聖書 創世記12章1~4節、ヨハネによる福音書3章16~21節
神さまの愛はしみとおる
ついこの前まで寒さに震えていたのに、急に暖かくなり春本番となってきました。ここに供えられているお花は私たちに春を告げているようです。木々が芽吹き、草花も緑の葉を茂らせてきました。まるで太陽の光が木々や草花に沁み通って命を育んでいるようです。讃美歌21の171番に「神さまの愛はしみとおる」という歌があります。1節から4節まで「かみさまのあいは しみとおる、わたしたちのこころに ひのひかりのように」という言葉が繰り返され、それぞれの節で、山や川などの自然や、動物や、すべての人間に向かって「賛美の歌を歌おう」と呼びかけます。
これを作詞した佐々間彪(たけし)神父はこの歌詞について、「こどものころ、縁側に干した布団の上で猫と一緒にひなたぼっこをしていると、太陽の光と暖かさが身にしみるようで、うとうとしてしまいました。この歌は、このような幼児体験をもとにつくりました」と記しているそうです。「日の光と暖かさが身にしみる」ように「神さまの愛は私たちの心に沁みとおる」という感覚をお持ちの方は多いのではないかと思います。
神さまの愛を受け入れる人
創世記12章の神とアブラムとの出来事に聞いてまいりましょう。後にアブラハムと呼ばれるようになるアブラムに主が語った言葉は、今いるところを離れて私が示すところに行きなさいというものでした。神さまはアブラムに、あなたを大いなる国民にする、あなたを祝福する、あなたの名を高める、といった具合に約束します。この約束は神さまの愛であるとは書かれていませんが、神さまは人間を造られた時に祝福されましたから、私たちを愛しておられることは明らかです。愛さない者を祝福することはないからです。神がアブラムに「その地にとどまっていることなく私が示した地に行くように」と命じたのはアブラムによってすべての氏族が祝福されるためでした。アブラムは自分がしたいことのために神さまを求めたのではなく、神さまの求めに応じる道を選びました。
新約聖書のヨハネによる福音書3章16節から21節には神さまの愛の大きさが福音書記者ヨハネの格調高い言葉で証しされています。16節には「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と書かれています。神は世を愛されました。そして今も愛しておられます。どのくらい愛されているのか。それはご自分の独り子をお与えになったほどです。その理由は何か。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を持つためです。
ルターはこの個所について語った説教のひとつで次のように言っています。「キリスト者はまずこの言葉を暗唱できるようになることである。そして毎日、自分に向かってこれを語り聞かせることである。そのようにしてこの御言葉が私たちによく通じるようになる」。この御言葉は初心者のための言葉である、などとルターは考えていません。生涯を通じて毎日、自分に向かって語りかけなければいけない御言葉だというのです。
なぜか。それは私たちが「ただ信仰によって」これに堅く立つならば、必ず悲しみの心に喜びを与え、死んだも同然な人間に命を与える御言葉だからです。
この言葉は土気あすみが丘教会のホームページのトップに表示されています。ホームページを訪れた人がこの言葉によって「もしかしたら自分も愛されているかもしれない」と思って教会の玄関を入って来てくれることを願っています。それは、その人が神さまに出会い、神さまに愛されているということを知って元気になってもらいたいからです。「神は愛です」(Ⅰヨハ4:16)。神が愛であることは、しかも条件なしに愛してくださることはイエス様の誕生から十字架の死に至るまでの全生涯が指し示しています。
神さまの愛を拒否する人
しかしルターは次のような説教もしています。「ここに食べ物を与えてもらえないと飢え死にしてしまうほどの人がいる。そこに一人の紳士がやって来て、その人が飢えないようにしようとした。しかもそれに対して何の報酬も求めなかった。ところがその窮乏の人はこの申し出を断った。こんな人はいないでしょう。せっかくの申し出に条件は何もありません。ただ受ければよいのです。私たちの父なる神さまはその独り子という高価な贈り物を私たちに与えようとしてくださる。しかし人はその申し出を断る。それが私たちの現実です。神さまのこの愛の申し出を受け取らない人々がいる。それはほかならぬ私たちだ」、とルターは言うのです。
イエス様の16節から21節までの言葉は神の愛を示していますが、ここにイエス様が十字架におつきになることが暗示されています。神さまの愛を受け取らない人々によってイエス様は十字架につけられました。誤解され、犯罪人とされ、罵られ、愛されることなく排除されてしまいました。
讃美歌21の171番は神さまの愛が心に沁み通ってくることを感謝して神さまをたたえる讃美歌です。しかし、もし心に遮へい膜を被せるならば神さまの愛は私たちの心に沁みとおってはこないでしょう。そして心の中にあるものも神さまや他の人に沁み出すことはないでしょう。
会社員は企業戦士と呼ばれ仕事は戦闘に譬えられることがあります。周りは全て何らかの意味で敵です。あるいは人の世話にはなりたくないと言い張っている人がいるかもしれません。企業戦士と呼ばれる人も一人で生きている自立した人も見事な人たちと言えるかもしれませんが、その人たちは愛を受け入れることができないのかもしれません。愛の奉仕をしたことがなく奉仕する喜びを知らないからかもしれません。人の世話にならないというのは立派なことのようでいて、実は孤独で辛いことなのです。大丈夫という人を助ける人はいません。そのように、神さまの愛を受け入れない人は自ら深刻な孤独の中にいるようなものです。
愛する人のためなら苦しくても生きられる
アウシュビッツ収容所から生還したフランクルは『夜と霧』という本で、「収容所での死と隣り合わせの体験の中で、人々が夕陽を見てその美しさに我を忘れて見とれていたこと」を記しています。灰色の収容所生活の中、この美しさがどれほど人々に力を与えたことでしょうか。自分がいつ飢えて死ぬかという中にあって、他者にパンを与えるという気高い行為をした人もいたと証言しています。
フランクルはある人にこう言います。「人生から何を期待するかではなく、人生が私になにを期待しているかが問題なのだ」と。フランクルのこの言葉を聞いた男は外国に子どもを残していました。父親である彼が強制収容所で死んでしまうと、子どもはかけがえのない父親を失ってしまうことになります。フランクルの話によりそのことに気づかされた男は、「自分が生き抜くことが子どもにとって絶対に必要なことなのだ」と思い直し、自殺を踏みとどまるのです。愛する人の存在を思い出し、彼は「生きる意味」に気づいたのです。そして、人生から期待されていることに全力で応えていく生き方をしました。
この言葉を私は「神さまから何を期待するかではなく、神さまが私に何を期待しているかが問題なのだ」と置き換えて自分自身に問いたいと思います。神さまが私たちを愛してくださっている。そして神さまは私たちに期待しておられる。愛するがゆえにです。私たちは愛するお方のために生きるのです。私たちが生きるのは、もはや、自分のためではありません。私たちを愛してくださるお方のためです。
イエス様は人間として肉体を受け、その十字架の苦しみと死によって人間の罪をあがないました。イエス様の死ほど意味のない死はありません。しかしその十字架の苦しみと死によって人類の罪をあがなったのです。使徒パウロはこう語っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラ2:20)
神さまと共に生きる
今や、神さまの愛が私たちの心に沁みとおってきました。その愛は神さまが独り子をこの世にお与えになるほどの大きな愛です。今日、私たちはその大きな贈り物を要らないと思い、神さまのお世話にはならないとあたかも自分一人で何でもできる気持ちになっていないか省みる時を与えられました。世界もそのように省みる時を持たなければなりません。特に指導者たちが神を忘れて自分勝手なことを行って、多くの苦しむ人や悲しむ人が生まれてしまいました。
私たちが『神さまから何を期待できるか』を問題にするのではなく、アブラムが神さまの御旨に従って故郷を旅立ったように、『私たちを愛しぬいてくださる神さまは何を私たちに期待しているか』を問題にするならば、自ずと神さまの愛が私たちの心に沁み通ってきて、私たちは生きる意味を与えられるのです。