クリスマスは神の栄光が現れた日
クリスマスおめでとうございます。ところでクリスマスは誰のためにあるのかということを、私たちはクリスマスのたびに考える必要があると思います。まず第一にクリスマスは私たち一人ひとりのためである、ということを知らなければクリスマスの意味が分からないと思います。私たちに救い主イエス様が与えられた日です。神さまが私たちを愛してくださっているということを教えてくださったイエス様が生まれた日です。
しかしクリスマスにはもう一つ大事なことがあります。それはクリスマスは神の栄光が現れた日であるということです。母マリアとそのいいなずけのヨセフに天使が現れて、聖霊によってマリアに神の子が宿ることを告げられて、生まれたお方がイエス様です。クリスマスの夜に、天の大軍が「いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」と神を賛美した日、すなわち神が栄光をあらわされた日です。ですからクリスマスは第一に神さまのためであるといえます。
クリスマスの預言
救い主が生まれることは預言者イザヤの時代からイザヤが告げていました。イザヤ書11章にはそのことが記録されています。そこには「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。」と書かれています。エッサイはダビデ王の父親の名前です。そのエッサイからひとつの芽が萌えいでる、ということはまことの王が誕生することが告げられています。このようなまことの王がこの世に生まれるという神の約束は消えることはなく、そして約束どおりイエス様がお生まれになったのです。
貧しさにおける神の栄光
聖書記者ルカはイエス様の誕生の次第を皇帝アウグストゥスの治世に起きた出来事であると歴史にその誕生を記しました。住民登録が行われ、ヨセフとマリアはベツレヘムに旅をして、そこでイエス様がお生まれになりました。その誕生の次第は実に哀れなものでした。宿屋には彼らの泊まる場所がなく、やむなく泊まった家畜小屋で母マリアはイエス様を産み、飼い葉桶に寝かせました。
このことを聖書記者ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されました」(ヨハネ3:16)と記し、使徒パウロはフィリピの教会に宛てた手紙に「イエス・キリストは、天にあっては神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリ2:6-8)と記しました。
この世の誰が救い主のイメージとして弱さと貧しさを持った人を思い浮かべるでしょうか。まことの王であられる救い主ならば強さをまとった成人の大人としてこの世に現れると考えるのではないかと思います。そのお方は力によってこの世を支配されると考えるのが普通ではないかと思います。そんな人間の想像を超えて、イエス様は弱さと貧しさを身にまとってこの世にお生まれになりました。それは弱さと貧しさの中にいる人々の苦しみをすべて担われるためであります。
イエス様の貧しさ
讃美歌443番はこのようにイエス様を歌います。
1節、2節はイエス様がお生まれになった時の弱さと神の栄光とが歌われます。3節は「きつねには穴があり、鳥に巣はあるが、神の子の休まれる 寝床は荒れ野だ。」というもので、イエス様の地上の生涯がとても苦しいものであったことが歌われています。そして4節には「悲しみ悩む者を 解き放つイェスをゴルゴタで苦しめた 人の罪深さ。」と歌われ、人間の罪深さが告白されています。最後の5節は「天国に永遠の部屋を備えられ、勝利の主は私を みもとに呼ばれる。喜びにあふれて主のもとに行こう。」と歌われ、イエス様がよみがえられてこの世のすべてに勝たれて天に上られ、私たちを呼んでくださるという希望が記されています。
イエス様の一番弱く貧しいお姿は地上の歩みのすべてに表れています。このお方だからこそ、イエス様は私たちの苦しみを理解してくださいます。このお方が一番貧しくなられたから私たちは救われました。このお方が敵を愛しなさいと言われるので、私たちは自分を苦しめる者のために祈ることを知りました。
私たちのための神の栄光
神さまは私たちのために栄光を現わしてくださいました。その栄光とは全能の神がその身分を捨て、弱く貧しくなられることでした。神は力によって神の国を打ち立てられるのではなく、私たちの良心を呼び覚ましてイエス様に倣う者とし、神の国を打ち立てられるのです。そのようにして私たちを救い、この世を救ってくださいます。
今や世界は戦争や温暖化などによって闇が深まっているように思われます。そのような世にイエス様は突然、来てくださいます。神さまが私たちを愛しておられることをお示しになるために、一番弱く貧しいお姿でこの世に来てくださいます。神の栄光が現れる徴を私たちはこのようなところに見出さなければなりません。私たちの側にイエス様は来てくださいます。そしてこの世の闇を、また私たちの心の闇をまことの光で照らしてくださいます。