ったイザヤ書の61章1節を読まれました。そこには次のように書かれています。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

このような言葉です。ここに出てくる人々は「貧しい人」、「捕らわれている人」、「身体や精神が不自由な人の代表」、「迫害を受けている人」です。これらの人は「弱くされてしまっている人々」です。「弱い人々」ではありません。社会的な仕組みの外に追いやられている人々です。今日の言葉で言えば、「自己責任と言われても社会の仕組みが変わらない限り自己責任では生きられない人々」のことです。イエス様が読まれたイザヤ書の言葉は、そのような人々を救い出すメシア、すなわちキリストが来られるという預言の言葉です。

イエス様はこれを朗読した後で、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られました。イエス様はこの言葉によってご自分をメシア、キリストであることを明らかにしました。

イエス様の誕生の次第を知っている人はこの言葉を受け入れることができるでしょう。イエス様の母マリアは天使から受胎告知を受け、イエス様は聖霊によって身ごもったからです。しかしその誕生はこの世の一番貧しい者、弱い者としてのお姿でした。誰がその人をキリストと認めるだろうかというほどの貧しさ弱さです。このお方こそ「神の言葉」、「ロゴス」です。

先ほど、旧約聖書の言葉で、神の言葉が果たす使命と成し遂げる神の望みは何だろうかという疑問を持ったわけですけれども、それは「弱くされた人々が救い出され、恵みの業がおこなわれ、まことの平和がもたらされる」ということです。

闇が広がるところに希望の光が輝く

いま世界では力によって現状を変更しようという大国の思惑(おもわく)が現実の脅威を引き起こしています。ウクライナも台湾もミャンマーもそうです。国内では軍事費を2倍にするという軍備増強論が議論されています。力による平和はローマ皇帝アウグストゥスが築き上げたローマ帝国がその例です。帝国内では小規模な反乱は起こりましたがローマ軍によって鎮圧され、大帝国は平和でした。しかしその帝国に生きる弱い立場の人々は声をあげることもできず、圧政に苦しんでいました。

昔の大日本帝国が第二次世界大戦にのめり込んでいったのは、いろいろな歴史解釈がありますが、力による平和を過信したためであったことが一因でした。また、国内の問題を解決するために近隣諸国の領土と財産を求めたためであったともいえるでしょう。当時の人たちは政府の宣伝にあおられて、戦況の悪化が明るみに出るまでは、そのことを熱心に応援しました。

軍備や領土拡張主義は世界に壊滅的な打撃を与えると言うことは先の大戦が証明しています。それにもかかわらず超大国は力で平和を維持する方向に向かっています。私たちはもしかすると再び暗い闇の中を歩むことになるかもしれず、弱くされてしまうかもしれません。私たちが人間的な希望に頼ろうとするならば、希望はどこにも見出せないかもしれません。それでも世界中の人々は平和共存を求め続けなければなりません。そのエネルギーを維持するのは私たちの努力では限界があります。

しかし神の救いは必ず成就するという希望に立つならば私たちは弱ることはありません。私たちの内部にある希望は潰(つい)えても、神の言葉にある希望は決して消えることはありません。私たちはこのことに信頼し、闇が深くなるこの時でも希望の灯を燃やし続けて、神の望まれる世界を目指すのです。このことがクリスマスのしるしであります。