2023年1月1日礼拝説教「新しい年を神と共に」

聖書 コヘレトの言葉3章11節、マタイによる福音書25章31-46節

2023年の始まり

今日から主の年2023年が始まりました。今年がすべての人にとって良い年となりますように祈ります。今年も共に主を賛美・礼拝して日々を過ごしてまいりましょう。

さて、新しい年の初めに与えられた聖句は、何と終末の時の裁きを語る箇所です。新年早々に終末のことを考えるのはおかしい気がするかもしれませんが、新年だからこそ、キリストが再び来られる再臨の日のことを思い、そこから新らしい年の歩みを考えるのは相応しいことだと思います。

年始に主の再臨を想起する

本日与えられたマタイによる福音書25章31節から46節の箇所はキリスト者ならよく知っている箇所です。そこでこの個所を新鮮な気持ちで聞くことができなくなっているかもしれません。かつては感動した箇所が今では心に響かない、ということが往々にしてあり得ます。それは「既に知っている」という先入観に囚われている可能性があります。

この個所は道徳的な観点から解釈するならば「弱い人や虐げられている人に何かをすることはイエス様にすることだから、キリスト者はそのような人を助けなければならない」ということになるでしょう。はたしてイエス様はそのように語ったのでしょうか。

まずは、マタイによる福音書25章31節から46節の内容を確認したいと思います。イエス様は「人の子が来ると、すべての人を右と左により分ける」と弟子たちに言われました。人の子とはイエス様のことです。イエス様が再び来られる時にすべての人が裁かれるというのです。キリスト者も例外ではありません。私たちすべての者は神の前に一人で立たなければなりません。

右側には「祝福された人たち」が集められ、左側には「呪われた人たち」が集められます。祝福は神の守りや恵みのうちにおり、束縛から解放されることを指します。呪いはその反対で、神に守られず、恵みを受けず、束縛のうちにいることを指します。

最初の疑問

さて、この祝福と呪いは因果応報的に捉えるものでしょうか。すなわち弱い人々を助けて良い事をした人たちは祝福を受け、そうではない人たちは呪われ永遠の火に入れられるのでしょうか。この疑問に対して光を当ててくれるのは旧約の祝福と呪いの理解にあります。

旧約聖書の申命記11章13節から32節に祝福と呪いのことが書かれています。ここには「人々が主の戒めに聞き従うならば祝福を、人々が主の戒めに聞き従わず、主の道をそれるならば、呪いを受ける」ということが記されています。神は人々が主の道を歩み、そこから外れないようにと祝福だけではなく呪いによって守っています。主の道から逸れた者に呪いをかけるということではありません。イエス様がここで最後の審判によって人々を祝福と呪いに分けると語っているのも、旧約の祝福と呪いの理解と同じです。つまり「あなたたちは祝福のうちにいなさい」と人々を諭すだけでなく、「呪いの方向に行ってはならない」と戒めているのです。

2番目の疑問

そうすると次の疑問は、この信仰によって正しい人と認められることと、最後の審判との関係はどういうことかということになります。神を信じる信仰を与えられた人は弱い人々に心を寄せるようになるということがキーワードとなり、この二つを結びます。神を信じる人々にはキリストの恵みが注がれます。その恵みはキリストの苦しみというイメージで私たちに伝わるものです。コリントの信徒への手紙二の1章5節には「キリストの苦しみが満ち溢れて私たちに及んでいる。そのようにキリストを通して私たちの慰めも満ち溢れている」という言葉があります。また同じ文書の9章8節には「神はあなた方がすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ち溢れるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせる」という言葉があります。キリストの恵みは十字架の死に表れています。その恵みは私たちに及び恵みが私たちだけでは収まらず、周りの人にも及ぶというのです。神の審判を恐れるから善い行いをするという後ろ向きの信仰ではなく、キリストの恵みが私たちにあふれるから、私たちは善い業をおこなうように動かされるということです。

神の業をすべて見ることができない人間の限界を知る

一方、旧約聖書のコヘレトの言葉にありますように、私たちは永遠を思うことができるにもかかわらず、神のなさる業を最初から最後まで見ることは許されてはいません。これは最後の審判において私たちがどのように裁きを受けるかを知ることはできないということ。すなわち、どうなるかを心配しても答えは与えられないということです。キリストの審判は確かにありますし、その審判のときに神に正しい人たちあるいは呪われた者どもと審判を受けるのですけれども、私たちにはそれを知らされることはないということです。誰でも神に正しい人たちと言われて祝福を受けたいと願うでしょうが、どのように願おうとも知らされることはありません。私たちはこのことを受け入れなければなりません。このことを受け入れるならば、私たちは審判は神に委ねればよいということに気づくのです。もちろん私たちは呪われるのではなく祝福されたいと願うのですが、祝福されるために弱い人々を助けるのではないことを思い出さなければなりません。

文豪トルストイの童話

トルストイの有名な童話『くつやのマルチン』はこの個所を具体的なイメージとして私たちに示してくれます。靴屋のマルチンは独りぼっちで悲しい日々を過ごしていました。彼は聖書に慰められていましたが、ある晩夢の中でイエス様が「明日行くから待っておいで」と言われて、次の日、朝からイエス様を待っていました。しかし現れたのは雪かきでくたびれているおじいさんと赤ちゃんを抱えた女の人とリンゴ売りのおばあさんとリンゴを盗もうとして捕まった子どもでした。マルチンはこの人たちを家に招き入れてお茶をご馳走してあげました。その日に会ったのはこの人たちだけでした。暗くなって仕事をやめ聖書を読んでいるとイエス様の声が聞こえ、おじいさんや女の人やおばあさんや男の子は自分だったと言いました。マルチンは「夢ではなかったんだ。本当に、本当に、ワシはイエス様にお会いできた」と叫びました。マルチンの心は、喜びでいっぱいになりました。その時開いていた聖書の箇所はこの個所だった。こういうお話です。

マルチンはイエス様を待っていましたが、その間に現れた人たちを温かいお茶でもてなしました。マルチンがしたことはほんのわずかなことですし、それがイエス様だとは気づきませんでしたが、マルチンはイエス様をもてなしていたというお話です。

マルチンは聖書を通して慰められ、イエス様にお会いしたいと思い続けていました。それは不可能なことに思えましたが、イエス様はちゃんとマルチンの前に現れてくださったのです。マルチンの心にはイエス様に出会う前にキリスト・イエス様の恵みが満たされ、あふれていたのです。

さらなる黙想ー私たちの弱さ・不完全さとの対話

さて、キリスト者であっても助けを必要としている人がいることでしょう。キリスト者だってそのような状況になることはあります。そのような時でも弱い人を助けなければ祝福を受けることはできないのでしょうか。このことについて、キリスト者であっても助けを必要としているのであれば助けを求めてください。神に助けを祈り求めることはキリスト者に与えられている恵みです。きっと神は助けを与えてくださいます。そしてその人は再び弱い人を助けることができるようになります。

使徒パウロは牢獄に入れられていました。しかし彼は牢獄から多くの手紙を出し、各地の教会にいる人々を導き、慰めました。なぜ彼がこのようなことができたかですが、彼は牢獄にいてもキリストの恵みを溢れるほどに受けていたからだと言えます。このことから言えることは、キリストを信じる信仰は外的な状況に関係なくキリストと結ばれて豊かに恵みを受けることができると言うことだと思います。霊的に弱っているときは助けを求める、キリストの恵みによって霊が強められたならば、弱い人々を助けるということを繰り返せばよいのであります。神に喜ばれる良い業をおこなうことができないとしても、それが出来るように祈るならば神は祝福のうちにいさせてくださいます。

神を信じて善き業を為す日々は喜び

私たちは終末の裁きがあることを恐れることはありません。私たちは神のなさる業を見極めることは許されていないからです。それよりもキリストの恵みがあふれるほど私たちに注がれていることに目を留めたいと思います。その恵みは私たちの中だけでは収まらず周りの人々に良い業を為すことに向かいます。そしてもし霊が弱っているときは無理に良い業をおこなおうとせず、霊を強めていただけるように祈ってください。時が来ればキリストは必ず霊を強めてくださいます。その時にはキリストの恵みがあふれるほどに豊かに注がれていることに気づくでしょう。

私たちは新しい主の年2023年をこのようにして過ごし、神の民として共に主を賛美礼拝し続けたいと思います。