「主よ、見えるようになりたいのです」
イザヤ書11:1~10
ルカによる福音書18:35~43
先日、歌手のボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したニュースを読みました。所謂文学ではないポップスの歌の詩がノーベル文学賞ということで賛否がこもごものようですが、その受賞の理由が、吟遊詩人ホメーロスを例に挙げて「古くから詩人は、自身の作品が単に読まれるだけでなく、朗読などによって、聞かれること、実演されることを念頭に創作を行ってきた。ディラン氏も同じ」という、古代の詩人とボブ・ディランは同じという評価が受賞の理由だということを読みまして、ホメーロスは紀元前8世紀の人だったということを思い、それは場所と民族こそ違えど、旧約聖書の多くの文書が書かれた時代と同じ。そして旧約聖書の詩編は、礼拝で歌われるための詩だったのだということ、また聖書のすべては礼拝で絶えず朗読されてきていたことを思いました。朗読すること、歌にして奏でること、それらを印刷のない時代、聖書の民は絶えずそれをしながら、信仰を聞くことによって、内に蓄え、語り伝え、次世代また次世代へと長い年月語り継いで行ったのだということを改めて思いました。
そして、目の見えない人も、安息日にはユダヤ教の会堂=シナゴーグの礼拝に行き、御言葉を聞き、御言葉を心に蓄えつつ生きていたのではないか。特に目が見えないならば、耳に入って来る言葉は、鋭くその人を貫き、見える人よりも深く御言葉が体に刻まれていたのではないか、そんな風に、ノーベル文学賞から古代の詩人、そして信仰の言葉を「聞いて」生きるということに思いを馳せ、当時の人々の様子を思い描きました。
ルカによる福音書4章で、イエス様は悪魔の誘惑を退け、宣教の働きに出られたはじめ、会堂=シナゴーグの礼拝でイザヤ書61章の御言葉を目に留められ、朗読された御言葉は、「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」でありました。
「目の見えない人に視力の回復を告げ」―今日の箇所で語られている盲人、目の見えない人は、きっとこの御言葉も聞いて知っていたことでしょう。救い主が現れた時、自分の目は開かれるのだという夢というか希望を持っていたのではないでしょうか。そして、「ナザレのイエス」の噂を聞いていて、「ナザレのイエス」こそが、聖書で預言されていた油を注がれたメシア、王、救い主なのではないかと思い巡らせながら、道端に座っていたのではないでしょうか。
今日お読みしたルカ18:42でイエス様は目の見えない人に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。使徒パウロの言葉に「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ロマ10:17)という言葉があります。御言葉を聞き、信じて待つ信仰を、この人は持っていたのではないでしょうか。
さて、私たちのこの聖書は旧約聖書、新約聖書と分けられておりますが、旧約、新約の「約」というのは、神と人間に取り交わされた「契約」を表す言葉です。単なる「約束」「口約束」ではなく、破棄することの出来ないもの、非常に重いもの、それが契約です。
旧約聖書の中には、大きく分けて、ふたつ、神と人間との間に取り交わされた契約があります。ひとつはシナイ契約。出エジプトをしたイスラエルの民と神との間に取り交わされた契約。これは旧約聖書の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記に亘って記される律法に基づく契約。神が与えた律法を人間が守る、という条件つきの契約と言えます。
もうひとつの契約は、ダビデ契約と言われる契約です。これは、エルサレムと、ダビデ王の子孫との間に取り交わされた神と人間との間の契約。サムエル記下7章に記される預言者ナタンがダビデ王に告げた、いわゆる「ナタン預言」が基となっている、エルサレムを首都としたダビデ王とその子孫の王座が永遠に続くという契約です。この契約は、アブラハムに主なる神が「土地を与える」と言われ、主なる神とアブラハムとその子孫との間に立てられた契約とも結びつき、エルサレムとエルサレム神殿は、旧約聖書の民にとって、特別なかけがえのない場所となりました。
そして本日お読みした旧約朗読イザヤ書11章は、待降節=アドベントの時期によく読まれる箇所なのですが、巻頭に出てくる「エッサイ」というのは、イスラエルの王ダビデのお父さんの名前です。マタイによる福音書の巻頭の「イエス・キリストの系図」を見ますと、エッサイ、ダビデ・・・とあり、イエス様は、ダビデ王を祖先とした系図の中にお生まれになっていることが分かります。
このイザヤ書11章は、エッサイの株―これはオリーブの木を念頭に置いた言葉だと思います―からひとつの芽が萌え出でて、その根からひとつの若枝が育つと語られます。この若枝とはまさしくイエス・キリストを預言しています。
先日、幕張に行きましたら、樹齢100年のオリーブの木というのが売られていました。背は1メートルくらいだったでしょうか。幹は古く、枯れた木にしか見えないのですが、枯れたように見える枝から新しい若枝が芽生えていました。また、土からも新しい枝が見えていました。通常樹木は年月が経つと、中が年毎に年輪が出来て、太くなり、年輪を見れば樹齢が何年であるか分かるわけですが、オリーブの木は不思議な木で年輪は出来ず、時間と共に中が空洞化して、見た目には枯れた木のように見えるのですが、そんな枯れて死んでいるかのように見える枝や根から不思議に新しい芽、新しい命が芽生え、何百年も中には2000年も生きている木があるほどに、死なない不思議な木なのだそうです。そのようなことから、オリーブの木は永遠の命を表すとも言われているそうです。
そのようにエッサイの株からそのまままっすぐに伸びて大きくなったのではない、子孫と言っても、一旦枯れたように思える枝や根から萌えいでる新しい命である若枝、それがイエス・キリストであり、その上に主の霊がとどまる、とイザヤは預言しています。
この意味で、「ダビデの子」という言葉は、イスラエルの王座を継ぐものであり、「ダビデの子」とはメシア=救い主の王座と同じ意味です。さらに神の主権がその上にある、「救い主」という特別な意味のある言葉なのです。
この「ダビデの子」という言葉を、今日お読みしたルカ18章の、エリコ近くで物乞いをしていた目の見えない人が、イエス様に向かって叫んでいるのです。
先週は、イエス様一行が、低地よりエリコを通って、エルサレムへ上って行く、まさにその時にイエス様が弟子たちにエルサレムでこれから起ころうとしている、御自身のご受難を予告されたけれど、12人の弟子たちはイエス様の言葉の意味が「隠されていて」何も分からなかった、彼らはまだ自分たちの罪を知らなかったのだ、ということをお話しさせていただきました。
そしてルカは、このところからイエス様が一歩一歩エルサレム―十字架に架けられるところであり、また、ダビデ契約ではとこしえの都とされる町―へと、御自身の死を見つめつつ歩みを進めておられる道を、その場所を語りつつ、緊迫感を持って伝えていきます。
そのようなエルサレムへの道のりのはじめにイエス様が出会ったのは、エリコ近くの道端で物乞いをする目の見えない人でした。
イエス様の周りにはどれだけの人が取り囲み、共に歩いていたことでしょうか。この目の見えない人は、道端で物乞いをしながらそのどよめきに驚き、「これは、いったい何事ですか」と尋ねます。尋ねられた人は、「ナザレのイエスのお通りだ」と答えます。
ナザレとはイエス様の育たれたガリラヤの町。「若枝」という意味の町と言われています。エッサイの根から生え出でた「若枝」を思い起こさせる名前の町。イエス様はそこで育たれました。苗字が無い時代ですので、イエス様は「ナザレのイエス」と呼ばれており、また「ナザレのイエス」という呼び名は、多くの奇跡を行う人の名前として、知れ渡っていたのでありましょう。「ナザレのイエス」という呼び名は、イエス様がどのようなお方かという本質を突いた呼び方と言えます。
そしてこの目の見えない人は、「ナザレのイエス」の評判を知っておりました。イエス様がどれだけ奇跡を起こされ、多くの病人を癒し、悪霊に取り付かれていた人を解放されたか、その評判を聞き、この人は、「ナザレのイエスこそが聖書で預言されている救い主」、見えない目を開いてくれる、公正な裁きをなすお方だということを思い描き、お会い出来る日が来ることを夢見て待ち望んでいたに違いありません。
そして遂に、その時が来たのです。
それを知って、この人は叫びます。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と。「ナザレのイエス」こそが、エッサイの若枝、「ダビデの子」、預言者イザヤが預言した救い主、メシア、「その上に主の霊がとどまり」、「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」お方であることを、この目の見えない人は、信仰によって見抜き、道端から叫んだのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と。
しかし、この人を、イエス様と共にその道をゆく人々=弟子たちは、この人を叱りつけて黙らせようとします。18:15で、イエス様に触れていただくために、人々が乳飲み子を連れてきた時に、弟子たちがそれを叱ったことと同様です。福音書は、イエス様の弟子たちの高慢な態度で弱い人々を排除しようとする罪の姿を、随所に描いています。
しかし、この目の見えない人はひるみません。ますます「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、叫び続けます。「ダビデの子よ」という叫びは、信仰告白とも言える叫びです。この人はとにかく、待ち焦がれていた救い主ダビデの子が、自分のところに近づいてきた時、全力で名を呼び、求めたのです。
イエス様に向けられる問いかけが答えられずに、そのままにされることは決してありません。この叫びはイエス様の耳に届きました。イエス様は、羊飼いが自分の羊の声を聞き分けることが出来るように、ご自分を本当に求める人々の声を聞き分け、その声に耳を傾け、立ち止まられるお方です。求めるものに応え、さらによいものを下さるお方です。
主は、その目の見えない人を側に連れてくるように弟子たちに命じます。弟子たちは面倒だと思いつつしぶしぶ彼を連れに行ったのでしょう。しかし、主イエスの思い、目は、人間の目の留めるところにはありません。主は道端に、追いやられた片隅に目を留められるお方です。そして、この目の見えない人は弟子たちに連れられてイエス様の前にやってきます。
イエス様はお尋ねになられます。「何をしてほしいのか」と。
この人は答えます。「主よ」と。この「主よ」という言葉は、「キュリエ」=神に対する尊称と言える言葉です。この人は、イエス様を神、主と呼んでいます。そして申します。「目が見えるようになりたいのです」。
その言葉に対し、イエス様は言われました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と。すると、この人はたちまち目が見えるようになりました。「癒し」があって、この人の信仰が起こされたわけではありません。信仰があって、信仰のあるところに神の力は働かれました。
癒しが先にあって、信仰が起こされる場合も有り得ましょう。この時、イエス様の周囲には多くの群集がおりましたが、この人たちのほとんどは、イエス様のなされる不思議な癒しの業を見て、癒しが先にあって、信仰が生まれたと言いましょうか、そのような人々です。そして、もうすぐエルサレム。すべての人が、イエス様を裏切る時がやってきます。癒しやさまざまなしるしが先にあって生まれた信仰というのは、弱いのです。ただご利益を求めるご利益信仰になりかねず、神との人格的な関係は生まれず、神を賛美するのではなく、自分に与えられたご利益を賛美し、ご利益がないと思えば見限る、そのようなことになり兼ねません。それは信仰とは言えません。43節の最後に「これを見た民衆は、こぞって神を賛美した」とありますが、民衆がここで見たのは、目の見えない人が見えるようになったという癒しの業です。癒しを見たから、ほめたたえました。それでは弱いのです。
この目の見えない人も神をほめたたえましたが、この人は、自分の訴えに神が応答されたことを体で知っています。イエス様の憐れみを受けました。神の憐れみは、主を求めて止まない人、そして罪人、弱さの中にある人に顕されます。また、当時、目が見えないことも含む病とは、その人や祖先の罪の問題と密接に関わりのあることでありました。病は罪のためと言われるこの人はどれほど苦しんだことでしょうか。
しかし救い主を待ち望む信仰をこの人は既に持っていた。「目の見えない人に開放を与えてくださる」救い主を待ち望んでいた。そして、救い主に出会い、自分のすべてをさらけだして叫び、その叫びへの答えを、癒し、という救いの業を通して得ました。
目が見えなかったのが見えるようになる、この出来事は、目の見えないこの人にとって、目が見えるようになったという癒しにとどまらず、この人の全存在の回復でありました。罪の赦しの宣言を受けたことでもありました。
この人はただ、力の限り、神に感謝し、神をほめたたえたのではないでしょうか。神が生きておられることを全身で知り、与えられた癒しをご利益としてほめたたえるのではなく、自分の人生の傷みと苦しみと叫びを聞き届けてくださった神をほめたたえたのです。この人は、主なる神との人格的な交わりにすっぽりと入れられました。そして、イエス様に従ったのです。十字架へと向かわれるイエス様の道を、道端にいた人が立ち上がり、その道を歩み始めたのです。
これ以降、この人がどうなったか記されておりませんが、エルサレムに向かうこの箇所で、この出来事が起こったことを思う時、他の群衆や弟子たちのようにイエス様を見捨てて逃げるということはしなかった、そのように思えます。
この出来事は、イエス様の宣教のはじめのガリラヤの会堂=シナゴーグで、読まれた「目の見えない人に視力の回復を告げ」というイザヤ書の御言葉が成就した出来事であり、イエス様こそがイザヤ書の御言葉によって預言されていたメシア、救い主、ダビデの子であるということが明らかにされた出来事であったとも言えます。そして、これからイエス様は、御自身の死、十字架へと向かって進んでいかれます。十字架の死の先にあるものは、復活。新しい命。旧約聖書、イスラエルからはじまる、すべての人への福音、よき訪れ。これが新約聖書の契約の意味です。
イエス様は、私たちの叫びを必ず聞いてくださるお方です。主はダビデの子、神の御子、神御自身であられます。私たちが困難や悲しみ、悩みの中にある時、誰にも言えないことも、私たちはどこにあっても、祈りのうちに主に語りかけ、また叫び求めることが出来るのです。その心の声を主は必ず聞いてくださり、私たちをもっと主の近くに引き寄せ、この目の見えない人に「何をしてほしいのか」と尋ねられたように、私たちの祈りの内側に語りかけてくださることでしょう。
ただ、イエス様にこそ、という信仰を私たちも持ちたいと願います。主に向かって叫んだなら、必ず答えがあります。自分の願った願いとは違う答えが与えられることもありましょう。癒されないと思うこともあるかもしれない。しかし、祈って与えられたものは、すべて神から来るものです。このことを覚えていただきたいと思います。私たちの祈り、叫びには必ず、神からの答えが顕されます。信仰をもって、神に主イエス・キリストに向かって、求め、願い、祈るものでありたいと願います。神は、主を求める私たちのその存在の根底から回復してくださるお方であるからです。
主にひたすら信頼し、求める信仰を堅くいたしましょう。主は私たちの叫びを聞いておられます。