「分からない、ということ」
イザヤ書53:1~12
ルカによる福音書18:31~34
人間の知恵で、世の中のものごとのどれだけのことを知り得ることが出来るのでしょうか。先週はノーベル賞の発表が相次ぎました。学問という知恵によって、分からないことがだんだん解明されていく、それら研究者の地道な働きは素晴らしいものです。しかし、まだまだ世は解明されない謎だらけと言ってもよいでしょう。学問的な分野で「分からない」ことは、私たちは謙虚に受け止められます。しかし、私たちに直結する問題、自分自身に与えられた人生に起こる「分からない」ことに、時に苦しみ、怒り、悩み、悲しむものです。分からないことで、特に主なる神を知らない人々には、得体のしれない人間を超えた存在があることを認識し、それを神と呼びつつ、神を呪うということも起こります。
旧約聖書の「箴言」は、知恵文学と言われ、格言のような短い知恵の言葉が語られており、分かり易く、どこを取ってもすぐに私たちの生活に適応出来る御言葉と思える聖書で唯ひとつの文書ですが、その知恵とは、ただ単にこの世で成功するための処世術ではありません。よく読んでみますと、箴言は、人間の知恵の限界というものを見抜いていることが分かります。
「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩備えてくださる」(16:9)「どのような知恵も、どのような英知も、勧めも主の御前に無に等しい。戦いの日のために馬が備えられるが、救いは主による」(21:30~31)のように、人間は知恵を尽くして生きる、しかし人間の思いを超えた、神の働きがあること、神のご計画は人間の思いを超えて行くことを告げています。すなわち神との関係にあって、人間の知恵には限界があることを、きちんと認識すること、その謙遜こそが人間に与えられた「知恵」なのだ、ということを語っていると言えるのです。
以前、「神義論」ということで、週報のコラムで「ヨブ記」について長く書かせていただきました。しかし、結論めいた結論には正直到達せず、皆様も不完全燃焼のような思いが残られたかと思います。長いヨブの苦しみと問い掛けの末に、主なる神はヨブに顕現されますが、主は、「わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみろ」(38:4)のように、御自身がすべてのものの創造主であることを告げられ、また万物の創造の時の創造世界の不思議を告げられただけで、ヨブが何故災いに遭ったのかという理由は全く説明されませんでした。ヨブには、最後まで神の秘密は隠されたままで、明らかにされなかったのです。
このように「神の秘密は隠され明らかにされない」というのが、旧約聖書のほぼ全体に於ける、実は大原則と言えるのです。
申命記28:29にこのような御言葉があります。「隠されている事柄は、我々の神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである」。この言葉自体謎めいた言葉ですが、隠された事柄は人間には明らかにされず、覆いが掛けられ、人間には律法を行うことだけが託されている、律法を行うことによってのみ、人間は神に近づき得るということなのでしょう。しかし、人間には律法を守り続けることは出来ませんでした。
しかし、旧約聖書の最後の時代には、変化があります。それは、「ダニエル書」。ダニエル書では、「神の秘密が明らかにされる」ことが語られていす。それによって終末=将来起こるべきことが告げられているのです。それまで人間の知恵には制限されていたものが取り外される、覆いが取り除かれ、知り得ないはずの隠されていた秘密が明らかにされる。隠されていたものが露わにされる、このことを「黙示文学」「黙示思想」と申します。ダニエル書に於いては、終わりの時に救い主が現れること、永遠の救いがあるという神の秘密が明かされます。しかし、それがいつ、誰によってであるのかは、隠されておりました。
ルカによる福音書9章から「決意をもって」歩みだされた、イエス様のエルサレムへの旅は、いよいよエルサレムに近づいて来ておりました。イエス様は「今、わたしたちはエルサレムへ上っていく」と言われました。エルサレムとは、イエス様が鞭打たれ、辱められ、十字架に架けられる町です。
イエス様一行は恐らくガリラヤからヨルダン川沿いの低い土地を歩いて来られ、海抜600メートルという高い土地にあるエルサレムに向かって、これからエリコを通って荒野の山道を登って行かれる、その時だったのでありましょう。エリコとエルサレムの距離は20キロ程度ですので、一日で十分歩ける距離です。
イエス様は、12人を呼び寄せて言われます。12人というのは、イエス様の12人の選ばれた弟子たち、後に12使徒と呼ばれる人たちです。特別な語りかけであることが分かります。
「今、わたしたちはエルサレムへ上っていく。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する」と。
非常に切迫した言葉です。イエス様はエルサレムでこれから何が起こるのか、知っておられます。それを知っていて、イエス様はこれから御自身が受けられる受難を弟子たちに予告しておられるのです。実はこれまでにもイエス様は二度、9章に於いて受難を予告する言葉が語られていました。二度目の時、9:45でも、「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった」と語られています。
ルカは、弟子たちに、主の苦難と十字架の意味が分からなかったということを強調して語ります。イエス様のご受難、「異邦人に引き渡され、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられ、鞭打ってから殺す。そして三日目に復活する」という出来事は、この時、まだ弟子たちの知恵では分からない、覆いが掛けられ、隠されていた出来事だったのです。
ここで「人の子」という不思議な言葉が出て参りますが、この言葉はイエス様が人であった、という意味でも語られておりますが、ここでイエス様が言っておられる意味は、独特の意味合いで、終わりの時に表れる救い主を表す言葉として語られています。
ここで、イエス様はイエス様こそが「人の子=救い主」であるとはっきり語っておられます。イエス様は御自身の父なる神から受けている使命をはっきり知っておられました。そして、それは救い主である神の御子であるご自身が、人間として、苦しみと辱めを受けること、さらに、殺され死ぬことでありました。それが人の子=救い主の世の使命でした。
イエス様が「人の子について預言者が書いたことはみな実現する」と言われた預言者とは、旧約聖書の預言者のことです。
今日の旧約朗読は、イザヤ書53章をお読みいたしましたが、これは、紀元前540年頃、第二イザヤと呼ばれる預言者が神の言葉を受けて語った預言の言葉で、「苦難の僕」とも言われている箇所です。イエス様のお生まれになる500年以上も前の預言です。
「苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。」
この御言葉をお聞きになられて、思い浮かべることはありませんでしょうか。イエス様の十字架への道程に重ね合う言葉です。
ここだけでなく、詩編22編は、イエス様が十字架の上でずっと唱えておられたとも言われえ居る箇所で、主の十字架の上の苦難と重なり合う言葉です。
そのほか、いくつも、イエス様のご生涯とその業と重なり合う御言葉、預言が旧約聖書にはたくさんあるのです。
イエス様はヨハネによる福音書5章39節でこのように語られています。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」と。
このイエス様の言葉の「聖書」とは、旧約聖書を指します。イエス様ご自身が、旧約聖書は、イエス様ご自身のことについて証しをし、書かれてある書であるということをはっきりと告げておられます。この分厚い聖書のすべてはイエス・キリストを指し示すものなのです。
そして、聖書が指し示すことは、苦しみ、人々の罪をその身に一身に帯びて死なれる、救い主の姿でありました。第二イザヤが語った預言は、今まさに、イエス様に於いて実現しようとしていました。
しかし、この時はまだ12人には、この言葉の意味は隠されていて、イエス様の言われたことが理解出来なかったのです。
そして、この後、イエス様と弟子たちは、イエス様が十字架に架かられるエルサレムへと入城します。今日お読みした箇所というのは、おそらくイエス様が逮捕され、十字架に架かられる10日ほど前の出来事と考えられます。この後、エリコで徴税人ザアカイの家にお泊りになり、その後、熱狂的な群衆の歓呼の声の中で、イエス様は子ロバに乗ってエルサレムへと入られます。その熱狂の中、弟子たちはどれほど自分たちが置かれた立場が誇らしく嬉しかったことでしょうか。素晴らしい奇跡を数々起こされ、人々を熱狂させる師=先生に、自分たちは一番近い位置にいたのですから。その先生と共に歓呼の声に迎えられて、自分たちもエルサレムへと入っていくのですから。自分たちは、他の人々とは違う特権意識、誇りがあったのではないでしょうか。そのような中、弟子たちはますますイエス様の語られた苦難の預言など、忘れてしまったのではないでしょうか。
そして、主の晩餐、最後の晩餐の席でまで、「弟子たちの中で誰が一番偉いのか」などという、人間の私欲にまみれた議論をし、その後、イエス様がローマ兵によって逮捕された時、イエス様を見捨てて逃げ去るのです。
人間というのは、どこまでも自分本位で、自分の利益や自分が重んじられることを心のどこかで望み続ける存在です。聖書は、そのような人間の姿を弟子たちを通して抉りだしています。自分の価値が人から高められた時に、いい気になってしまうと言いましょうか。そんな性質を多かれ少なかれ持っているように思えます。また、「主よ、ご一緒になら、牢にはいっても死んでもよいと覚悟しております」と言ったペトロが、自分にも身の危険が及びそうになるとイエス様を見捨てて逃げ去ったように、いざという時に、自分の言葉に対して無責任であったり、愛が無い者であったりもいたします。
そのようにイエス様の弟子たちは、イエス様の傍で誰よりもイエス様からの言葉をたくさんいただきながらも、絶えず「誰が偉いか」と競争するような有り様であり、イエス様が伝えたい本当の意味を知ることが出来ず、悟るべき本質を見ずに、自分本位な余計なことばかりを考えている、どこまでもそのような弟子たちでありました。
イエス様と共にいながら、弟子たちは、まだ自分の罪を知らなかったのです。人間の罪は、神の真実から目を背けさせます。罪の中にどっぷりと生きる時、人間には神の言葉は、その真実の意味は隠されてしまう。分からなくされるのです。その意味で、旧約聖書に於いて「神の秘密は隠され明らかにされない」ことが大原則であったのは、民の罪が深いものであり、悔い改めの無い時代であったからと言えるのではないでしょうか。
しかし、弟子たちは自分たちの師であるイエス様が、無残にも十字架の上で死なれたことを遠くから目の当たりにして、自分たちの弱さ、イエス様を裏切ってしまったことを悔やみ、苦しみ、泣きました。福音書には、ペトロが「激しく泣いた」ということが書かれてあります。彼らは悔やみ、苦しみました。弟子たちは、主の苦しみと十字架の死を前に、初めて自分の罪に、自分ではぬぐい去ることが出来ないほどの罪に気づいたのです。
そんな弟子たちに、隠されていたことが明らかされる時がやってきます。それは、ルカによる福音書24章。イエス様の逮捕と共に逃げ出した弟子たちが、エルサレムでひっそりと身を寄せ合っていた家に、復活された主イエス・キリストが、突然彼らの居る部屋の真ん中に立たれたのです。亡霊だ、とうろたえる弟子たちに、御自身が生きていることを魚を食べることによって証明され、そして、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(44節)と言われ、さらに、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と語られ、「あなたがたはこれらのことの証人となる」と言われたのです。イエス様を裏切った弟子たちが、主の十字架と復活の証人となると語られたのです。そこには、主の弟子たちへの全き愛と赦しがありました。
これが、弟子たちの目から、覆いが取り除かれ、心の目が開かれた瞬間でした。
弟子たちは、主に自分たちの罪を赦されたことを知りました。泣いて、悔いて、悔い改めた弟子たちに、主の赦しと愛が弟子たちを満たされた時、それまで隠されていたことが明らかにされたのです。
隠されていたこととは、イエス・キリストの十字架は、十字架の苦しみは、第二イザヤが語った苦難の僕の預言の成就であったこと、それは、背いた自分たちへの執り成しであったこと、その死は、自分たち、そしてすべての人の罪の身代わりの死であったこと。
弟子たちは、主の苦しみと十字架が、自分のためであったことを知った時、心の目が開かれ、聖書のすべてに目が開かれ、分からなかったことが分かるように、変えられたのです。
もともと人間の知恵には制限が与えられていて、神によって分からなくされていること、隠されていることがある。神の思いは人間の思いを超えている、という旧約聖書に於ける大原則を先に申し上げました。このことは、旧約聖書の時代のことであって、私たちは新約聖書の時代を生きる民ではありますが、それでも私たちは謙遜な思いを持って人間には神の領域を知り得ないことがある、ということを受け止めるものでありたいと思います。
私たちの生きる中に起こった出来事に対し、その意味が分からないと苦しむことがあるかもしれません。しかし、「分からない」という人間の思いを超えた、神の御心が必ずある。神は人間を遥かに超えておられるからです。悩みの中にあるとき、人間の知恵を遥かに超えた神の御旨があることにまず希望を置きたいと願います。
さらに、イエス・キリストを通して、主の十字架を通して、聖書を通して隠されていた神の救いのご計画が既に私たちには顕されていることを覚えたいと思います。それを私たち自身のものとして受け止めたいと願います。
それは、命を掛けた、神の愛。その愛は、罪人なる私たちが自らの罪を認め、悔い改めた時に、私たち自身のものとしていただけます。主の十字架が、私の罪の身代わりであったのだということを悟った時、弟子たちの心の目が開かれたように、私たちの心の目も開かれて、聖書と神のことがはっきりと分かるようになることでしょう。
そして、さらに、イエス・キリストが死を超えて、復活されたように、弟子たちが罪の苦しみを超えて、神の力を受け新しく生きる者と変えられたように、私たちの人生にも「分からない」ことを超えた、主のご計画、新しく生きる道が備えられていることに希望を見いだすことでしょう。
自らを省みつつ、主の十字架を一心に見上げるものでありたいと願います。そこから、私たちは分からない者から、分かる者へと変えられて行くに違いありません。